アウステルリッツの戦い

 そこは穏やかな白い国だった。フレバンスのような白は白鉛ではなく石灰で塗り固められていた。バテリラのように太陽に愛され、海の見える美しい町だった。ハートの海賊団の羅針盤はその町を指し示していた。アリアンスの捕捉範囲にその町が入ったとき、アリアンスはローに向かって言った。
「急いで。間に合わないけれど、急げ」
 アリアンスが強い言葉を使うことは滅多にない。最大加速で島に近づくように指示を出す。遠方から見えてきたのは、燃え盛る白い町、鉄と血の混じった強烈な臭い。たとえそれがローの知る町ではなかったとしても、ローの心を動かすには十分だった。
「おい、アリアンス」
 着岸の指示を出して、先程から周囲に集中しているアリアンスの名前を呼ぶ。一々指示を出す必要はない。
「隣国から攻め入られている。兵士はやられた。民間人の負傷者多数。避難場所は教会だったけれど……」
 人間は同じ過ちを繰り返す生き物なのか、そうローが問いたくなるほど、その状況はフレバンスに極めて近い。優しげなシスターの顔、死んでしまった友人たち。
「全滅だ。裏山の洞窟に生存者がいる」
 アリアンスの言葉は酷く冷たい。当然だ。在るべき姿になっている。顔には出さないものの、判断が遅れるローに対して、アリアンスは表情なく毅然と続ける。
「残党もいる。分かれた方がいい。私とロー、他、医療に自信のある者は生存者の救命、残党狩りはジャンバールにペンギンとシャチ。本拠地は城だ。他は適宜残党狩りをしながら、ほとんどいないと思うけれど民間人の保護。船の守りはラッコとクリオネで対処できる」
 ある意味、ルフィとは対極にある王の器。冷徹な王。一つの国家の感情を支配するほどの力。
 ハートのキングのカードは切られている。人の言うことを聞くのは大嫌いなローだが、ハートのキングのカードはローのもの。つまり、アリアンスの言葉はローのものである。
「拠点は裏山の洞窟だな」
「それでとりあえずは間違いはないはずだ」
 最速だった。ローとアリアンスも人命を前に無駄な言い争いはしなかったし、全力を尽くした。裏山の洞窟は夜戦病院だった。次々と担ぎ込まれる患者、まだ傷ならばローの能力は有効だが、火傷に関しては普通の医者と同じ手当しかできない。燃え盛る白い町を見ながら、ローとアリアンスは不眠不休で治療にあたった。
 運の悪いことにその中には妊婦がいた。アリアンスが見つけ、ローが処置したが、子供は助かったが母親は助からなかった。そもそも母親は重度の火傷を負っており、助かる見込みはなかった。それでも、アリアンスは治療をしながら妊婦を探し出し、ローは母体に傷つけずに子どもを取り出した。
「何でもっと早く来てくれなかったの!」
 不眠不休の末に、疲労困憊のアリアンスは小さな子どもにそう言われた。ぐらりと傾く体をローが支えるとアリアンスは酷薄な笑みを浮かべて、子供に視線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「ごめんね」
 その子どもが止めをさした。
 全く同じ光景だったのだろう。アリアンスが四歳の頃、確かにガープは助けにきた。しかし、アリアンスはガープに刃を向けた。その子どもの心を誰よりも理解していたのはアリアンスで、そして、それを言われた側の心情を噛み締めた。
 その後も、変わらず働き続けたアリアンスは非難される所以はない。限界を超えても動くことのできる根性がアリアンスにはあった。しかし、アリアンスはローが見切りをつけてもその手を止めない。その腕を掴んで怒鳴りつけるが、焦点の合わない眼がローに向けられるだけだった。治療行為と共に見聞色の覇気を張り巡らせ、昼夜問わず処理を続けていた脳が完全に焼き切れている。アリアンスの時が止まっていた心は動き出してから数年しか経っていない。ローはそのままアリアンスの腕を引いて自分の肩にかけた。
