鏡花水月 | ナノ

知らぬ神より馴染みの鬼

一:5/7 夜勤明け

――真選組はこの件の管轄から外れる

他部署との連絡係を担っていた土方さんから、自分を含めた隊長格にそう通達があったのは数刻前、深夜の時間帯だった。どうやら例の婦女暴行事件に進展があったらしい。
この件に関しては今朝の朝刊で小さく“首謀者逮捕”と載るそうだ。そしてそれを遮るように一面をデカデカと飾るのは大手財閥企業の横領問題。こうやって他に紛れて、いつしか日常に埋没して、何事もなかったかのように忘れ去られていく。それは都会の長所であり短所なのかもしれない。

通常業務に加えた夜間の私服パトロールで、ここ数日間は本当に忙しかった。土方さんが副長らしく中間管理職に追われていたため、指揮系統は隊長クラスで分担していたほどだ。そんな中、局長の近藤さんは完全に自由行動だった。しかしまぁ、それは想定の範囲内。こういう時の指揮やら多部署との連携やらは土方さんが担うことが多いのは今に始まった話じゃない。
あの二人とは最近、仕事のスケジュールの関係であまり顔を合わせていない。だが夜中に土方さんの部屋の前を通りかかった時、何やらコソコソとっつぁんと電話していた事は知ってる。俺達とは別管轄の方で動きがあったのだろうと思っていた。そしたらそこに案の定、土方さんからの例の通達が舞い込んだのだ。

うちの隊士の誰かが星をあげた、なんて知らせは少なくとも俺の所へは入って来ていない。それどころか、尻尾を掴んだという話題すら上がっていない。つまり今回、真選組はこの事件とは全く関わり合い無しのまま手を離れるという事。
ラッキーだと思う。俺と似たような思考のやつは多い。正直に言ってしまえば、皆あまり気合いを入れて捜査なんてしていなかったのだ。人手を割いてパトロールするくらいまでなら請け負ってやっても構わない。だが、もし犯人逮捕なんて手柄を上げようものならば、またどこぞやからの圧力が掛かることが目に見えている。こちとら他管轄の尻拭いをしてやってる身だというのに、口うるさいお偉方のしがらみに巻き込まれるなんてまっぴら御免被りたい。それが本音なのだ。

朝刊の件については、まるで何かを隠すために用意されていたような筋書きに些か疑問も感じてはいる。とはいえ、新しい被害者も無し、俺への実害も無しとなればこれ以上関わる必要のない話。触らぬ神に何とやら、というやつだ。

一応世間的には“春の見廻り強化”と名目を掲げていたため、残りの連休中の夜間パトロールは継続ということになるらしい。

「それにしても良かったっスね〜沖田隊長ォォオ!!犯人逮捕されたみたいで!!!」

そんな夜勤明け。先ほどまで薄暗かった空も、もう日が昇り青白くなってきた。屯所への帰路を歩いている俺たちとは真逆で、今から働き始める人間は起床時間、もしくは身支度を始める時間帯だろう。

「……声がでけえ」
「沖田隊長とこうして一晩明かすことが出来なくなるのは残念ですが!!!!」
「……神山、何でそんな元気なわけお前」

同じ一番隊ということもあり、こいつとペアで回ることも多かった。俺としてはお前とこうして朝日を迎えると疲労が溜まって仕方ないので早く通常の業務量に戻って欲しい。

「沖田隊長がいるなら24時間365日!!!一分一秒も欠かすことなく、この声量でいけまス!!!!」
「……俺のいないところでやってくれない?頼むから。お願いだから」

神山のデカい声が脳天を揺らす。仮眠はしているとはいえ夜勤明けだ。最近纏まった規則正しい睡眠を取れず寝不足で、少し過敏になっているのか耳にもキンキン響いて不愉快極まりない。

(マジでうるせぇ……)

誰かこいつを黙らせてくれ。がっくり肩を落としながら、そんな無意味な願いを込めた深いため息を吐く。視線を地面の砂利から再び前方に戻すと、こちらに向かって歩いてくる女が目に入った。

(あれって、)

顔をギリギリ視認できる距離。肩より長い髪を下ろし、ロンTにスキニー、スニーカー。かなりカジュアルな格好をしているが、あれはナマエちゃんだ。
早歩き……とまではいかないが、はんなり歩いている着物姿の女と比べれば些か早い。そんな足並みは、足捌きが良い服装だからなのか。それとも単に急いでいるからなのか。

(……全然目ぇ合わねえな)

頭のてっぺんから爪先まで確認できる程度には彼女の方に目線を投げているつもりなのだが、一切交わる気配がない。徐々に近づく距離に彼女の表情がハッキリと見えて来る。

(……何だ?)

その表情に、少し違和感を感じた。そしてついに、一度たりともこちらを見ることなく横をスッと通り過ぎていった。

「…………」
「あれ、沖田隊長?どこ行くんスか?」
「先帰ってろ」
「え、隊長ー?!」

神山の声を無視して踵を返し、今来た道を戻る。そしてその足が追うのは、今しがた通り過ぎていった彼女の背中だ。
先程までよりも自分の踏み出す一歩が大きいのは気のせいではない。それは別に、浮足立って気持ちが急いているわけでも、無視をされて苛立っているわけでもない。

(どちらかというと、)

これは、焦りの感情だ。

「ナマエちゃん」

残り5歩程度、といったところ。背後から声を掛けてみるものの、返答がない。周りに歩行者はほとんどおらず、いても朝早くからやっている店の開店準備をしている人間がちらほら軒先に見える程度だ。活気のピークではないこの静かな朝の時間帯に、名前を呼ばれてピクリとも反応しないとは一体どういう事なのか。

(……マジでどうした?)

