83 執拗に反復する低音
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”プログラム21番 成田愛” ”バッハ作曲 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ パルティータ第2番ニ短調 シャコンヌ”
名前を呼ばれステージ袖から出てきたのは、これまで出てきたような華やかな衣装の演奏者ではなく、見慣れた制服姿で髪を一つくくりにしただけの成田サンだった。
楽器を持っていなければ、ステージ上のマイクを直しに来た係の人か何かに見えるほどのさりげなさでステージ中央まで歩いてくる。以前の彼女ならステージに出てきた瞬間に女王の風格が漂う、そんな威圧感のようなものがあったはずなのだがそれがまるでない。
そういえばさっきのアナウンスで「無伴奏」と言ってただろうか。ピアノ伴奏者の姿はなくステージ上には彼女一人きりだ。元々小柄な方だが、ロングドレスではなく単なる制服姿なせいもあり、今まで出てきた演奏者の誰よりも小さく見える。おまけに一人。
これまでが、さすがお嬢様学校という感じの豪華絢爛衣装の数々だったので、ステージ上の寂しさというか華やかさのなさが半端ない。
そんな中、相変わらずの綺麗な姿勢でお辞儀をして拍手を受けると、リラックスしてるのか、なんとも読みづらい表情のまま肩当てに白いハンカチを当て、楽器を構えた。
が、関係者や観客が、違和感を抱きつつ、ハラハラして見ていたのはここまで。
柔らかい響きが自慢だという木製の講堂に、響き渡るヴァイオリンの重音。 重なり合った音は、すべてが最後までお互いと寄り添った美しい形のまま空間へ消えていく。
執拗に反復する低音の上に展開するメロディは、フォルテの迫力はもちろん、ピアニッシモでも会場後方までレーザービームのように突き刺さる。
ヴァイオリンというのは、こんなにふくよかで、透明感のある音を出す楽器だったのか、と、今までの自分の中の常識をひっくり返された気分だ。
ステージには彼女一人。
そのただ一人の少女が、 今、この空間を支配している。
崇高な神へのレクイエムを聴いているような、、、いや、何かとてつもない現場に立ち会っているような、どうしようもない高揚感がそこにはあった。
2年前にここで体験したのは、成田愛という存在自体から発せられる音楽へのエネルギーへの感動だった思う。
そして、今、ここで体験しているものは、もっと違う。さらに、その先に進んだ世界だった。
こんなに深い部分での精神性を宿した楽曲を、オレは今まで聴いたことがない。 今の彼女にとっては、演奏家の個性だとか、主張だとか、そんなものはどうでも良いのだ。
フレーズが終わるごとに訪れるほんの少しの無音。 これだけたくさんの人間がいる中、衣擦れの音くらいしても良さそうなものだが、誰一人身じろぐ者はいなかった。音の余韻を全て聴き逃すまいと、ものすごい集中力でステージに見入ってるのだ。全員がこの世界に飲み込まれている。
長いような、短いような、そして息苦しいほどの緊張感と、わけのわからない高揚感を観客全員にこれでもかというくらい叩きつけ、彼女の演奏は終わった。
最後の一音の余韻が消え、会場が静寂に包まれ、そこからどのくらいたったのだろうか?
我に返った観客が、一人、二人と拍手をはじめ、最後には割れんばかりの拍手の渦となる。
さっきまで壮大な世界が構築されていたはずの会場は現実世界に戻り、ステージ上には制服姿の成田愛がこじんまりと立つのみ。さっきと違うことと言えば、スポットライトに照らされたその首筋に、キラリと汗が光っていることぐらいだろう。
彼女はしばらく会場を見渡すと、鳴り止まない拍手の渦の中、ペコリとお辞儀をしてステージを後にした。
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