おれとフラグと10cm | ナノ

ぶつかる


 次の日の朝、おれとクロはごく普通に挨拶を交わした。昨日のことはなかったことにするらしい。おれも何も気にしてない風を装ったけど、頭の中は昨日見た三宅あきひの表情と、彼女の足の裏の空間10pのことでいっぱいだった。多分、それはクロにちょっとバレてるんだろうなと思った。

 朝練もいたって普通に行った。集中しろとクロに叱られることもなかったし、むしろいつもよりリエーフが怒られていた。

 朝練後が問題だった。
 いつも通り教室に向かう際、自分の足先に固定されるはずの視線があっちこっちに動いて大変だった。つい三宅あきひを探してしまう。もしかしたら、おれが彼女の秘密を見てしまったがために、もう一度口止めしにくるかもしれない。そう思うと、あたりが気になってしかたがなかった。
 別に怖いわけじゃない。ただ、もう一回浮いてるのを見たいなあと思った。

「どうした研磨?」

 ひょい、とクロに顔をのぞき込まれる。おれは「別に、虫が」とだけ答えた。確かにおれたちの周りには春を歓喜するように飛び回る虫がいた。
 クロはふうんと言って、その虫を両の手のひらで叩き潰した。何も知らずに斜め前を歩いていた夜久さんがびっくりして振り返ったけど、クロが手を払いながら「虫、虫」と笑うとすぐに笑ってまた前を向いた。

「ほら、潰してやったからちゃんと前見て歩け」
「……うん」

 こくりと頷いて前を見ると、クロは満足したのかして小さく頷いた。

 放課後、おれは部活のために着替えをしに部室へ来たはいいけど、教室に今日出た課題を置いてきてしまったことを思い出し、ジャージに着替えるクロに「忘れないうちに取りに行ってくる」と声をかけた。「練習には間に合えよ」と言われたのでおれは一度だけ深く頷き、部室を出た。
 校舎内はこれから帰宅しようとする人や居残りをする人でまだ賑わっていた。ジャージに着替えてなくてよかった、と思った。音駒の男子バレー部のジャージは赤くて目立つから、少し嫌だ。
 いそいそと教室に向かうと、中にはまだ数人のクラスメイトが輪になってたむろしていた。ちょっとびっくりして入口で立ち止まってしまう。そんなおれに気がついたクラスメイトが、輪から体を少しずらして「忘れ物?」と聞いてきたので、慌てて視線をはずし「うん」と頷いた。彼らはそれきりおれには興味をなくしたのか、元の輪に向き直りさっきまでしていた話題の続きに戻る。
 ほっと息を小さくつき、自分の机に向かう。中を覗くと、ああ、あった。
 中からプリントを引っ張り出し、おれはクラスメイトの輪の横を急いで通り抜けた。廊下へ飛び出たあと、後ろから「部活頑張れよー」と声が聞こえた。それを聞いて、彼らに一言挨拶をするべきだったと思ったけど、なんと言えばいいかわからないし、わざわざ戻るのも面倒だと思った。結局返事はしなかった。
 プリントを片手で持ったまま走るとピラピラして持ちにくいから、両手でプリントを抱きしめるようにして走った。それがいけなかった。
 先を急ぐおれは、曲がり角を曲がる際、大きく膨らまずに最短距離をスピードを落とさないまま曲がった。しかしその角の向こうには運悪く人がいて、あっと思ったときにはもうその人とぶつかっていた。両手はプリントを抱きしめるのに使っていたから、とっさにうまくバランスが取れず、かっこわるいけどおれは盛大にしりもちをついてしまう。
 衝撃と恥ずかしさでしばらく動けないでいると、おれとぶつかってしまった人が慌てているのを視界の隅で感じた。どうやら相手はこけなかったみたいだ。おればかりがひ弱みたいでなんかショックだったけど、その相手の顔を見てそんな気持ちはすぐに飛んでいった。
 三宅あきひだった。
 三宅あきひはおれを引っ張り起こそうとして手を差し伸べてはいるが、その体はへっぴり腰で、今にも方向転換をしてしまいそうだった。どうやら、ぶつかってしまって申し訳ないという気持ちと、彼女の秘密を知るおれから逃げ出したいという気持ちで揺れているらしい。
 おれは小さくため息をついて自力で立ち上がった。三宅あきひがおずおずと手を引っ込める。

「だ、大丈夫……?」

 ズボンのほこりをはたいていると、どもりながらそう聞かれた。うん、と頷いて顔を下に向けたときに、彼女の足が視界に入った。しっかりと両足で床に立っていて、おれはまた残念に思った。
 おれが足先を見ていることに気がついたのかして、彼女ははっと弾かれたようにおれから距離をとる。おれもつい彼女から距離をとってしまって、膠着状態になった。なんだか妙なことになったなあと思った。おれはただ、プリントを取りに来ただけなのに。

「えっと……」

 お互い牽制しあうような体勢のまま、なんだか気まずくなって、おれは何か言わなくちゃと口を開いた。

「……なんていうか、おれ……」

 言葉を探すように、目線があっちこっちにいく。口が思うように動かなくて上手くしゃべれないけど、三宅あきひがおれの言葉をちゃんと聞こうとしてくれてるのが視界の端でわかったから、これだけはちゃんと言おうと思った。

「……言わ、ないから……誰にも」

 三宅あきひが目を大きく開いて息をのむのを感じた。その後なにか言おうと口を開きかけてたけど、おれはぎゅっとプリントを抱きしめなおして彼女の横を走り抜けた。

「あ、待って!」

 後ろで三宅あきひが叫ぶ。そんな大声も出せるんだ、と思った。思って、つい足を止めた。止まったまま動かないおれに、彼女は一言呟いた。

「……ありがとう……」

 はっとして振り向くと、泣きそうな顔で、でも確かに笑顔を浮かべる彼女の姿があった。
 おれは小さくお辞儀をして、そのまま廊下をまっすぐ駆けた。部活以外ではあまり走りたくないけど、なにも考えずに部室まで走りつづけた。
 結局部活には間に合わなくてクロにこってり叱られたし、ずっと抱きしめていたプリントはぐしゃぐしゃになっていたしで最悪だったけど、おれの心は少しだけぽかぽかしていた。
 三宅あきひもそうだといいなと思った。


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