光の世界と透明な鎖

 未だに人の行き交う飲み屋街。煌々と輝く洒落たスナックの看板。キャッチの若人は若干疲れた様子で、夜は更けていく。そこに、一際目立つ男女がいた。同じ程度の背丈だが、女は華奢で、男も細身だが女が儚い印象を与えるせいか、そういった雰囲気はない。二人とも夜の街の中では随分と地味な格好、それどころか一人はジーンズに覇気のないTシャツ一枚なのに関わらず、人目を引く容姿を前に、人々は立ち止まる。
「ローさ、本当に私の信用ないよね」
 一台の消えていくタクシーを見送りながら、女はそう言った。
「行動で示せ」
 男の剣幕を前にして、多くの人は目を逸らして足速に去っていったが、その怒気を向けられた張本人は、何食わぬ顔で首を傾げた。



 時は数刻前まで遡る。
 まず、その日は珍しく早く帰宅していた。ローはスーツで出勤し、日中に行政のお偉方の対応をさせられていたからである。指定病院であるためか、そのようなことが全くないわけではない。それに集中するため、他の仕事を割り振られることがなかった。
 アリアンスは、病院内の医者としてほ地位はローよりも上である。というのは、病理医がほとんどいないこと、アリアンスが専門医の資格を取って間もなく、部長が退職したことが理由だ。この規模の病院に若い医者が部長というのも不自然だが、そもそも病理医は全体として数が少なく、とりあえず、一番仕事が早く、他の診療科との関係も悪くないアリアンスが部長になった。そのため、アリアンスだけが呼ばれる飲み会も多い。
 つまり、その日は珍しく病院に一二を争うホワイトドクターのアリアンスが夜に家を空けていて、ブラックドクターを強いられているローが家にいる、珍しい夜だった。同居人の予定など把握していないローなので、家に明かりがついていないことを不審に思ったが、しばらくして部長数人と飲み会があり、それに参加するとか言っていたことを思い出した。別にいても構わないのだが、いるとそれなりに面倒な同居人がいない夜は珍しく、ローは気分良く持ち帰った学会誌を開いた。
 それから間もなく、ローにメッセージが届いた。一応同居人からの通知は別の音声をつけていたため、ローは顔を碌なことではないだろう、と一人顔を顰めながら、メッセージを読んだ。
『心臓血管外科の部長と今から二次会です。遅くなります』
 心臓血管外科の部長はローの上司である。それほどお酒には強くないことをローは知っている。そして、そしてトラブルメーカーの同居人は、残念なことに普通に強い。人の好い上司のことは、ローは嫌いではなかった。そもそも、ローは本人は認めていないが、助けが必要な人を放っておけない性質である。
 ローはスーツを脱ぎ捨て、ソファーにかけたままのTシャツとジーンズを掴み取り、即座にそれに着替えた。髪もボサボサだが、会うのは身内だけだ。
「あいつ……間に合ってくれ……」
 若くどこか儚い雰囲気漂う同居人ではなく、草臥れた中年男の安否でローの頭はいっぱいだった。
 酒にも強い、武道の嗜みもあり、一般人はまず追いつけない脚力を持ち、人に騙されるような頭をしていない同居人の身を心配する理由は一つしかない。



