おれとフラグと10cm | ナノ

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 その日はいつもとなにも変わらなかった。ただ、春先なおかげで花粉が飛んでいるのかして、少し鼻がムズムズするなと思った。日常との変化は、それだけだった。
 それだけだと思っていた。
 あのときおれがクロの教室にいかなければ、それだけですんでいたはずだったんだ。


 バレーの朝練も終わり、放課後の部活までの間にある授業のために、おれたちは各自自分の教室に向かった。他に朝練をしていた部活の人たちもちらほらと歩いていた。別に誰の横でもよかったけど、知らない人の隣は嫌だったから、なんとなくクロの隣を歩いた。おれは二年生でクロは三年生だから、途中の階段で別れた。かわりに虎や福永の近くをそれとなく歩いた。それぞれクラスが違うため、一組の前、二組の前を通るたびに片手をちょっとあげて彼らと別れの挨拶を交わした。おれは三組の教室に入った。
 静かに席につく。眼球だけで辺りを見回すと、教室内は半分ほどが人で埋まっていた。
 そういえばさっきはクロに急かされて、急いでタオルなどを鞄の中に突っ込んだせいで中がごちゃごちゃとしていたなと思いだし、リュックサックのチャックを開けた。あまり目立たないように小さな動きで鞄の中を整理していると、見慣れているけれど自分のものではないものが入っていた。クロのタオルだった。一見どこにでもあるタオルだけど、タグに小さく【黒尾】と書いてあるから間違いない。きっと慌てたときに、近くにあったクロのタオルも一緒に入れたんだと思う。
 これが未使用なら別に放課後渡せばいい。けれど、このタオルは不幸にも使用済みだ。いくら幼なじみとはいえ、体格のいい男が使った、それも汗でしっとりとしたタオルを自分の鞄から見つけてしまっては、返却するほかない。
 しかたなくそのタオルをビニールの袋に入れて席を立つ。授業が始まるまではまだ時間があるし、返しに行こうと思った。携帯でクロをこちらに呼ぼうかと思ったけど、来たら来たで目立つから止めた。
 さっき通ったときよりも、廊下は人でいっぱいだった。示し合わせたわけではないのに、みんなが同じ時間に登校してきているのは、なんだかちょっとおもしろかった。
 三年生の階につく。ここは苦手だ。二年の人たちとはよくすれ違うからおれの存在なんてもう気にしないようになっているだろうけど、三年生は違う。見慣れない二年生のおれを不思議そうに見つめる人が多い。下を向いて歩いているからそれを直接見たわけじゃないけれど、そういうのはなんとなくわかるものなんだ。
 背中を丸めながら出来るだけ早足でクロの教室に行く。ちょっと開いたドアの隙間から中を伺うと、ちょうど何人かの女子と話をしていたクロと目が合う。幼なじみなせいなのかな、クロはすぐにおれに気がつく。すぐ話を自然な風に切り上げて、クロはこちらにやってきた。
 クロはドアに片手をつきながら、おれがここにやってきたことを珍しがり、なにかそんなに大事な用件があるのかという内容のことを聞いた。その前におれはクロとクラスメイトの会話を中断させたことについて一言謝ろうとしたが、クロの方が先に声を発した。なんだそれと首を傾げて、おれの手にあるビニール袋を見て不思議そうにする。なのでおれは一言謝ってから、これはクロので、多分急いで片づけたときにおれの鞄に入っちゃったんだと思うと説明した。クロは別に放課後でもよかったのにと頭をかいたが、受け取った瞬間納得したように笑った。袋越しにでもわかるほど、そのタオルはじっとりとしていた。
 クロは軽いお礼と授業に遅れないようにという注意をしたあと、手を挙げて教室に戻っていった。ドアが閉まるのを見てから、おれもその場を離れた。行きと同じで帰りもたくさんの視線がおれに向いているのを感じた。気にしないように俯いて歩いた。
 なんとか人通りの少ない場所に出て、息をついた。やっぱり人がたくさんいるのは苦手だ。強ばっていた体の力を抜き、ゆっくりと歩いた。窓の外を見やると、さっきまでたくさんいた生徒たちの登校する様子はなく、ほんの数人が、本鈴が鳴る前に教室につこうとして小走りをする姿が見下ろせた。走るくらいならもう少し早く来ておけばいいのに、と思った。
 おれも本鈴鳴る前に戻ろう、と視線を前に向けたとき、「わっ」という声がすぐそこの階段のあたりから聞こえた。女子の声だった。ここからはその様子は伺えないけど、切羽詰まったみたいな声だったから、転けたのか何かを落としたかしたのだと思った。けれどその声以降、音らしい音は鳴らなかった。いきなり声が聞こえたからちょっとびっくりしたけど、別におれには関係ないことだと心で呟き、階段の踊り場に出た。
 そこには人がいた。少し茶色がかった長い髪の、身長の高い女子。おれに背を向けるかたちで、踊り場の壁に寄り添っていた。多分、さっきの声の人だ。
 まさかいると思っていなかったから、思わず足を止めた。リノリウムと上履きが擦れて鋭い音が鳴った。思いのほか響いたその音は彼女の耳にも届いたらしく、びくりと肩を震わせた。別に足音が鳴るのは当たり前のことなのに、このときはなぜかひどく罪悪感がわいた。きっと、彼女が怯えるような顔で勢いよくこちらを振り向いたせいだろう。
 しばらくその状態から動かなかった。おれも、目の前の彼女も。いや、彼女はともかく、おれは動かなかったんじゃなくて動けなかったんだ。彼女とおれの目線はほとんど一緒で、この人は身長が高いんだと思っていたけど、すぐにそうじゃないってことがわかったから。
 彼女の足は、床から10センチほど浮いていた。
 目の錯覚なんかじゃない。本来なら彼女の影はその足と接しなきゃいけないのに、おれの後ろから差し込む光に照らされた彼女の影は、独立して階段の向こうに伸びていた。
 頭に浮かんだのは、幽霊、の二文字。けれどなんとなく、彼女は幽霊ではないなと思った。

「あ、あの……」

 宙に浮いた足先をちょいと動かし、彼女がおれに手を伸ばす。はっと我に返ったおれは慌てて俯き、彼女を避けるようにそのまま走って階段を駆け上がった。あの人が下りの階段側にいてよかったと思った。
 上がりきる前に前髪の隙間からちらりと下を見ると、彼女はまだちょっとだけ浮いていた。浮いたまま、うなだれたように頭を壁にもたれさせていた。その姿を見て、ちょっと怖かったけど、ちょっと寂しい気持ちになった。なんでかはわからなかった。

 本鈴ギリギリになんとか教室についた。まだ騒がしい教室内を横切り、自分の席についた。ふうと息をついて初めて、おれは息が上がっていたことを知った。脈も、気がつかなかったけどいつもより激しい。手のひらを見て、手汗をかいていたことにも気がついた。
 それらを知って、初めておれはそれだけ興奮していたんだと自覚した。なんとなく冷静なつもりだったけど、生まれて初めて体験した出来事に頭がうまく回らなかっただけだったみたいだ。
 深く大きく息を吸って、呼吸と心拍数を整えた。深呼吸をしているうちに本鈴が鳴り、教室内は急に静かになる。普段はうるさいのは嫌だけど、今だけは騒がしくしておいてほしかった。じゃないとおれの心音が周りにバレてしまう、とは思わなかったけど、せめておれのごちゃごちゃした思考をちょっとでも紛らわせてほしかったんだ。




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