人知れず始まる話
「なぁ侑士、お前穴開きそうだぜ」
ズズズと紙パックのジュースをすすりながら向日が言う。それを受け、正面に座っていた忍足は「ん?」と首をかしげた。
「ん? じゃねーよ、わかってんだろその顔は」
口が笑ってるぜ。
言うと、「ああ」と忍足は顔を引き締めた。きりりとしたその表情は、周りにいる女子をあっという間に虜にする。
しかし、どこからかこの場に似つかわしくないほどの大きな舌打ちとプラスチックがぐしゃりと潰れる音が聞こえ、向日はため息をついた。
「お前、気ィ狂わねーの?」
「いや? むしろほほえましいわ」
「あ、あーわかった、もう狂ってんだな」
そうかと手の平を拳で叩くと、再びどこからかぷっと吹き出す声が聞こえた。
そちらをちらりと見た向日は顔をしかめ、声を抑えて言う。
「なあ、あいつあれで隠れてるつもりか? ヨシ原以外で出会うヨシゴイでももうちょっと上手く隠れるぞ」
しかし、忍足はうっそりと笑いながら「可愛いやろ」と言った。もう何を言っても無駄らしいと理解した。
「……ま、お前が迷惑してないならいいや」
空になった紙パックをぐしゃりとつぶし、こちらに――正確には忍足の後頭部に穴が開かんばかりに突き刺さる視線を辿った。
5メートルほど離れた壁の角から半身をのぞかせ、「あいつの体を……こう、こうしてやる……!」と言いながら両手でペットボトルをメキメキと小さくつぶす女が、そこにはいた。
次の日の昼休み。忍足は、図書室で借りてきたばかりの本を片手に一人で歩いていた。懇意にしている司書オススメの本だというので、早速借りたものだ。
表紙を眺めながら歩いていると、なにやら不穏な空気が漂ってくるのを感じた。前方からだ。
立ち止まり、そちらを見た。
「……ああ、こんにちは、ええ天気やね睦ちゃん」
いつもと同じく、角からこちらを睨みつける女、加賀谷睦がいた。
睦はきょろきょろと周りを見回して人がいないことを確認し、即座につばでも吐きそうな顔を忍足に向けた。
「うん、今日は確かにいい天気だね。けど気安く話しかけるな! 忍足侑士!」
「ひどいわあ、挨拶しただけやん」
「挨拶もいらない、私に向く忍足侑士の言葉は全部いらない、ただひたすらに死ね!」
シャーッと威嚇する様子は、威勢のいい猫のようだ。
試しに一歩忍足が近付くと、加賀谷も一歩引く。本当に猫のようで、思わず吹き出した。
「ちゅーかあれや……俺が挨拶しても返事しやんかったらええやん」
「……はあ?」
何言ってんの? というような顔である。
「幼稚園の時、挨拶されたら返すって習わなかった? もしかしてバカなの?」
これだけ敵視している相手にも、さも当たり前かのようにそれを実行してしまう彼女も彼女だ。
忍足は笑いながらそうや、そうやったなあすまんと謝った。
これだから、彼はこの野良猫のような少女に構いたくなるのだ。
「で、今日はなんの用や?」
あえて余裕たっぷりに言ってやると、睦は案の定「くっそおお」と手足をばたつかせ、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「今に見てろ! その余裕しゃくしゃくな顔面をチベットスナギツネのようにしてやる!」
びしっと細い指が忍足を指した。肩をすくめ、困ったように笑ってみせる。
「怖い怖い。そら困るわ」
「もしくはウルトラマンホヤにしてやる!」
「……なんや最近小難しい動物の名前流行っとんのか……?」
失笑しながら言うと、今まで暴れていた睦がぴたりと大人しくなった。
不思議に思いもう一歩近付くと、ゆらりと揺れた睦がこちらに大きく一歩を踏み出した。
間合いが十分につまった次の瞬間、睦が左腕を大きく振りかぶった。
「食らえ! 怒りの肩パン!」
繰り出されたそのパンチは忍足の左肩をわずかにかすり、空振りに終わる。身長差やリーチの問題、そしてスピードが遅かったため忍足がひょいと避けたのである。
勢いのまま廊下を数歩駆けた睦が忍足を振り返る。悔しがるかと思えたが、そうではなかった。
握ったままの左拳をまじまじと見た後にやりと笑い、拳を忍足に向かって突き出す。
「チベットスナギツネかウルトラマンホヤにしてやるからな! 覚悟しとけ!」
「は、ちょ……行ってもた……」
忍足が何かを言い返す前に、彼女はそのまま廊下を駆けていった。角を曲がり、小さな背中が見えなくなったところで、忍足は小さく息をついた。
「おいゆーし! み・て・た・ぜ!」
とっとっと軽快な足取りで向日が側の階段から降りてくる。
岳人か、とそちらを見ると、彼は笑いをこらえきれないようで頬をぷっくりと膨らませていた。
「侑士さっき肩パンされてたろ! お前に肩パンする女子とかすげーな!」
「ま、当たってへんけどな」
「つか当たってたらまずいだろ、テニスに影響出ちまう」
いや、と忍足がかぶりを振った。
気づいてないんか、岳人?
「あの子な、右利きやねん」
「は? だから?」
「パンチしてそのまま走ってくんやったら、右手で俺の右肩パンチした方がスムーズに行けると思わへん?」
はっきりとしない物言いに「……つまり?」と詳しく言うよう促した。
忍足は、子猫でも触った後かのようなだらしない笑顔で言う。
「右利きな俺のこと考えて、あえて左手で左肩殴ったんやで、睦ちゃんは」
「…………」
可愛いわあ素直やないわあと辺りに花でも散らしそうな忍足を、かつてないほどの引いた目で見る向日が深くため息をついた。
「ま、お前が幸せそうならなんでもいいや俺……」
思っても、決して「めでたい頭だな」とは言わなかった。
なぜならもうこの男は、いろんな意味で手遅れで、何を言っても無駄だと悟ったばかりだからである。
****
(※左肩に髪の毛があっただけ)
prev:next
bkm
←