おかえり、リトルスター

「ケーキ入刀ー!」
 同期生の言葉を前にトラファルガー・ローが激昂したことについて、アリアンスは間違っていたとは思わない。アリアンスが諌めようとするよりも前に彼は飛び出していた。
 それは、ほんの偶然若くしてこの世を去らなくてはならなかったであろう人が、その後の世を想って願った物言わぬ献体者の前で起きた。
 その愚か者が手にしていたメスを床に叩きつけ、胸倉を掴んだローをアリアンスは取り押さえることはできたが静観した。発言者の胸倉を掴みながら、その言葉に笑っていた取り巻きを睨みつけ、どこかの主人公のように熱くなる姿を見て、アリアンスは思ったのだ。
 この、不器用にも人の心を大切にする男に自分を救われたのだと。彼は誰もが望む医者になるだろう。この男がこのように、彼にしては軽いものだとしても暴力に出ることは極めて稀だ。
 偶然だろうか、解剖学実習があったその日は十月六日だった。



「ケーキ食べる気する?」
「いらねぇ」
 答えになっていない答えも仕方がない。歯軋りしながら外を見やるその横顔を見ながら、アリアンスは魚が美味しいね、と笑う。
 海の見える料理屋で二人は刺身の盛り合わせを食べていた。十月六日。ローの誕生日。
「それはよかった」
 そのときは舌打ちを聞いただけ。アリアンスの気まぐれの選択が間違ってはいなかったことを知るのはもう少しあとだ。
「ケーキは買ってあったけど、やつらにお見舞いに持っていったよ」
 アリアンスは今日のために買ってあった細やかなケーキはすでに処分していた。つまり、ローがケーキを食べたいと言おうともケーキはなかった。
「トラウマになるようにした」
「何しやがった」
 ローとは違い、その場で沈黙を貫いていたアリアンスだったが、別にそれを見て見ぬふりをすることはない。むしろ、アリアンスはそういうことには必ず首を突っ込んでくる。
「こんなところでする話ではないよ」
「外で話ができないようなことをするな」
 声を荒らげて怒るローの言うとおりで、外でできないような話ができないことを平気でやるのがアリアンスなのだ。手が出るよりも先にえげつない方法が思いついているせいで、よほどのことがなければ先に手が出ることはない。
 アリアンスが直接的な物理行使に出るのは、アリアンスが正気ではないときだ。特にひどく怯えているときに加減のできない暴力をふるうことは誰よりもローが知っている。
 ともあれ、アリアンスに暴れられることがあればローは止めることができないので、それ以上を問い詰めることはないだろう。
______私は強くて賢い。
 それがローがアリアンスにくれたもの。目の前の男が常に証明してくれるもの。アリアンスのお守り。そして道標。
「守れなかったのなら意味がねぇ」
 ローはアリアンスを睨みつける。ローは結果に酷く固執する。特に物として残るものに対する執着は強い。それは不当に奪われてきたものに対する、反骨精神なのか、それとも恐怖なのかアリアンスにはわからない。
 ただ、それらが人を強くすることをアリアンスは知っている。歯を食いしばりながら手を差し伸べてくれたあの日。その手をとってようやく前へ進むことができた。それは、ローだから意味があった。アリアンスを助けるために、己を曲げたローの言葉だから意味があった。
「ただ、守ろうとしたローの行動には意味があるよ、きっとね」
 夕陽が海に落ちていく。血溜まりのような色でその海を染めながら。



