それはいいはなし




こんこん、という控えめなノックに「どうぞ」と返事をすると見覚えのある顔がドアの向こうから覗きこんできた。
目が合うと照れたように笑うので、つられて笑っていた。

「お久しぶりです、ナナシさん」
「久しぶり、怜侍くん!やだなぁもう……ナナシでいいわよー」
「ム……し、しかし……」
「冗談よー。あ、お邪魔します」

ナナシさんはなぜかこそこそと執務室に入ってきて、ソファにハンドバッグを置いた。
きょろきょろと辺りを見回すナナシさんをじっと見ているとそれに気付いたのか、また照れ笑い。
ソファに座るように促すと、彼女の身体はふかふかとソファに沈んでいった。
今日片付けなければならないものはほとんど終わっていてゆっくり話ができること、細い道は溶け残った雪で歩くのも一苦労であること、ナナシさんのお土産のクッキーが既に私の机の上に用意されていたクッキーと同じものであったこと、そんな話をしていた。

「でも怜侍くんはすごいなぁ……検事さんだもんね。すごいすごい」
「ナナシさんは今は何を?」
「あー、家の手伝い。まぁ、花嫁シュギョーってとこかな?」
「は、ハナヨメ……?」

カップに注がれた紅茶から湯気が出ている。白いカップを渡そうとしたとき、ナナシさんの口から聞きたくない単語が聞こえてきて、思わず語勢が強くなってしまった。
ナナシさんが、ハナヨメ……そうか、ナナシさんが。

「何か失礼なこと考えてるでしょ」
「な、何故、そんな」
「どーせ私の貰い手なんていないですよーだ!怜侍くんのいじわる!」

まるでコドモのように頬を膨らませるナナシさんは、これでも私より一つ年上だったと記憶している。
そして彼女は一つ勘違いをしている。それを言うべきか、黙っているべきか、考えている間に彼女はぼそぼそと言葉をこぼす。

「怜侍くん、小さいときはあんなに可愛かったのにねぇ。『ナナシちゃん!ナナシちゃん!』ってくっついてきた怜侍くんはどこに行っちゃったのかしら」
「ナナシさん」
「私、」

くるくるくるくる。
ナナシさんは、何か考え事をしているとき、ティースプーンを回し続ける癖がある。

「怜侍くんのこと好きだったのにな」

「ナナシ」

ぴたり。彼女の思考が止まったのだろう。
ティースプーンはうずまく紅茶の流れをせき止めている。

「ど、どうしたの、怜侍くん」
「今は、好いてもらえていないということでしょうか」
「怜侍くん」
「貴女の貰い手がいないなどとは思えません」
「れいじくん」

からかわれるのは、もう、ごめんだ。

「私は一人、貴女の貰い手を知っています」
「……怜侍くん、検事なんでしょ?」

俯くと同時にさらりと落ちた前髪で、彼女の表情は見えない。

「証拠、見せてよ」

俯く彼女の座るソファの背に、手をかける。



「これが、その人物を示す証拠です」



それはいいはなし


(だれかにとられるなど)
(それがわたしたちのこたえ)






「ナナシさん、クッキーじゃ私はつれませんよ」
「む」
「私をつりたかったら、証拠を」
「……怜侍くんの、いじわる」

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