甘えたらいいと
たまたまオレの方が帰ってくるのが早くて。
たまたまオレが暇だったから昨日のばんごはんのカレーを温めて。
ナナシが帰ってくるはずの時間がすぎても玄関からただいまの声は聞こえなかった。
別に寂しいわけではないと思う。そわそわと時計に目をやるけれど、5分と経っていない。
あの針はキチンと仕事をしているのだろうか。もしかして誰も見ていないうちに休んでいたりして。よく考えたら24時間全く休まずに働いているなんておかしい。だからうちの時計は5分も遅れているのかもしれない。ああ、オレはとんでもないことに気付いてしまっ「ただいま」あ、帰ってきた。
「遅いぞ」
「おかえりは」
「あ、おかえり」
玄関に向かうと、ナナシがいた。
ん、と小さく返事をしたナナシの顔は見えなかった。ナナシの額が肩に当たって、オレとナナシはまるで「人」の字のようになった。
「靴、脱いだら」
「つかれた」
「だから靴」
「ゆみひこ」
オレの名前を呼んだナナシの声はあまりにも小さくて、思わず泣きそうになった。
(ないているのは、ナナシのほうなのか)
「ゆみひこ、カレーあっためたでしょ」
「ん」
「えらいえらい」
とん、と肩を押して顔を上げたナナシは、いつものナナシだった。
伸ばしかけていた手は空を切って身体の横に戻っていって、安心感と情けなさがぐちゃぐちゃになったようで、ほめられているのに正面から、顔を見られなかった。
「ま、冷めてるだろうけどね、ゆみひこのことだから」
「どういう意味だよ!」
「ゆみひこの優しさはからまわるからねーよしよし」
ブーツを脱いでオレの横を通りながら頭を撫でていくナナシ。確かにテーブルの上に並んだカレー皿はもう「ひんやり」という擬音しか似合わない。ああ、ナナシが帰ってきてから、温めればよかったんだ。
「ゆみひこ、」
「ん」
温め直したカレーを頬張りながら、二人で無言の空間を作る。
「待っててくれて、ありがとう」
「えーっと」
「帰ってきておかえりって言ってもらえることも、冷めちゃったけどあったかかったごはんがあることも、抱きついたら黙っててくれることも、全部嬉しかった」
「……なんだそれ」
ナナシがへらへら笑うからつられて笑った。
玄関でのアレ、抱きついてきてたのか。
「ナナシが、嬉しく思うなら」
ああ、じゃがいもがおいしそうだ。
「オレは、できること、やるから」
何か足りないと思ったら福神漬けか。
「ナナシは、もっとオレに」
甘えたらいいと
(柄じゃないとか言わないで)
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