 周囲は年上ばかり。最近は若い女にお酌をさせるのはセクシャルハラスメントになるため、それを強要されるようなことはない。アリアンスは軽くお酌をしながらも、ゆっくりと食事をとっていた。
 周囲は部長ばかり。今日は外科が中心だ。横の連携は昔よりはとれるようになってきてはいるものの、未だに病院は縦割り社会だ。それは長年問題視されており、近年はそれから脱却するため、少しずつこのような飲み会が開かれるようになった。病理医としてほとんどの診療科と関わりを持つアリアンスはよく呼ばれる。
 アリアンスは、その日は気の強い消化器外科の部長と話をしていた。消化器外科の部長の歴史の話に付き合う。呑むと止まらない上マニアックなため、あまり他の部長は近寄らない。
 しばらくして、この熱心な歴史オタクがトイレで席を立ったとき、その席に別の人間が座った。
「アリアンスさん、最近はどうかな」
 心臓血管外科の部長。ローの上司である。ローとカンファレンスで言い争いになったときに、仲裁に入ってくれたり、他にも色々と気を遣ってくれたりする、アリアンスにとっては有難い存在である。
「ぼちぼちかな。いつも私もローもお世話になっていて、ありがとう」
「君は、本当に怖いもの知らずだね」
「敬語のこと?」
 基本的にアリアンスは誰に対しても敬語を使わない。咎められることもあるが、最終的にアリアンスだから仕方がない、と解釈される。
「それも含めて、だけど、怒ったロー君を相手にしても、全然驚かないよね」
 ローとアリアンスが病院内で言い争いをしたことは何度かあった。大概が治療方針の食い違いであり、しばらくすると解決する。瞳孔が小さく、短気で口調の荒いローを恐れる人は多い。しかし、アリアンスは誰よりも激しく怒鳴られても臆することはなく、噛みつくこともない。
「ああ、怒っているローは私にとっての日常」
 アリアンスからすると、むしろ病院のローはかなり抑えている、という印象だった。