 その日は平日だった。ローの故郷、ローの両親が守ろうとした場所、ローの両親とともに権力と戦った大学の医学部。都内の大学にもじゅうぶん入学できる学力を持っていた二人だが、選んだのはその大学だった。
 都内の大学ならばこのようなことを目にする必要はなかったのだが、そのようなことは関係ない。ただ、許されざる行為はローとアリアンスの存在の有無に関わらず起きたことである。
 迷い子のようだったアリアンスの手をとって医学の道を選ばせたのはローだが、この大学を希望したのはアリアンスだった。家から通うことのできる都内の大学______かつてローの両親を死に追いやった大学______その大学への進学を迷っていたローに、二人ならば経済的にも問題がない、といってローの手を引き都内から飛び出したのはアリアンスだ。
 たとえ、この不快な光景を見る原因を作ったのがアリアンスだとしても、ローにとってはこの行動を放置することの方が許せないことだということをアリアンスは理解していたので、それについて何かを言うことはなかった。
 二年生、二十歳の誕生日の夕方。大事になった解剖学実習からローを救い出し、アリアンスは車で大学のある町から海辺の町へと向かった。十月といえど、昼間に日光にさらされていた車内には熱がこもっていて、その際に開けた扉からまったりとした潮風が流れてくる。助手席のローは喧嘩両成敗という不本意なお咎めがあり、不機嫌で無言だ。先輩から安く譲り受けた古い車特有のエンジン音と、風を切る音だけが聞こえる。
 入り組んだ島々によって守られた海は穏やかだ。かつてこの海をめぐってローの両親が戦って命を落としたことが嘘のように。両親が殺された理由を知りながら、両親を謀殺した人々に笑顔で手を差し伸べられた彼の心中は絶望に満ちていたのだろう。
 彼は賢かった。
 その穢れた手を振り払って、彼は都会に出てそして、絶望の果てに二人の保護者代わりに出会ったのはまた別の話。少なくとも、全てが始まったのはこの地だった。それだけは間違いない。
 アリアンスは小さな料理屋で減速し、一台しか停まっていない車を見ながらバックで停めた。その一台はトラックであり、店の車なのだろう。時間帯は六時半。客はアリアンスとローしかいないらしい。
「おかえりー!」
 店の扉を開けると、店主の壮年の男性の声が響いた。店主の目は俎板に注がれていて、こちらに視線ひとつない。ただ、手元には未だに体が動く立派な鯛が美しく捌かれている。
「お父さん、お客様よ」
 中から出てきたのは女将さんだろう。目を丸くするしていたローがその言葉で平時の表情に戻ったのをアリアンスは確認した。
「悪い悪い、娘が誕生日なんだ」
 店主に笑顔を向けられ、満面の笑みの女将さんから海の見える席に通される。運ばれてきた緑茶は口当たりがよく甘い。アリアンスはローにそれを言うと、あっちの茶の方が飲みにくいだけだ、という捻くれた言葉が返された。



 繁華街の安い飲み放題つきコースと同じ金額で出された刺身の盛り合わせの定食。新鮮な地物の魚しか使っていない。都内で食べようとすれば桁が変わる。これまで一度行ったことのない店だが、二十歳の誕生日のサービスだよ、と店主はローの誕生日を祝い、地酒の四合瓶をおいていった。アリアンスが頼んだわけではない。
 この地の人はおおらかで親切だ。温暖で食べ物も豊富で、厳しい冬もない。アリアンスははじめてこの地を踏んだときには、本当にローがこの地で十年間を過ごしたのだろうか、と疑問に思うほどだった。ローは、自分のものを奪われることを嫌い、ときには狡猾な手段をとる。ただ、アリアンスはそれが、この豊かな地で全てを奪われた少年の絶望の大きさなのだということにすぐに気がついた。
 ローは困っている人を放っておくことはしない。自ら伸ばしたその手を離すようなことはしない。彼の研ぎ澄まされた刃のような性格のその奥底には、この穏やかで暖かな海が確かにあるのだ。
「呑むぞ」
「どうぞ、一足先に。おめでとう」
 正確な誕生日がわからないため、戸籍上、従弟のエースと同い年になっているアリアンスはまだお酒が飲めない。アリアンスは事前に自分が店主に未成年であることだけは伝えていた。
 予約はローの名前でしていたのだが。
 最後にサービスの茹で蛸とナスを味噌であえたものを出されて、お酒のないアリアンスはほかほかの白いご飯も一緒だった。初めて見る食べ物だな、などと思いながら、少し間をおいて食べているアリアンスとは異なり、ローは平然と口にしながら酒を呑んでいる。
 アリアンスは僅かに首を傾げた。この料理の名前をローは知っているのだろうか。



 客は結局アリアンスとローのふたりだけだったらしい。店主と女将さんは見送りに出てきてくれた。美味しかったです、から始まる、アリアンスの類稀な語彙を駆使した食事レポートは二人を喜ばせるにはじゅうぶんのようで。
 ただ、二人が時折ローの様子をうかがっていることにアリアンスは気がついていた。ローは黙っている。
「おいしかったくらい言いなよ」
 アリアンスはローを肘で小突いた。ローはアリアンスを訝しげに見やったが、舌打ちすることなく、店主に頭を下げた。
「美味かった。最後のぶたあえがよかった」
 あのタコとナスと味噌の食べ物はぶたあえというのか、とアリアンスはそれを初めて知った。わりと世の中のほとんどを知っているアリアンスはあまり知らないこと出会さない。とはいえ、彼女も全知全能ではないので。
「そう。子どもにはあんまり好かれないんだけど」
「子どもじゃないんで」
 ローが口を開くよりも前にそれを遮るように一瞬の間も無くそう返したのはアリアンスだった。驚くふたりを安心させるようにアリアンスは人を安心させる笑顔を浮かべる。
「二十歳になったから」
 アリアンスの言葉に二人は顔見合わせて微笑む。ローはアリアンスを睨みつけた。アリアンスはローと同じタイミングで気がついた。
 この夫婦はローを知っている。