 ローは肩を貸しているアリアンスを見やった。酩酊しているかのようにおぼつかない足取り、焦点の合わない眼。記憶の忘却と整理のために多くの睡眠を必要としているアリアンスは明らかに睡眠が足りておらず、この悲惨な島の想いが頭の中に渦巻いている状態だ。
 他のメンバーは歩いて船に戻れるようなので戻した。臨時の処置場で話を聞いた戦火を免れた小さな宿屋の灯りがついている。本来ならば、現地の住民に譲るべき場所だが、この宿屋はこの国を戦火で燃やし尽くした隣国のもの。明らかに余所者であり、顔を知られているローとアリアンスならば泊めてはくれるだろう、とローは思った。
 海の静寂よりも必要としているのは睡眠だ。ベッドに横たわすが、その目が閉じることはない。
「眠れないのか」
 くぐもったどちらともつかない言葉にもならない声が出て返ってくる。
 柔らかな白い肌、そこから香る匂い。そして、薄く開けた服から覗く骨格。男でも女でもなかった子どもが青年になりかけたその一瞬の時を止めた奇跡のような骨格。骨盤の位置は本来の女性よりも高いためにくびれはほとんどなく、前傾でも後傾でもないためか、臀部の肉感はほとんどなく品が良い。ただ、男性ほどその骨盤は狭くはなく、女性らしく大腿骨の付け根から膝にかけては角度があり、これがアリアンスの戦闘における体の柔軟性の一つの理由になっている。同様に鎖骨は女性らしく細く短く、アリアンスの中性的でありながら儚い雰囲気になる原因だ。一つ一つの骨格を精査しなければわからない性別。それゆえに、よく言えば大人特有の穢れのない体であり、別の言い方をすればとても人間とは思えない造形。ローはその穢れのない美しさが好きだった。ごく稀にアリアンスが大怪我をした際にはその体の全てを見るが、人間離れしたその身体を穢したくないと同時に認めたくは感情が芽生える。それは海賊らしい発想だった。貴族や王族のように美しいものをそのままの状態で保存するだけでは、その欲を満たせなかった。
 醜い所有欲。天性の存在をハートのキングのカードに落とし込むことだけでは収まらない無限の欲望。
 同じ部屋でソファーで眠っているアリアンスを見ても何も思わない。ポーラータング号のベッドで触れ合うように隣で眠っていても、そこがポーラータング号である以上、アリアンスは女ではなくローの持つ最強の切り札であり、ベポと同じく亡き妹のように放っておけない存在だった。アリアンスの無邪気な笑顔さえ手にしていれば、アリアンスに対する所有欲は満たされ、それ以上を望むことなどなかった。
 それ以上を望んでしまえば、平時のアリアンスはすぐに気がつく。そして、アリアンスには欲がない。その眼を情熱で燃やすことはない。
「眠れないよ」
 焦点の合わない目がローに向けられる。天性のカリスマ、王の器、堂々たる姿とはかけ離れている。細い腕は力なくシーツを掴み、消えてしまうことを拒むかのようだった。
「ロー、なのかい。音も何もしないから、わからないけれど」
「ああ」
 今ならばこの認めたくない本心も見られることがない、とローは思った。そのままベッドに体を投げ出すと、ぴったりとローの側に体をくっつける。潜水艇の狭いベッドですら、無理矢理でもいくらか何とかして隙間を開けるが、このときは違った。柔らかい薄い手を包むと、アリアンスは少しだけ微笑んだように見えた。
「おいていかないで。ずっと、ずっと一緒にいて」
 まるで子どものような声、眩暈のするのような匂い、柔らかい肌、ローに全てを預けている体。いくら大人の穢れを知ろうとも、アリアンス自身が求めているのは幼い子どもと同じ安心だけだ。そのようなことは誰よりもわかっているはずなのに、アリアンスだけではなく、ローもおかしくなっていた。理性が焼け切れるのに気がつかない程度には。しかし、アリアンスとは異なりおかしくなっていた自覚のないローは判断を間違えた。
 ボロボロの白衣を取り去るのも破れたシャツとズボンを脱がすのも簡単で、覆いかぶさると何も言わずにぼんやりとした目できょとんと首を傾げる。しかし、アリアンスは思考が焼け切れているだけで、処女ではない。