 そのままの流れで心臓血管外科の部長に誘われて、アリアンスは小さな居酒屋で若き同居人の話に花を咲かせていた。一応、遅くなる旨をメッセージにしてローには送った。
「ローがいなければ、病理医にはなれなかった」
「そうだろうね。君たちの噂は聞いていたよ。アリアンスがいなければローが首席、ローがいなければアリアンスが天才外科医だった、と」
 卒業はアリアンスは首席、ローが次席だった。しかし、実習の腕だけで言えばアリアンスはローには到底及ばなかった。とはいえ、ローさえいなければアリアンスの実習の腕は間違いなく一番であり、逆にローも次席に甘んじることはなかった。アリアンスが病理医になることができたのは、ローの影に隠れることができたからである。
「そもそも、ローがいなければ医者になんてならなかったから」
「それは初耳だ」
 そもそも、アリアンスは病院が大嫌いだった。過去に暴れ回って過呼吸になったことさえある。
「私は武道の心得があって」
「暴れる患者がいたときに、ロー君が真っ先にアリアンスさん呼んで、二人で押さえつけているのを見てそれは思ったよ」
 せん妄のせいで暴れる患者を前にしたローは、自分自身だけでは怪我をさせずに取り押さえられはいと判断し、一番に口にしたのはアリアンスの名前だった。看護師に呼ばれたアリアンスはすぐにローと二人で取り押さえた。その手慣れた動作に、見ていた者一同驚いたのだ。
 幼い頃から警察官に育てられ、武道に加えて逮捕術を齧っているアリアンスにとっては武器も持っていない患者を怪我せず取り押さえることは難しいことではなかった。
「別に理系科目だけが得意なわけじゃない」
「アリアンスさんは論文だけではなくて、広報誌も私の知らないことが一般の人にもわかりやすく書かれている。あれは理系の知識だけでは無理だよ」
 アリアンスは病院の広報誌やホームページなどの担当もしている。大学生活中、許される単位数ギリギリまで教養の単位を取得していたためか、アリアンスの知識の幅は広い。コアな歴史の話ですらついていけるのだ。
「なんでもできてしまう私を医者に、病理医というカードに落とし込んだのがローだった」
 アリアンスはなんでもできてしまう。今はその力で人を救っている。医者とはそういう仕事だ。
「お酒も強いからね。私はもう限界だけど」
 アリアンスは水を頼み、部長はゆっくりと水に手をつけた。薄暗い居酒屋は、換気が足りないのか僅かに澱んだ空気が漂っていた。
 しばらくすると、ガラリと勢いよく扉が開く音がした。新鮮な空気が充満する。店員の、いらっしゃいませ、という言葉すら出てこなかいほどの剣幕だったのだろう。
「先生、大丈夫ですか?」
 一度寛いだのだろう、髪はボサボサのままで、目つきは大変よろしくない、とても医者には見えない男が息切れ気味にそう尋ねる。
「まだギリギリ意識はあるよ」
 ロー君来てくれなかったからダメだったかも、とローの上司は笑顔のまま呑気に続けた。
「おい、アリアンス。前にタクシー呼んである」
 怒気の含んだ声だったが、アリアンスは臆することなく意味を理解し、部長の腕を自分の肩に回した。反対方向はローが同様にしているはずだ。なんとかおぼつかない足の部長を持ち上げる。
「それにしても、よくお店わかったね、ロー君」
 アリアンスが二次会に行ってくる旨をメッセージにしていたところを彼は見ていたが、場所までは明記していなかった。上司に柔和な笑みを向けられたローは珍しく僅かに口籠った。ローは常識人であるため、自身の行動が非常識であることを自覚していた。
 しかし、ロー限定でアリアンスは全く空気を読まない。
「それは、スマホにGNSSつけられているから」
 おい、とローに噛み付くように咎められても、何食わぬ顔をしている。それがたとえ配偶者でも問題案件なのに関わらず、ただの同居人のスマートフォンにGNSSをつけるとは、プライバシーも信用も何もない非常識の極みである。
 しかし、ローの上司はローには何も言わず、先ほどまで酒を呑み交わしていた部下の同居人に笑いかける。
「アリアンスさんは悪い人にはなれないね」
 なんでもできてしまうアリアンス。その意味を理解していないわけではなかった。ふわりと笑うローの上司はいくらお酒が回っていようともその判断力は確かなもので、アリアンスはそうなんだ、と笑う。
 アリアンスは支払いを終え、訳もわからず首を傾げる不機嫌なローと二人でタクシーまで連れて行く。なんとか座り込んだローの上司は、二人にお礼を言った。そして、自分の身と同居人の在り方を案じて、慌ててやってきたであろう可愛い部下を見て口を開く。
「ロー君、Tシャツ、かわいいね」
 ローはそのとき初めて自分の着ているものを見た。ジーンズは自分のものだ。しかし、Tシャツに見覚えはない。
 彼は、アリアンスに噛みついている際に見えたのだろう。ローが着ていたのは、後ろに大きくクマの描かれたTシャツだった。間違いなくローの選ばないデザインである。そして、当然のことながらローのものでもない。ローは文字通り頭に血が上った。今、血圧を測れば間違いなく要検査物である。
「ああ、これ、私がソファーにかけておいた今日着るはずだった寝巻きだけど、洗濯まだあるから、別にいいよ」
 つまり、アリアンスのものだが、アリアンスの趣味でもない。貰い物である。わりとしっかりとしているのに関わらず、寝巻きにしているということは、アリアンス自身もそのデザインについては評価していないということである。
 背の高いアリアンスは男物のTシャツも着るため、ローとサイズが被る。さすがに下着は性別が違うため間違えることはないが、靴下程度ならばよく間違えていた。間違えるのはローなので、特にそれについてはローは何も思っていない。
 しかし、今回は靴下でもなく、Tシャツであり、それも寝巻で、そもそもアリアンスがこんなことをしなければローがこのTシャツを着ることはなかった。
「おまえは……」
 ローが失ったものはあっても、得たものはないもないのに関わらず、なぜ目の前の同居人は上から目線なのかローは全く意味がわからなかった。とりあえず、溢れんばかりの苛立ちを抑えるために歯を食い縛る。人様の上司を酒でぶっ潰しておいて、この太々しさ。
 遠ざかっていくタクシー。
「ローさ、本当に私の信用ないよね」
「行動で示せ」
 夜の町はまだ明るい。

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