 その夫婦の娘はローと同級生で同じ誕生日だった。彼女はもうこの世にはいない。
「覚えているか? あの子はぶたあえが好きだった」
「お母さんが忙しい仕事の合間に習いに来てくれていたものね」
 夫婦はローの両親とも仲がよかった。東京からやってきて小さな診療所の後継者となった若い夫婦。料理の上手い女将さんが料理をお裾分けすると随分と喜んで。
_____うちの息子、お嬢さんと同じお年かしら。ナスとタコを味噌で和えたものが好きで
_____ぶたあえ? そのくらいなら自分で作れるようになるわよ。作ってあげなよ、先生
 息子はきっと覚えていないのだろう。生き残ったことは知っていたが、誰も助けられなかった。助けようとしたが、同様に殺されることは火を見るよりも明らかで、そのうち彼は消えた。
 朧げな記憶だと彼はよく笑っていた。屈託のない笑みや悪戯っぽい笑顔。普通の少年だった。
 二十歳とは思えない大人びた酷く雰囲気。一緒にきた背の高い美人と話をしていても、口元を歪めて笑うだけ。皮肉を言って一筋縄ではいかないような性格を身に纏っていた彼は、あれから十年、一体どれだけのものから自分を守らなくてはいけなかったのだろう。
 何も聞けなかった。ただ、彼は美味しかった、とだけ言った。それでいい。それでじゅうぶんだった。
「明かりでもつけるか」
 明かりをつけると、漁師たちの家にも明かりがついていた。それは湾の縁を走る道沿いにゆらりゆらりと揺れている。
______みんな、思うことは同じだ。
 帰りを待ち侘びていたわけではない。彼が何かをしたわけではない。彼の両親がすべての人を救えたわけではない。未だにこの病に苦しむ人たちはいる。
 彼がここに来ることを話したときに、反応は様々だった。未だに後遺症に苦しむ家族を持つ者、過去のものだとして割り切っている者、新しくこの地にやってきた者。素気ない返事も多かった。むしろ、それが大半だった。
 ただ、それでも、あの勇敢なふたりの医者の行動には意味があったのだ、と。あのふたりが命を落としてまで守ろうとした灯火は確かにあるのだ。
 助けられなかった罪なき子どもたちを想う。それでも命は戻らなくて、アスクレピオスの杖は重い。