 処女でもないくせに、処女特有の何かもなければ、昔の男を感じさせるわけではない。何をしようとも、微かに漏れる生理的な声ですら酷く澄み切っていた。
「ローがいるの、わかるよ」
 ローは疲労で理性が喪失していくのを感じながら、初めての相手がアリアンスでなくてよかったと思った。どこまでも清らかなのに関わらず、恥じらいもなく、そのくせ世界に頼るものが己しかいないとでもいうような錯覚を与えさせる。娼婦の正反対に位置している。これが最初の相手であった同期が女性が苦手になったのも納得がいく。こんな人間を最初に相手にしたとすれば、世の女は大概劇物だ。気を失うというよりも、ローがいるということに安心して眠りに落ちていく様を見て、ローも一気に眠気が押し寄せた。
 ローは必ず共寝をした女をスキャンする。しかし、アリアンスにはしなかった。目が覚めたときに、朝の日差しに照らされながらしっかりと眠りに落ちていたアリアンスを見て、ローは安心してしまった。睡眠は記憶の整理と忘却をおこなう、アリアンスには食事以上に必要なものだった。この島全ての憎悪を抱え込むことを強いられる理由がどこにあるのだろうか。そう思うからこそ、眠れないアリアンスの手を取ったのだから。



 アリアンスは寝ていることが多く、あまり島に降りることはしなかった。ローはアリアンス含めて、女性特有の内科的な部分についてはアリアンスに任せきりだったため、イッカク含めてそれらを管理しているのはアリアンスだった。
 あの日の記憶はアリアンスには朧気だ。避妊はしていたようだった。思考は完全に焼け切れていたが、嘗て他のルーキーとの交際経験のあったアリアンスは何があったかをすぐに悟った。しかし、アリアンスはその日が危険な日であることも把握していたし、避妊が百パーセントのものではないことも知っていた。そもそも、アリアンスの最後の記憶ではアリアンス自身も思考が焼け切れるほどに疲弊し、平常心を失っていたが、ローも同様である。だから、アリアンスは最初からそれを視野に入れていた。
 ゆえに、自身の妊娠の事実に気がつくのは早かった。
 アリアンスは、ローの女性関係についてある程度は把握していて、ローが必ず共寝した女性にスキャンをかけていることを知っていた。ローの一番の関心は冒険にあり、恋愛ではない。ゆえに、アリアンスは最高のカード足りえるのだ。
 アリアンスは怖くなった。どう切り出して良いのかもわからなかった。正直、危険をともなう船旅において妊婦は足手纏いで、その上、アリアンスの妊娠によって戦力が欠けるとなると、酷い損害になる。また、子どもの世話も必要だ。アリアンスにもローにも子どもを預ける場所はない。
 このままローに知られる前に堕ろしてしまうことが、今を生きる者たちにとっての最適解だった。それが世界の最適解となれば、アリアンスは簡単に命を差し出す。ただ、子宮の中にいる命はアリアンスのものなのか、アリアンスにはわからなかった。
 悪阻は酷くはなかったが、吐き気は酷かった。それは精神的なものもあった。幼少期のアリアンスに刻み込まれたルージュの出産時の記憶は未だにアリアンスを蝕む。同時に、命を犠牲にしてエースを産んだルージュをアリアンスは否定することはできない。
 同じ部屋で寝起きするローから全てを隠し通すのはアリアンスには難しいことだったが、不可能ではなかった。ただ、相当無理は強いていた。健啖家のアリアンスが急に食が細くなったり、味覚が変わったりすれば即座に疑われる。アリアンスは無理して食べて吐くことを繰り返していた。特にアリアンスは見聞色の覇気も長けていたが、五感に優れていたこともあり、ポーラータング号で船長の好き嫌いにより毎回出てくる白米の匂いがかなり苦手になっていた。
「私は貴女の姪。本気を出せば、隠し通せるものだね」
 静かな森だった。小瓶を眺めて空に問う。
「ねぇ、ルージュ。私はどうすれば良いのかい」
