期待値



「ただーいまー」

玄関からハンドバッグがすべるように飛んできて、ホットミルクをひっくり返すところだった。
確かあのハンドバッグ、昨日だったか一昨日だったかに買って、お気に入りだから大切に使うんだーとか言っていた気がする。
マグカップをテーブルの上に置いて玄関に向かうと、ナナシが飛びついてきた。

「ゆみひこぉ」
「げ、ナナシ、酒飲んできたのか?」
「ゆみひこぉ」
「おい!聞けよ!」
「ゆみひこぉ……」

ナナシの髪に少しだけ煙草の匂いが付いている。
肩に顔を埋めるナナシは眠いのか何を言っているのかはっきり聞こえなかったが、何か文句を言っているのはわかった。
ずるずるとひきずってリビングまで連れて行き、ロングコートを脱がせてソファに座らせる。

(まるでにんぎょうであそんでるみたいだ!)

「おさけ、のんできた」
「何でそんななるまで飲んできてるんだよ……」
「おとなだからいいの」

乾いたグラスに冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぐ。

「ゆみひこが」

グラスを渡すと細い指が自分の指とぶつかった。
危ういナナシの手元にそのまま指を添え、水を飲むように促す。

「オレがなんだよ」
「ゆみひこが、むかえに、きてくれなかった」

グラスの水は半分以上残っていた。
返す言葉を探すのと、ナナシの言葉を理解するのと、同時にしようとしたことが間違いなのだろうか。
きっと順番に考えたとしてもどちらもみつからないしわからない。

「今日飲み会とか聞いてねーし」
「ゆみひこはーきてくれないんですかー」
「はぁ?」
「ナナシちゃんがこんななってるのにきてくれないんですかー」

グラスの水が、ナナシの唇を濡らす。


「補導されちゃうもんね」


丁度エアコンが止まって、その言葉だけがやけに冷たく響いた。
グラスをテーブルに置いたナナシは添えられていた指を取って絡めて

「ねぇ、ゆみひこ」
「な」

その指で胸元のシルバーのネックレスを揺らした。

「しよ」

ぼすり、ソファに倒れた二人の息が不協和音を奏でた。
ナナシの声が吐き気を催すほど甘くて、目を閉じる。

(オレはすきなようにされるだけなの?)

「ゆみひこのばか」



期待値





(グラスに注いだ期待値は)
(カラカラに乾いたオレ達の)

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