 古い車だ。クラッチペダルを踏み込み、ギアをニュートラルに入れると、椅子を倒したローが視界に入った。ブレーキを踏んでエンジンをかけると、誰一人いない背後を確認してからハンドルを回す。
 純正のライトを入れ替えたため、古い車にしてはライトは明るい。
「ぶたあえっていうの? 今まで食べたタコの中で一番おいしかった」
 ただの医学生にしては博識なアリアンスだが、郷土料理の名前まで熟知しているわけではない。
「鮮度が違う」
 その声は噛み付くようなものではなく、温度のない酷く冷たいもので、少なくとも記録の中でこの地であったことを知っているアリアンスは、そうだね、と答えた。
 店でお金を払って出すような魚は当然美味しい。最後のぶたあえはきっと家庭用のもの。それも鮮度がいい。当然だ。この地で獲られたものなのだから。
______では、なぜ、この地の人たちの病を、国家権力とそれに迎合する学者たちは、腐った魚を食べたせいだと決めつけた?
 それを問いたいのはローだろう。アリアンスにそれを口にする権利はない。命を守るために正しいことを言うという、正しいことをおこなっだローの両親た。彼らはなぜ殺されなくてはいけなかったのか。
 命の危険を感じた少年の判断は、アウトローの世界に身を投じることだった。命からがら博多に出て、おおよそ子どもが歩いていい場所ではない地域を歩き回った末に見つかったのが、ドンキホーテファミリー。
 アリアンスがクラッチを踏み込んでギアを落とす。
「どうした?」
 アリアンスは何も答えない。そのままギアを落としていく。
「明るくないか?」
「たくさん人が住んでいるんだね」
 海沿いの道に漁民が住んでいる。海と山が程近いこの地で、道沿いに点々と家が並んでいる。その家々の明かりがつき、光の道を作っていた。アリアンスは察しがついていたが、それについては何も言わない。
「漁村の夜は.……」
 ローはそこまで言いかけて、運転しているアリアンスを睨みつけた。
「お前の差し金か?」
 凍てつく氷のような声と喉を刺すような空気。ここから先には入るな、という警告。
「違う」
 アリアンスははっきりと言い切った。それが嘘ではないからだ。
「だからきっと本物なんだよ」
 この地で鉱山が見つかり、その排水が人々を蝕みそれが顕在化したのが十年ほど前だった。都内の有名大学の医者たちは鉱山の毒によって蝕まれたというローたちの通う大学の研究を否定し、腐った魚を食べたせいだという説を唱え、鉱山の利益を守る権力に呑まれていた。
 ローの両親はこの地で医者をしていた。母校である都内の大学出身でありながら、この地元の大学とともに戦った。
 ゆえに、二人は権力によって殺された。邪魔だったのだ。それだけローの両親はこの地の人々のことを想い、医者としての責務を果たそうと戦った。論文をすぐに書けるような優秀な医者。危険だったのだ。
 明かりがあった。小さな子どもが好きそうな桃色の提灯。
「停まれ」
 ローの言葉を聞く前にアリアンスはすでに減速していた。そこで停まることはわかっていたが、なぜ停まるのかアリアンスにはわからない。
 桃色の提灯に囲まれたそれは小さな墓だった。桃色の提灯と花。
「ピンクだね」
「ラミが好きだった」
 聞いたことのない固有名詞にアリアンスは首を傾げる。
「妹だ。発症してほどなくして死んだ」
 そういえば妹がいたと言っていたような、と女に優しくなんて口が裂けても言わないくせに、行動では度々それを示すすぐ隣の男の性質に納得する。
 仲の良い兄妹だったのだろう。
「ちゃんと手入れされているね」
 アリアンスはそれだけ言い残すと、車に戻りトランクから青と黄色の花束を取ってきた。それをローに無言で渡す。
「何を疑っているのかわからないけれど、今回、私は何もしていない。私も驚いている」
「そうは見えないが」
 ローは訝しげにアリアンスを見やり、なかなか受け取らないので、アリアンスは押しつけるようにしてローに渡した。
「これはローにあげる用だったから、どうしようが自由だよ」
 ローも色に好き嫌いは若干あるだろう、とアリアンスは思っている。一緒に洗濯しているのだから、さすがになんとなく察しがつく。ローは花束を包装から出すと、そのまま桃色の花の中に突っ込んだ。
 アリアンスは溜息を吐いた。
「触っていい?」
「勝手にしろ」
 断られると思っていたアリアンスは目を丸くする。ローの表情は暗くて見えない。
 桃色に黄色に青。二つ並べられただけの花束をアリアンスは混ぜた。桃色が際立つように、大きな青の花が桃色の花を守るように。ローはそれを黙って見ていたし、アリアンスも何も言わなかった。
 花束を混ぜ、黙祷して車に戻ろうと顔を上げる。
「まだ明かりがついているね」
______今まで、一度も来なかったんだね……
 この車はアリアンスのものであり、アリアンスしか乗ることができないが、一日保険さえかければローも乗れるようになる。また、公共交通機関がないわけでもない。一年半、彼は一度もこの地を踏むことはなかった。
 彼に何があったのか、アリアンスは記録以上のことを知らない。アリアンスが知っているのは今のトラファルガー・ローだけだ。
 ローが声に出さずに口だけを動かした。テールランプに照らされた横顔をアリアンスは見逃さなかった。
 二十歳になったトラファルガー・ロー。弔いの灯りの中にある感謝と祝福。言葉なんていらないのだろう。重ねる言葉はたくさんあったとしても、彼が返す言葉はひとつで。ただ、そのひとつさえもふじゅうぶんなのだろう。
「帰ろう、ロー」
 一度クラッチを踏み込み、次はアクセルをゆっくりと踏んでいく。
 ただいまもおかえりもない。彼の心の底に流れるこの海のように穏やかな場所を満たすものはもうない。それだけはわかる。その中に何があったのかはわからなくても。
 どれだけ時が過ぎようとも、アリアンスの中のルージュの存在が消えないのと同じ。
 ああ、とぶっきらぼうな答えは慣れたもので。アリアンスはこの地で六年間を過ごす道を選んだ自分の選択は間違っていなかった、と思ったのだ。

 医者になるまであと数年。一瞬で駆け抜けることになるだろう。されど、その数年をこの地で過ごすことを選んだことにアリアンスは後悔していない。

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