 アリアンスの心の安全基地は失われて久しい。
 ルージュとは違い、アリアンスは自然分娩ができない。そのまま時折襲う酷い眩暈に逆らわず、アリアンスは倒れるように横になった。世界が歪み続ける。世界はアリアンスの存在を拒むように、胎の中の生命を呪うかのように、アリアンスの体を蝕んでいた。



 ローは運が良かった。
「東の港についた海賊の方かね」
 アリアンスがよく薬屋に行くように、ローもまた薬屋には立ち寄る。それほど大きくない町で、ハートの海賊団の寄港は瞬く間に広がっていた。ローがああ、と雑な答えを返すと、ローに声をかけた店主はローを目を細めて鋭い目つきで見据えた。そして、口をゆっくりと開いた。
「余計なお世話かもしれないが、アンタのところの男か女かわからない美人さんが堕胎薬を買っていったよ。酷く思い詰めた顔だったから、一応伝えておくよ」
 薬屋、男か女かわからない、美人。それだけあれば、それを買って行った人間について、ローはすぐに把握できた。ローでなくてもわかるだろう。また、頭の回転の速いローはすぐに最悪かつ、極めて正解に近い想定をした。
「そいつはどこに行った?」
 ローは店主の胸倉を掴む勢いで声を荒らげる。しかし、店主は海賊としてよく知られたロー相手にも酷く冷静だった。
「人気がないところを探していると言ったから、北の森を教えたよ」
 そして、すぐに踵を返そうとするローに淡々と続けた。
「あと、兄ちゃん、あの子には酷く口止めをされているんだ。ただ、うちの子の病気を診断してくれてね。余所者が言うのもなんだが、悪いようにはしないでくれるかな」
 ローは北の森に急ぎながらも、この店主がアリアンスに薬を売るのを迷ったことを察していた。この店主は人を見る目はある。しかし、人を欺くことについては一流のアリアンスが、こうも簡単に見破られるということは、アリアンス側に問題があったということだ。それだけ、「思いつめていた」ということである。
 北の森にはすぐに辿り着いた。
 静かな森の中で、その存在は一際目立っていた。そのため、ローはアリアンスを見つけ出すのに苦労はしなかった。当の本人は眠りについていたが、口から吐瀉物が出ていた。相当苦しんだのか、体の周囲の土は酷く抉れていた。顔色は酷く悪い。そして、その指の先には小瓶が落ちていた。ローはその小瓶が未開封であることに安堵し、すぐにROOMを展開して、スキャンした。ローのスキャンは決して万能ではなく、ある程度の標的を定めなくてはならない。限定的に標的を定めたため、ローのスキャンの精度はかなり良く、状況をしっかりと把握した。
 アリアンスは男にも女にも言い寄られるが、体を許すことはない。誰よりもその危険性を潜在的に恐れているからだ。胎児の発達から妊娠した時期は推測ができる。アリアンスの恐怖を理解していだがゆえに、アリアンスとは異なり記憶のあるローは酷く後悔した。
 眠りが浅くなっているのだろう。本来ならばアリアンスは滅多なことでは目を覚まさないが、ローの気配を察したのか、その眼を開けた。
「やっぱり、私は最後の最後でやらかすんだね」
 それが頂上戦争のことを言っているのをローは容易に察した。
「何故、俺に言わなかった」
 ローの怒りは、怒鳴り散らす程度を通り越していた。ゆえに、彼にしては感情がなく酷く冷たかった。その声に、アリアンスはびくりと体を揺らした。そして、ローから体を守るかのように体を丸めた。その程度の抵抗はローの能力を前にして無駄なことはアリアンス自身がよく理解している。そして、アリアンスは無駄なことをしない。あまりにもアリアンスらしくない人間らしい本能的な動作は、アリアンスがいかに追い詰められていたかを察することができた。
「世界から拒まれているような気がしていた」
 絞り出すような声だった。
 幾度とない医者としての出産の仕事で塗り固めたとしてもそれは一瞬のことで、アリアンスにとって最初から最後まで見ていた妊娠と出産は海賊王の息子の誕生のみだ。そして二年近く、祝福されず、悪意に晒されている状況で、最も近くに在り続けた。
