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 私が箱根学園を選んだ理由は家から近いという単純なものだった。特別偏差値が高いわけでもなく、がっちがちの進学校でもない私立の高校。入学するにあたって部活や新しい出会いへの期待などさほどした記憶はない。

「名前も、もっと変わったことをしてみたらいいのに」

 一年目、中学とほぼ同じ生活を送る私を見て母はそうため息をついたものだった。早くも遅くもない時間に家を出て、淡々と勉強をして、図書館で本を読むなり委員の仕事なりをしてから日が暮れる頃に家に帰る。自分が定時で帰って布団にもぐるサラリーマンより味気のない生活を送っている自覚はあったけれど、それを改めるつもりはなかった。
 東堂くんと毎年同じクラスだったのにさほど話す機会がなかったのは当然の結果と言える。私が多少なり人付き合いが良ければ、自転車競技部に関係なくとも東堂くんと話すことはいくらでもあったはずだから。今も、成り行きに任せているだけでさほど私の態度が変わったとは言えない。でも昔よりは少しだけ前向きになったとは思う。福富くんから直々の呼び出しとはいえ、いつもなら図書室にいるであろう放課後にこうして自分から進んで自転車競技部の部室にやってくる気になる程度には。
 二回ノックをすると、向こうから「どうぞー」という軽めの声が返ってきた。男の人の声だったけれど、誰なのかはわからない。緊張しながらゆっくりとドアノブを回して中に入る。部室には福富くんとあと一人、見覚えのある人が座っていた。
 
「おっす、苗字。久しぶりだな!」
「…い、今井くん? どうして……」
「んー? だってオレ自転車競技部だし」
「え…」

 今井くんとは一年生の頃から図書室で何度か喋ったことがある。というのも、毎回彼が何かの調べもののために来ていて、委員の私にいろいろと聞いてきたからだ。人の名前を覚えるのがあまり得意でない私も、何度も会うたびに「いい加減覚えてくれって! 今井だよ!」と言われれば嫌でも覚える。
 だけど彼が自転車競技部の部室にいるのはミスマッチな感じがした。ピレネー山脈の高度と斜度だの箱根の地名の由来だの変わったことばかり調べていたから、てっきり新聞部所属なのかと思っていたのだ。

「知らなかったのか!?」

 愕然とした様子で言われても「ええっと…」と言葉を濁すほかない。特に運動部の事情に詳しいわけでも特別興味があるわけでもない私が知っているわけがないのだが。助け舟を期待しつつ福富くんに視線を移すと、今のやりとりを聞いていたのかどうかさえ疑わしいほどに表情が一ミリも動いていない福富くんと目が合った。
 
「…あ、あの」
「座ってくれ」
「はい……」

 福富くんの一言には東堂くんとは違った意味で従わざるを得ない気にさせる力がある。一番ドアに近いところにあった椅子に腰を下ろして、荷物を抱えた。ものすごく空気が重い。今井くんがいなかったら何か理由をつけて逃げ出していたところだ。

「その、私は一体何をすれば…」
「え、福富説明してなかったの? なんにも?」
「お前から話した方がわかりやすいだろう」

 あっさりした福富くんの言葉に「丸投げかよ」とぶつくさ言いつつ、今井くんがちらりと私を見た。

「うーん、まあ頼むことって言ったらオレの助手みたいなことなんだよ」
「助手…?」
「広報みてーなこと。でもオレ、知ってると思うけどあんまり調べものとか文章書くのとか得意じゃなくてさぁ。卒アルとか来年の勧誘とかでやっぱいろいろ必要になるから、できたら手伝ってくれない?」

 聞いてみれば単純な話だった。
 自転車競技部に限らず、運動部は必然的に大会の成績や活躍の様子などを学外への広報や新入生の勧誘に使うことになる。三年生の私たちで言えば、卒業アルバムなどでも取り上げられることになるだろう。データや文章はいくらでも必要になる。部によっては選手が全てやっていることもあるだろうし、マネージャーがある程度手伝う部も多いだろう。ただ、部員でも何でもない外部の人間に頼む部はほぼないと思う。

「えっと…それって、マネージャーの人がやることじゃないの?」
「どいつも忙しいの一点張りでな。地味な仕事だからやりたがる奴もいなくって」
「そう…なんだ」

 今井くんがいつも図書館で調べていたことも、そういった広報活動に必要な情報だったんだろう。そういう事情なら私に頼んできたのもわかる気がする。私としても、マネージャーの業務をやってくれと言われるよりは引き受けやすい。東堂くんや新開くんと教室の外で関わることには少し抵抗がなくもなかったけれど、広報の手伝い程度ならそれほど話すこともないはずだ。

「ぜひ引き受けてくれ! ……って言いたいとこだけど、いきなりだし苗字にも都合があるのはわかってるから、あとは考えて決めてくれ。良かったら見学とかしてく? いいよな、福富」
「ああ。構わない」

 よく見ていないとわからない程度にわずかにうなずいた福富くんの了承を得て、私は今井くんに引きずられるようにして部室から外へ出た。




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