足枷

 それが愛だとか恋だとか呼ばれる類のものだと認める気にはなれなかった。俺にとって苗字名前という女の子は特別な存在ではなかったし、今でも、傍にいないからといって不都合なことは一つもない。でも、大学でなんとなく付き合い始めた彼女に「高校の頃は好きな子とかいなかったの?」と聞かれ、今と同じようになんとなく付き合っていた元カノの顔よりも先に名前の顔が思い浮かんだのは少しだけ困った。

『新開くん』

 いつだって俺を呼ぶ声は他のどの女の子よりも小さくて、その癖妙に耳に残るものだった。どうかした?と聞くと、呼んでおきながら俺の反応に戸惑うような顔をしていたことを覚えている。何の話をしたかなんていう細かいことはほとんど覚えていないのに、どうしてだろうか、そうした時の何か言いたげな目は忘れられないままだ。
 少なくとも名前が俺に対して抱いていた感情は好意的なものではなかった、と思う。言葉の端々、目が合った時の気まずそうな表情、そして何より名前がいつも視線を向けていた先から答えは簡単に導き出せる。

「隼人ぉー」
「ん? ああ、ごめん」
「そんなに考え込むほど好きな子だったの?」

 咎めるような声にふと我に返って顔を上げると、さっきの問いを発した彼女が俺をじっと見ていた。俺が不毛な昔のことを思い出している間に相当退屈していたのか、ふてくされてカフェオレを一気に飲んでいるのが単純でかわいらしい。

「いや、違うよ」
「本当? あやしー」

 この子ともあと何か月続くだろう、下手したら数週間ってところかもしれない。さばさばしていて俺がデートに遅刻したりプレゼントを忘れたりしても笑って許してくれる器の大きい子だが、それでも今までの女の子と同じように最後は「もっと私のこと考えてよ」と怒って別れを切り出してくる気がする。俺のこれまでの経験上、元カノや昔のことを聞いてくる女の子は特にそういう傾向がある。それは彼女たちが悪いわけじゃない。捨てるべきものを捨てられない俺の落ち度だ。
 ただ、彼女に対してだけは、どうしてもまだ気持ちの整理がつけられないままだった。

「好きとかそういう単純な気持ちじゃあなかったんだ」
 
 小さく呟いた言葉は、誰に届くこともなく消えていく。好きだったら、もっと近づこうとしただろうし、もっと彼女のことを知りたいと思ったはずだ。でも、俺は、これ以上近づいて彼女を知りすぎることを怖いと思っていた。俺に近づこうとしない彼女に近づいて自分がどうにかなってしまいそうなことが。
 俺の中にあったそれは恋と言えるほど甘いものじゃなかった。むしろ逆だ。この先もきっと解けないで俺について回る、もう解いてくれる相手は消えてしまった、とてつもなく厄介な足枷。




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