 そして、母親もその子どもも死んだ。その死をアリアンスは見せつけられた。
 沈黙の後、口を開いたのはいつもの調子に無理やり戻そうとしたアリアンスだった。
「君は優秀な医者だし、少しでも疑われたら一巻の終わりだ。だから、苦労したよ、君から隠すのは」
 ただ、その行為自体がローの怒りをさらに増幅させる。
 ローの中で、怒り以外に様々な感情が入り混じる。同室で過ごしていたローを欺き、相談すらせずにひた隠しにしていた。
 ただ、精神も肉体も限界を迎えているアリアンスをこれ以上追い込む権利がたとえローにあったとしても、ローは行使しない。己の至らなさを棚に上げてしまえるようなプライドの低い男ではない。
 そもそも、アリアンスの骨格は女性としては未完成である。アリアンスは中性的であるが、それは骨格にも及んでおり、その骨盤は女性にしては狭く深い。ゆえに、産道を人間の子どもの大きな頭が通る、つまり自然分娩は不可能であり、帝王切開が必要になる。当然、アリアンス自身もそれを知っている。アリアンスは永遠の青年。その身体は子どもを産む大人にはなれない。
 出産に関わる辛い過去を持ち、自身は一人で産むことも叶わない。雁字搦めの孤独な王。
「ごめんね」
 アリアンスにかけられた大人にはなれない呪い。
「誰に、何に対して謝っている」
 語気が荒くなる。普段は全く気にならないが、この時ばかりは罪悪感が心を蝕む。笑うことしかできないアリアンスは穏やかに笑みを浮かべる。それが止めだった。
 己の無力さを突きつけられたのはアリアンスだけではない。
「察してくれ。これ以上、怒りたくはない」
 縋るようにそう言い放つと、アリアンスは黙って頷いた。



 そこからしばらくはローがさまざまな気遣いをした。人として当然のことなのだが、アリアンスは素直に驚き、普通に嬉しいと感じた。ただ、仏頂面でパンを買ってきたときには声をだして笑ってしまい、ローに怒られてしまったが。
 体を動かすことは苦ではなかったこと、仲間に早い段階で知られることを避けるために、相変わらず戦闘には参加していたが、ローはそれについては良い顔をしなかった。
 しかし、アリアンスは仲間に知られることも怖がった。そのため、限界まで隠す気でいた。ローはその不安を払拭したいと思っていたが、そもそもローすら信用できなかったアリアンスの過去に根付いたぼんやりとした不安についてはどうすることもできなかった。
 アリアンスの心配は他所に、ローは存外この事実のみに関しては喜んでいた。自身でも不思議なほどに、妊娠も出産に関してトラウマのないローは能天気に、子どもが成長していくことを楽しみにしていた。ただ、当人の性格ゆえ顔に出すことも口に出すこともしなかった。また、アリアンスが体、特に子宮の近くを触れられるのを嫌がったため、子どもの成長はアリアンスが眠っている間にスキャンで確認するだけだった。また、ローは自分自身の体について酷くぞんざいな扱いをするアリアンスが、自身の体調について我儘を言うのを聞くのは満更でもなかった。少し目を離してしまえば、何をするかわからないのがアリアンスだ。
 アリアンスは世界と自分を天秤にかけて、自分が死ねば世界が良くなると確信すれば、即座に自身を切り捨てる。
 ローにとっての当然の気遣いを嬉しそうに受けるアリアンスを見て、ローの傷は癒えていった。



 体も大きく筋肉質だったため、腹は目立たなかったが、それでも隠すにはかなり気を遣わないと行けない程度には張り出しており、アリアンスは臨月になってようやくハートの仲間たちに孕っていることを伝えた。そして、簡略化した一部始終を。当然、ローやアリアンスの過去には触れない。
「キャプテン、アリアンスなんかに手を出すからこうなるんですよ」
 とはいえ、誰よりも先に正論を言ったのはペンギンだった。