耳にイヤホンをしていなかったことも確認済み。元より、無視をされているとは思っていない。むしろそうであれば追いかけたりしていない。それらを踏まえた上でこうして声をかけている。大股で一歩、二歩、三歩。それで簡単に手の届く距離まで追いつく。

「ナマエちゃん」

もう一度名前を呼びながら、トントン、と指先で軽く彼女の肩を叩く。そのまま肩を掴み、横からずいっと顔を覗き込んだ。

「ひゃっ、」

驚いたように小さく声を上げて立ち止まると、胸の前でグッと握り拳を作って肩をすくめた。顔に影が出来るほどの距離まで近づいた今、ようやく視線がかち合う。

(……やーっと気付きやがった)

先程までは暗い床に転がったビー玉みたいだった眼球が、自然光を取り込む。見開かれた黒目には驚きが隠せておらず、潤んだその瞳いっぱいに俺を映している。たった今、夢から覚めたばかりだとでもいうかのように、見知らぬ人間を見るような目つき。少し怯えの色を含んでいるその表情を見ているのは、正直悪い気はしない。

(あの顔されるより、よっぽど良いや)

目の前の俺を視界に入れているフリをして全く別の光景を見据え、その光景に瞳の奥を揺らし、悲しそうに笑うあの顔は苦手だから。

「……びっくりした、」

完全に油断していた、とでもいうようなリアクションから、俺の存在に微塵も気付いていなかったことがわかる。その証拠に、俺だと視認したその瞳から警戒の色が薄まっていく。安堵したようにため息を吐くと同時に、縮こまってきゅっと上がっていた肩の力が抜ける。それを確認した俺はその華奢な肩から手を降ろした。少し背中を丸めていた自分の姿勢を元に戻すと、覗き込んでいた彼女の顔とも自然に距離が離れる。

「総悟くん、」

すとん、と語尾が深く落ちるように俺の名を呼ぶと、握り拳を胸の前から下へ降ろす。スッと背筋を伸ばし、緩めた手のひらを腹の前で組み直して姿勢を整えるナマエちゃん。

「おはようございやす」
「……おはようございます」

目を軽く細め、柔らかく微笑みながら言葉を紡ぐその立ち居振る舞いは、もうすっかりいつも通りの彼女だ。

「そんなにビックリしやした?」
「知らない人かと思っちゃって、」
「何回か名前呼んだんですぜ?」
「あれ、すみません。全然気付きませんでした」

謝罪の言葉を口にはしているが、そこにわざとらしいオーバーリアクションなどは一切なく、単調な話し方の彼女。耳にキンキン響いていた神山の不快な声とは大違いだ。静かな朝に馴染む耳心地の良い声色に、何となく緩い解けたような空気感が漂う。
先程までの驚き様と打って変わって、柔く握った手をあごに添え、その口元は薄ら弧を描いている。随分と切り替えの早いところを見ると、普段からこうやって呼び止められる事もあるのだろう。

(それも、知らない奴に)

仮に慣れていたとしても、不安そうな仕草をしていたことから怖がらせてしまったのは確かだ。そのことに罪悪感が湧くのは、何となく脳裏にあの店主夫妻の顔が浮かぶせいかもしれない。しかしそれと同時に、腹の奥底からじわりじわりと浮上してくる別の感情の存在に気付く。

(でもまぁ、俺じゃなくてもそうだろうな)

俺だと視認してから見せた、安堵の表情。それに優越感が湧きそうになるが、おそらく他の常連客であっても同じリアクションをするだろう。そう気付くと、上ってくることを諦めた感情はゆっくりと底へ沈んでいく。

今まで見てきた限りでは、彼女はあの茶房の誰に対しても平等に物腰は柔らかい。ただ、その中でもあの店主夫妻に対しては少しだけ違った表情を見せる。目の前の女が歯を見せて大口を開けて笑っている所は見た事がない。
だが、楽しそうにしている時は頬肉が上がり、笑い皺なんて出来なさそうなきめ細かい白い肌の目尻の延長線上に少し線が入る。本人が気付いているかどうかは知らないが、たまにおばちゃんの笑顔に釣られてそうなっているのを見る。

確かに、女ってのは笑顔の裏に隠してしまうのが上手い。しかし、だからといって全てが偽物というわけではないのだ。
愛想笑いを張り付けている場面もあるとは思うが、会話の内容によっては困り顔にもキョトンとした顔にもなるし、真顔の時だって勿論ある。時折、心臓が抉られるほどに見てるこっちを不安にさせてくるような、そんな笑顔も向けて来る。
機械的にずっと同じような笑みを張り付けているわけではない。そう考えると、案外表情は豊かな方なのではないだろうか。だからこそ普段の笑顔に胡散臭さを感じないし、声を掛けたのが俺だと認識した途端に緩んだその表情は演技でも偽物でもないと思える。

(だからこそ、なんだよなぁ……)

さっき俺の横を通り過ぎていった時の表情も、紛れもなく本物ということだ。こうして呼び止めた理由もそこにあるのだ。

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