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 経世済民――世を治め民を救う。それが経済という言葉の語源であり元来はどのようにして人が住みやすい世の中にするかということを目的とした学問なのだという耳障りのいいことを社会の先生が話している間に、クラスの三分の二は睡魔によって意識を持って行かれていた。アダム=スミスもケインズも、まさか自分の死後数百年後に遠い異国の学生が机に伏せながら自分の業績を耳にすることになるとは思っていなかっただろう。
 無意味に長い先生の話がニューディール政策にさしかかったところで、私も周りの皆にならって不真面目になることにした。それなりにきっちりと書いていたノートに肘をついて授業と関係ない別のことを考える。

 例えば、私の隣でノートをとらずに机の上を見つめている東堂くんのこと。
 東堂くんがぼうっとしているのは珍しい。いつ何時もきっちりノートをとっているというタイプではないけれど、クラスの大半の人よりは先生の話を聞いていると思う。東堂くんのノートは要点が簡潔に書かれていてわかりやすいから。でも、考えていることはあまりわからない。私はてっきり新開くんが何か東堂くんに吹聴したのかと思っていたけれど、私の態度の変わりようを目の当たりにした昨日の新開くんの様子を見る限りではそうではなさそうだった。

『どうしたんだ、急に』

 新開くんの驚いた表情は何度か見たことがあるけれど、あれほど動揺しているのは初めて見た気がする。あれが素なのかと思うと少し微笑ましい。
 じゃあ東堂くんはどうしてあんなことを言い出したのか。彼は意味のないことをする人ではないから、そこには必ず何か理由がある。彼の言葉を信じるなら、「隼人のため」。ただ、私は彼がそこまで新開くんを心配して世話を焼いていることに引っかかっていた。それも、本人に気づかれないところで。何かがずれていた。いつだったか、新開くんが教室に来たときに感じたものと似ている。
 巻き込まれている。最初は新開くんの思い描くプランに、と思っていたけれど、それだけではなかったらしい。それが誰にとって都合のいいことなのかはさっぱりだ。

「…という理屈で需要と供給の均衡点が決まるわけだ。わかったか。中間にここ出すからな」

 心持ち小さめに出された先生の声を聞いて、教科書の該当箇所にペンで「テスト出る」とだけメモっておく。私のように、平均点を上回ることだけ目指している生徒はこういう地道な行動を積み重ねておく必要がある。テストなんて点数だけ取れればこっちのものだ。
 
「来週からテスト一週間前だ。テスト直前になって慌てないようになー。……まあ、半分以上の奴は寝てるから聞いてないが」

 呆れたような先生の言葉をすっきりした頭で聞いた人は十人にも満たないだろう。チャイムが鳴る前に、先生はご丁寧に黒板を消して帰って行った。変なところで子供っぽい先生だ。私は特に困らないけれど、ほぼ寝ていた人は後々苦労することになるはずだ。世の中は些細なタイミングと運の違いで人の運命を分ける。

「苗字、すまないがノートを少し見せてもらえるか?」
「…あ、うん。はい」

 その点、あらゆることのタイミングを間違えない東堂くんは強い。東堂くんにノートを貸すとは思っていなかったから、雑に書いてしまっていたことを少し悔やむ。あまり色ペンも使っていないから、見づらいに違いない。文句一つ言われないことがわかっていたからこそ恥ずかしかった。

「先生が、その均衡点のとこテストで出すって言ってたよ」
「おお、そうか。ありがとう、助かる」
「……」

 ノートを写して受け答えもしつつ、それでも東堂くんが上の空なのは授業中からあまり変わっていなかった。私がそれを気にしていることを察したのか、東堂くんは写す手を止めずに何でもないように言った。 

「少し考え事をしていてな、あまり授業に集中できなかったんだ」
「…部活のこと?」

 少しの間。
 答えを考えるためというよりは、何かを躊躇っているような。

「ああ」

 その答えが嘘なのかどうかは今の私には判断がつかない。ただ、そう肯定したときの東堂くんの表情がそれ以上聞かないでくれと言いたげだったから、私は何も言えなかった。前髪をいじりながら東堂くんがさらさらとシャーペンをノートの上に走らせる。何も聞けないで、何も知らないまま。それでいい、と思うのは、自分の意気地のなさを責めたくないから? もちろんそれもある。でも、それだけじゃない。
 東堂くんが今、答えを躊躇したことで私に一つだけメッセージをくれたから。

 『今は』話せない、と。




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