「引く手数多な中、何でよりによってアリアンスに手を出したんですか?」
 シャチが詰め寄る。女に飢えているハートの海賊団のクルーですら、アリアンスには食指が動かない。アリアンスはアリアンスであり、女ではない。そして誰もが何よりも何となく察してしまう「何か面倒臭そう」という直感。それは、普段のアリアンスの言動を見ていれば誰でもわかる。立ち寄った島でのアリアンスの言動から、「こいつ面倒臭そう」という言動を隠そうとすれば隠せることも一同は知っているが、アリアンスが身内に隠す気がないためそうなってしまう。そして、アリアンスに最も近い位置にいるのローだ。
「絶対面倒臭くなるって、誰よりもわかっているでしょう」
 だから、アリアンス一番の被害者のローが気がついていないのがおかしいのだ。ペンギンとシャチも何となく気がついているが、我らがキャプテンは頭は良いが案外何も考えていない時は考えていない。そして、独自の感性を持っていることに自身は気がついていない。
「そもそもお前らに言っていない経緯はあるし、そもそもこいつの骨格を見て何も思わないのか!?」
 空気が凍結する。骨格ってなんですか、と全員の顔に書いてあった。どんな特殊性癖しているんだ、この人は、と誰も口に出さなかっただけマシだったのだが、凍結した空気は動かない。
「ほら、私では絶対無理な領域の外科やってもらっているから、君たちとはおそらく感性が違うんだよ」
______キャプテンがあのアリアンスに気を遣わせた。というか、アリアンス、ポーラータング号でも気を遣えたんだ。
「何笑ってやがる、当事者が」
「いや、なんでもないって」
 声を荒らげるキャプテン。構わず笑いながら果物を頬張るアリアンス。それを見て、ハートの海賊団のクルーたちは思った。まあ、悪くはない、と。



 ローのスキャン、アリアンスの覇気により十分に発達したことを確認した日に、生理食塩水の水滴とシャンブルズされて子どもは生まれた。アリアンスもローも子どもの性別は当然知っていたが、仲間には明かさなかった。
「二人いる」
 目をキラキラさせてそう言ったのは、誰よりも子どもの誕生を心待ちにしていたベポだ。本来、華奢とはいえ体が大きく筋肉質のアリアンスは腹が張り出すようなことはあまりないのだが、双子だったため、隠すにも隠しきれなかった。当然、双子であることもクルーたちには黙っていた。ベポが触っていいかな、いいかな、と訊くのをローが宥めて、ペンギンとシャチが生まれた二人の処置をする。
「この女の子、キャプテンにそっくりだ」
 一人はローによく似た女の子。
「男の子の方は、アリアンスに似たな」
 もう一人はアリアンスにそっくりの男の子だった。
 わいわいと騒ぐクルーたちを背に、ローはアリアンスに胎盤を売って良いのかを尋ねていた。人間の胎盤は、特にローが取り出した胎盤は乾燥させればお金になるので、アリアンスは普通に承諾した。ここまでが長かったこともあり、二人は仲間の前ではわりと冷めた態度をとっていた。特にアリアンスは、まさか仲間がこんなに喜ぶとは思っていなかったため、普段のキレた頭がぼんやりとしていたこともある。そして、ローも実感がなくあまり冷静ではなかった。
 つまり、二人揃って柄にもなくぼんやりとしていた。
 あまりにも騒ぎすぎたので、ローに全員が追い出され、処置室にはローとアリアンスと生まれたばかりの子ども二人になる。
「おい、アリアンス」
 ローが子どもの一人を近づける。ローはこれまでアリアンスの我儘には付き合っていたし、アリアンスが子どもを触るのを嫌がることはわかっていたが、これだけは許さなかった。ここでそれを許してしまえば、アリアンスは永遠に子どもに触れることがない。それでも子どもたちは健やかに育つだろうとローは思っていた。ただ、アリアンスが、誰よりも苦しんだ人間が救われるのを拒むことをローは許さなかった。
「私は、この子たちを殺そうとしたんだ」
