Fly In The Sky! | ナノ

04


は、は、と朝の静かな街に俺の呼吸が響く。季節的にはもう暖かい時期だが、朝はやっぱり冷え込む。けど、それがいい。少し薄着で、走っていくうちに体が温まるくらいがちょうどいい。
俺はどちらかというと走るより飛んだりはねたりするほうが好きだが、好き嫌いは言ってられない。体がなまる方が嫌だ。
体を上下させるのに従って、俺の尻のポケットにいれられたものも上下する。それは、家を出る前に大守さんに渡された彼女の携帯だった。



「んじゃ、行ってくるわ」

玄関で大守さんに買ってもらったシューズを履く。着ている服ももちろん、買ってもらったものだ。姿見で自分の姿を見ると、見慣れない服のせいで俺じゃないみたいだった。
俺を見送るために玄関まで来た大守さんが、眉を寄せて心配そうな顔をする。

「本当に大丈夫? 泣かない?」
「だから泣かねーって!」

ぎゅっと寄せられた眉の下で口元を覆っているので、完璧に俺をからかって遊んでるんだと判断した。多分笑いをこらえてるんだろう。
薄々感じてたけど、この人は俺で遊ぶのが好きだ。わざと顔を寄せてきたり、スキンシップを多めにとったりする。俺だって一応、つーか正真正銘男だから、それなりに綺麗な人に近付かれて照れないわけがないし、つい顔を背けたくなる。そんな俺を見て、大守さんは楽しんでいるのだ。今だって、さり気なく俺の手を包み込んでるし。

「でも本当に迷子になったら電話してね。変質者に襲われちゃやだよ」
「そこまでやわじゃねーって」

けど心配してくれてるのは本当らしく、何度も何度も念を押される。最終的には俺の腕を掴んで離さなさそうな勢いだ。
俺はそっと大守さんの両手から手を引き抜き、借りた携帯がズボンのポケットに入っていることを確認した。

「んじゃ……、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」

ドアを開けると、外の明かりが大守さんの姿を照らし出す。笑顔で小さく手を振る彼女に、俺も笑って手をふり返した。



そして今、俺は昨日野球をした辺りを走っている。グラウンドの隅に水飲み場があったのを思い出し、水分補給に来たのだ。本当はただの水よりスポドリの方がいいが、文句は言ってられない。そのスポドリ代は俺が払うんじゃなくて、大守さんが払わなくちゃいけなくなる。出来るだけあの人には金銭的な迷惑をかけたくない。
特徴的な緑のフェンスを見つけ、俺は走るスピードをあげてそちらに向かった。昨日とは違って、グラウンドには誰もいなかった。しかし入り口は開いていたので、そこから中に入る。しんと静まり返ったグラウンドを踏みしめ、隅に設置されてある水飲み場へと向かった。
じわりとにじむ汗が風で冷える。けどそれが心地良い。日向は太陽の光が直撃してぽかぽかしているが、木陰に入るとひんやりとした。
ざくざくと雑草を踏み、灰色の石で作られた水飲み場に手をついた。キュッとハンドルをひねると、上向きになっている小さな蛇口から水が溢れ出た。透明なそれは太陽に反射してきらきらとしている。顔を近づけ、噴出する水をわずかに開けた口に含んだ。冷たい水が、少し火照って熱い体に染み込む。味はないが、単純においしいと思った。
ある程度喉をうるおした俺は、再度あたりを見回す。側には小さな木製のベンチがあり、ちょうど木陰になっていた。時間もけっこうあるし、一休みしていこうと思いそちらへ向かった。
踏みつけてしまわないようにポケットから携帯を取り出し、ベンチに座る。手の中のそれは、滑らかな表面が光を受けて輝いていた。それが女の人の、大守さんのものだと思うと、軽量タイプなはずなのにずっしりと重く感じる。

「……なんつーか……うん……」
無性に、俺が持ってるということに罪悪感がわいた。
見てはいけないとわかっているが、中を見たくないと言えば嘘になる。むしろすごく見たい。
なんつーの? 見たら駄目なものってすげー見たくならねえ? 俺だけかもしんねーけど。
つるつるの表面を爪でカツンと軽く弾いてみる。
いつも大守さんが持っているものを、俺が持っている。なんだか不思議だ。俺にしてみれば携帯なんて他人にそうそう渡せるもんじゃない。別に中に見られたらまずいものがあるとかじゃなく、高価なものだし、友達の電話番号やアドレスがたくさんつまっているから、それこそ侑士にだって易々と渡せない。つーか侑士には渡したくねえな。なんとなく。
まぁ、そんなおよそ他人に預けたくないような携帯を、あの人は俺に渡した。警戒心が薄いのか、あるいは俺を信用してくれているのか。後者だととても嬉しい。嬉しいが、携帯を見たい気持ちが強い分、罪悪感が凄まじい。
白い携帯を指先だけで持ちあげ、まだそう高くない位置にいる太陽に重ねて見た。傷が少ないそれは、あまり使われていないように見える。ただ、大守さんの性格を考えると、使い方が丁寧なのかもしれない。俺が雑にあつかって傷だらけにするタイプだから、それならとても尊敬する。
摘んでいたのを両手に持ちかえ包み込んだ。折り畳み式の携帯の表面には、小さな長方形の画面が横断していた。メールの受信を知らせたり、時刻を表示するための画面である。眺めていると、そこに【09:00】の文字が浮かび上がる。
9時か、と思った瞬間、手の中でピピビピピとけたたましい音が鳴り響いた。

「うわっなんだこれ! アラームか!?」

思わず立ち上がる。
ピピビピピ、と鳴り続ける携帯。自然に止まるタイプではないらしく、俺の手の中でひたすら9時を主張した。
ピピビピピ。アラームのボリュームはかなり大きめに設定しているらしく、なかなかやまない大音量に近くの木に止まっていたらしい鳥達の飛び去る羽音が聞こえた。
どうしよう。どうしよう。止めるにはどうすりゃいいんだ。ピピビピピ。開くか。開くしかないのか。開いていいのか。開いちゃうのか、俺。でもこれで開けて中見ちゃっても仕方ないよな。怒られないよな。俺悪くないよな。ピピビピピ。
うんうんと一人なっとくし、緊張で汗をかいた指を携帯にひっかけた。ピピビピピ。

「……いざ!」

パチンっと二つ折りの携帯を開いた。
液晶にはアラームを知らせる画面が開かれている。そこに示してあるとおり、決定ボタンを押してアラーム音を止めた。

「……」

しばしの静寂。
お知らせ画面が閉じられた今、携帯の待ち受け画面が表示されてある。それを見つめながら、俺は、フリーズした。
太陽に照らされて少し暗くなったその画面には、笑顔をこちらに向ける一人の男が表示されていた。




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