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 私は東堂くんのことが好きだ。隣の席にいて休み時間に延々と東堂くんの話を聞いて、昼ごはんを一緒に食べて、授業が一緒なら移動する間も喋って、時にどうってことのないメールが届いて、返信して、それで意識せずにいられるわけがない。
 相当ちょろい女だなあとは自分でも思うけど、もうとっくに東堂くんに依存してしまっている。明日席替えがありませんようにと毎日祈っている。なぜかあの二人で帰った土曜日の別れ際に東堂くんが「よし、これからはオレが毎日送って行くぞ!」と言い出したために、私は今日から東堂くんの部活が終わるまで図書室で待つことになっている。そして帰り道に聞いて初めて知ったのだけど、自転車競技部の人たちは基本的に寮で生活しているらしい。

「だから心配せんでも大丈夫だ! 部活のやつらにはちゃんと言ってある」
「い、言ったの…!?」
「む? 何か問題があるか?」

 ただでさえ隣の席というだけで毎日お昼ごはんを一緒に食べて何かと話をしていて周りからあらぬ噂を立てられているというのに(東堂くんは全然気づいていないようだけど)、毎日一緒に帰るようになればもう勘違いされても弁解するのが難しいんじゃなかろうか。いや、私は勘違いされていても困ることはないけど、東堂くんは…とか、いろいろと考えて頭を抱えていた私に「では、部活が終わったら図書室に行くからな。先に帰ることのないように」と言い残して東堂くんはさっさと部活へ行ってしまった。
 東堂くんと一緒に帰るのは楽しいし、嬉しいし、何も不満なことはない。でも、私は少し東堂くんに甘えすぎているような気がする。

「もっと頑張らないとなあ…」

 ただぼーっと、本のページを弄ぶだけの無駄な時間を過ごす。ドイツの物理学者であるハイゼンベルクが発表した不確定性原理についての話。不確定性。数字で、あるいは厳密な仮定に基づく考えによって全てを記述し解明できるとしていた科学をゆるがしたもの。しかし私にとっては、確かなものなど何もない。物理学者が計算に基づいて構築した量子論も、決定論も、それを体現しているとされている世界でさえも、不確かなものでしかない。適当にめくったページの一文がふと目に入る。

『科学的真理の力は強大であっても、万能ではない。』

 そりゃあそうだ。私が東堂くんと出会って今こうして図書室で待つようになったことが必然であるか偶然であるか、どれくらいの確率で起こったかなんて、ある程度計算することはできてもそれが絶対正しいとは言い切れないのだから。東堂くんが今私のことを考えている確率、0.0000015934%。適当に考えたけどそれが合っている可能性だってなくはない。だから何って話だけど。
 うとうとして目を閉じて、それから東堂くんの夢を見た。東堂くんは誰かと喋っている。私はただそれを見ているだけ。嬉しそうに話す東堂くんを見て、胸が痛くなる。夢の中の誰ともわからないその「相手」に、私は強く嫉妬していた。声に出さないまま、じっと見ているだけのくせに。

『東堂くん』

 小さな声で呼びかけても、彼は私の方を振り返らない。聞こえないから。もしかすると、聞こえているけれど振り返らないのかもしれない。きっと、東堂くんじゃない人に同じことをされても私は何とも思わないはずだ。それが今こんなにも苦しく感じているのは、私にとって彼の存在が誰よりも大きいから。

「東堂くん」

 呟いたその声を、誰も聞くことはない。私のただの独り言。

「尽八なら職員室行くから遅れるってよ」
「…………え?」

 現実に引き戻すように誰かの声が耳に入って、瞬時に目が覚める。机に伏せていた状態からがばりと起き上がると、見覚えのある人が私の目の前に立っていた。

「…しんかい…くん?」
「そうだよ」
「……」

 ぼーっとしながら時計を見る。五時四十五分。閉館を知らせるオルゴールが鳴っていることに気づいて、私は急いで席を立った。鞄に本とノートと筆箱をつっこんで、乱れている髪型を軽く直す。その間、新開くんはじっと私を見ていた。観察という言葉がぴったり当てはまるその視線に居心地の悪さを感じて、仕方なく口を開く。

「新開くんはどうしてここに?」
「本借りてたから返しに来たのと、尽八の姫さんがどんな子か興味あったから来た、ってとこかな」
「ひ…」
「あれ、彼女じゃないのか」
「ち、違います!」

 ぶんぶんと頭を横に振って否定すると「そこまで否定しなくてもいいだろ」とおかしそうに新開くんが笑った。東堂くんの笑い方とはちょっと違う、大人っぽい笑い方。
 それ以上会話が続くでもなく、ただ気まずい沈黙が流れる。用事は終わったはずなのに、新開くんはどうして寮に帰らないんだろう。オルゴールが止まる。司書の人に促されて、私と新開くんは図書館の外に出た。ぱたぱたと、廊下の向こうから聞こえてくる足音。運動部の女の子たちがギリギリに校門に向かっているのか、それとも。できるならこの沈黙を破ってくれる、彼の足音であってほしい。そんな私の小さな願いを聞き届けてくれたのか、曲がり角から姿を見せたのは東堂くんだった。

「待たせたな苗字! …隼人と一緒だったのか」
「お、尽八。用事は終わったみたいだな」
「ああ。ちゃんと部室の鍵は閉めておいた。それよりおい苗字、頬に袖のあとがついているぞ。寝ていたのか! オレがいぬ間に!」
「ご、ごめん……昨日あんまり寝てなくて」
「いかん、いかんぞ! 誰が見ているかもわからん場所で無防備に寝ては危ないではないか」
「うん」
「んじゃ、俺は先帰っとくよ。また後でな、尽八」
「ああ」
 
 ひらひらと手を振って下足室の方へと階段を下りていく新開くんの背中を見送りながら、東堂くんは不可解そうに首をかしげていた。

「隼人と何を喋っていたのだ?」
「いや、特に…。東堂くんが用事で遅くなるからって…あれ、東堂くんの伝言じゃないの?」
「確かに頼んだが。……いや、なんでもない。それよりも急いだ方がいいな。あと三分だ」
「えっ」

 慌てて時計を見れば確かに東堂くんの言うとおり、五時五十七分を示していた。それから全力でダッシュをして、息を切らせたまま校門を過ぎる。東堂くんは走った後でも全く息を切らすことなく「今日の練習では真波といい勝負ができてな」とペラペラ喋っている。そんな何気ない彼の話が、二人で歩く帰り道が、たまらなく愛しいものになっていた。




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