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 いてもいなくても構わない存在だと思っていた。
 自分が誰かに必要とされることを期待することはとうにやめていたし、他人のために何かをするよりも自分のやりたいことに没頭している方が向いている気がした。今もそう思っている部分は大きい。でも、今は少しだけ、自分のできることをやってみようと前向きになれている。

『今日明日に返事しなくてもいいから、まあゆっくり考えてみてくれよ』

 と、今井くんから言われているものの、放課後には返事をするつもりだった。悩むことにばかり時間を取って、他のことが手につかなくなるのは困る。ここで言う他のこととは、東堂くんのことではなく、委員会の事でもなく、まして新開くんのことでもない。

「中間試験はドイツとイタリアの統一から第一次世界大戦まで出しますからね。一夜漬けしようとしたら大変だから、今のうちにちゃんと覚えておくように。このあたりの話は今のヨーロッパを理解する上でも重要なポイントなんで、サボったら後々に響くと思っておいてください」

 そう、新学期で浮かれたり戸惑ったりしている間に近づいていた中間試験である。
 箱根学園では高校三年生に対して先生が厳しい課題を出すということは少ないけれど、テストで赤点を取ったり赤点でなくても先生が見て低いと判断される点を取ってしまった場合は地獄の補習と課題プリントの山が待っている。
 誰もがそれを避けるために必死で勉強するため、テスト前には図書館が異常なほど混む。委員の私も他人事のようにそれを眺めていられるわけもなく、テスト前は委員活動や部活動が禁止になるという事情もあって、家で勉強することにしている。当然今回もそうするつもりだった。

「ほんっとごめん苗字、ノート貸してくれないか!? 世界史ほぼ寝ててノート取ってなくってさ、周りもそんなかんじっぽくて」

 授業が終わって日本史選択生が戻ってきた瞬間に教室に飛び込んできて土下座せんばかりの勢いでノートの貸し出しを頼み込んできた今井くんを見るまでは、だ。世界史選択生がさほど多くはない私の学年の中では、ノートの貸し借りも必然的に限られた人としかできない。今井くんから頼まれるのはこれで五回目になる。

「今井、そんな情けないことを言わずに自分で何とかしてみようとは思わないのか?」
「いや俺だって頑張ってみようとは思ったけどさぁ。あの先生の声聞いてると眠くなってくるし、世界史だと国はすぐ滅んで他の国になってるし、芸術家の名前とか誰が誰だかわからなくなるし…要するに俺一人の力じゃ太刀打ちできないんだよ! 苗字のノート読んだら平均点以上は取れるし!」
「清々しいまでの他力本願ぶりだな」

 呆れた様子の東堂くんにとってはテスト直前になって必死になる人の気持ちは理解しがたいものらしい。普段からきっちりしているから、東堂くんがテスト前に他人を頼ったり赤点を取るようなことはまずないのだろう。
 東堂くんが言いたいこともわかるけれど、ほぼ暗記科目と言える世界史で「わからない」というのは致命的だ。今井くんにノートを貸せない理由もない。授業が終わっても開いたままにしていたノートから下敷きを抜いて、今井くんに渡す。

「…テストの三日前までに返してくれたらいいから」
「ありがとう!! マジで助かる! テスト終わったらなんかおごるよ」

 涙を流さんばかりにそう言われると、私のノートにどれだけのパワーを期待しているのかとちょっと引いてしまう。笑顔で手を振りながら教室を出て行った今井くんがなんだか輝いて見えた。
 私は何となくいいことをしたような気がして悪い気はしなかったのだけれど、東堂くんはあまり納得がいっていないような顔をしていた。

「全く……苗字は優しすぎるな」
「貸さない方が良かった?」
「いや、今井はあれで赤点を回避できるだろうから、結果としてはいいんじゃないか。ただ…世界史で困っている奴がもう一人、そろそろ来る頃合いかと思ってな」
「え?」

 誰のことなのか東堂くんに聞こうとしたら、「ほら」と若干億劫そうに東堂くんが教室の扉のあたりを指さした。まさか、と思ったそのあまり当たってほしくない予想は、当たってしまう。

「名前、世界史選択だったよな? 範囲さっぱりわからねえからノート借りたいんだけど」

 そこから姿を見せて今井くんとは対照的に余裕のある表情で余裕のない頼みごとをしてきたのは、新開くんだった。

「…ああ、なるほど」
「隼人に関しては世話を焼かなくていいぞ。あいつには少し苦労をさせねばならん」

 深刻そうにため息をついている東堂くんを見ていると、「そうだね」としか言えない。仮に赤点を取っても周りが怒ったり嘆いたりするだけで新開くん本人はケロッとしていそうだなと思ったのは秘密だ。




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