Fly In The Sky! | ナノ

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お風呂からあがり、服を着、濡れた髪をバスタオルで拭きながら脱衣所を出た。リビングに行く前に冷蔵庫を開け、冷えたサイダーを取り出す。プシッと勢いよくプルタブを開け、ぐびぐび飲みながらドアを開けた。目の前のベッドでは、私がお風呂に入る前と同じ体勢で寝る向日君がいた。ぐっすりだ。今日1日いろんな事がありすぎて疲れ果てたのだろう。
呼吸をするためにこちらに向けられた寝顔はまるで天使だった。天使そのものだった。力の抜けきった寝顔で、ほっぺたがうにょっと潰れたせいで口が少し開き、今にもよだれを垂らしそうだった。それは勘弁なので私はうつ伏せになった彼の体を仰向けにし、頭の下に枕を敷いてやって顔の角度を上向きに固定した。やりすぎだろうか。
ともあれ私は座布団に座り、サイダーの続きを飲んだ。テレビのついていない部屋は静かで、向日君の穏やかな寝息だけが響いた。
今思えばこの子はよく私を信用したと思う。あの時はここが異世界だという意識があまりなかったからだろうか。昼間の向日君の警戒っぷりといったらなかったし、最初からあの状態な向日君に「家に泊まれ」と言っていたら、きっと拒絶されていただろう。一方的だがある程度夢の中で私と会っていたり、ある程度会話をして顔見知りになっておいてよかった。今、彼が寝ているのがどこか汚い場所じゃなくて、私のベッドでよかった。
まぁおかげで取ろうと思っていた仮眠が取れなくなったのだが。寂しくないから良いか。いつもこの時間は一人で静かに晩酌をするので、人の寝息が聞こえるのはかなり新鮮だ。他人が部屋にいる事以上に新鮮だ。しかも男の寝息なんてこれ以上ないくらいに新鮮だ。
とはいえ彼はまだまだ幼いし、中性的というか女顔なのでドキドキはしたりしない。ドキドキしたとしても、彼の寝顔を写真に収めたくてドキドキする。子どもの寝顔は本当に可愛いものだ。しかし彼はまだ出会って一日も経っていない子なので、撮りたくても、脳内に「盗撮」の二文字がよぎって邪魔をする。仕方がないので写真は諦めた。
空になったサイダーの缶をぐしゃりと潰し、ベランダにある缶用のゴミ箱へ突っ込んだ。
髪を乾かしに行こうとドライヤーを引き出しから取ろうとした時、部屋の隅にいくつかのショッパーが並んでるのを見つけ、向日君の服をまだ整理していないことを思い出した。
自分の髪を触る。肩上のボブヘアなため、既に乾き始めていた。髪を乾かすのを止め、服の整理を優先しようと持っていたバスタオルを洗濯機に放り込んだ。
クローゼットの中を確認する。右端にある収納ボックスの中身が少ないので、それをなんとかすれば向日君の服が入るだろう。
ショッパーとクローゼットを見比べ、もう少し買いたい衝動を押さえればよかったと苦笑いした。


服をしまい終え、私はバイトに行く準備を始めた。
軽く化粧をし、髪を整える。服は何を着てもどうせ制服で隠れてしまうので、お洒落ではないが見苦しくはない程度に整えた。
丸テーブルの上に未開封の歯ブラシを置く。歯磨きをせずに寝てしまった向日君が起きた時に、歯ブラシがないと困るだろうからだ。念のため使用許可の旨のメモを書き、歯ブラシの下に敷く。
鞄を背負い、家の鍵を持ち、明かりを豆電球だけ点けてリビングを出た。台所の換気扇とガスの元栓がしまっているのを確認する。
ふと思い立って、向日君が寝る部屋に向かって言ってみた。

「いってきます」

もちろん返事はない。ただ言ってみたかっただけだから、別に返事はいらなかった。だが。
靴を履いてドアノブに手をかけたとき、薄いドアの向こうから小さく「おう」という声が聞こえた。
思わず表情筋が弛緩したまま出勤してしまったのは、仕方がないことだろう。



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bkm