 わかっているだろう、とアリアンスは困ったように笑う。ローは、嫌がっていることはよくわかっていたが、それでも態度は崩さなかった。
「ただ、守ったのもお前だ。俺は何もできねぇ。取り出すのを手伝う程度だ。その腹の中に別の人間を二人も入れていたとはお前だ」
 ローに疑われないためか、アリアンスは無理に無理を重ねた。そして、産む直前までハートの海賊団の最前線で戦っていた。アリアンスは海賊王とは血が繋がっていないが、二十ヶ月子どもを腹に入れていた人間の親戚だ。体質は遺伝する。
 産後でやつれた表情でも、恐ろしいほどにその美しさには翳りがない。しかし、子どもを産んだ者特有の強さはなく、その見た目は儚い青年にしか見えない。そもそも、出産に耐えられるような在り方をしていないのだ。そのアリアンスに、それを強制してしまったのはローだ。
「私は触って良いのかい」
 ローは何も言わなかった。何も言わずに二人の子どもをアリアンスの枕元に並べた。アリアンスはその腕で控えめにその体を順番に包んだ。
「人間だ」
 ローを見上げて、アリアンスは表情なく当然のことを言う。
「私ともローとも違う。私のものでもローのものでもない人間だ」
 アリアンスは、二人の生殺与奪の権利を握り、殺そうとしていたことを長く後悔することになる。



 二人は他のクルーに子どもを任せたまま、静かな船長室でのんびりと晩酌をしていた。
 産後すぐに酒を呑むのも如何なものかという意見もあるが、アリアンスもローも忙しいので生まれて間もない頃から他のクルーに世話を任せてしまっていた。特にアリアンスは二人を避けており、それを察したローはアリアンスの意向を尊重した。どちらにしろ、何だかんだみんなが大好きな船長と元船長代理の子ども。可愛くないはずがないし、クルーたちは皆、世話をしたがる。
 ローは命名に関しては全権をアリアンスに譲った。ローは非常に献身的だったが、ロー自身にとっては当然のことであり、特に自身は何もしていないという認識だった。そのため、自身にそのような権利はないと思っていた。アリアンスが嫌がるようだったら、ローが考えることも視野に入れたが、アリアンスは名前をつけることについてはそれ程嫌がらなかった。
 アリアンスも、名前は何なの、と目を煌々とさせたベポに酷く急かされて、態度はかなり軟化していた。当然のことだが、仲間たちは二人も腹の中に入れながらギリギリまで戦闘に参加していたアリアンスを素直に尊敬していた。冷徹な王の器も、ハートの海賊団を前にするとその心が溶けてしまう。そのため、普段のアリアンスと変わらぬ雰囲気だった。
「女の子は、トラファルガー・D・アウステル・リッツ」
「長ぇな」
 ローはそうは言ったが、自身の名前の原典である御伽噺を知っていたアリアンスに対して内心では驚いていた。
「トラファルガーに対して勝ち気な感じになりそうで悪くないだろう。アウステルは忌み名だ。普段はリッツで良いさ」
 ローは勝ち気な女か、と思いながら娘の姿を思い出した。新生児に大きな違いはないが、隣にいる息子があまりにもパッチリとした目をしているせいか、どことなく目つきが悪く見える。まだ焦点も合っていないはずなので気のせいではあるが、ローは何となく負けず嫌いで勝ち気な娘になるような気がした。そういう女は人生苦労しそうだな、とローは己のことを棚に上げて、未だに人の区別もつかない娘の行末を案じた。
 ローの心配の通り、この娘は見た目も性格もローに似ることになる。
「そして、こっちはポートガス・D・ベル」
「女の名前だろ」
 確かに名前の意味のまま美しいが、その名前は女性のもの。
「この見た目なら、その方が何かと不便はしない」
 アリアンスは泣き喚くベルを遠巻きに眺めながら続けた。
「そして、ベルは見えている」
 ローはその言葉の意味がわからないわけではない。アリアンスがそうである以上、その子どもがその性質を受け継ぐ可能性は高くなる。アリアンスを最も苦しめた天性の才。
「見聞色の覇気持ちだ。だから、リッツに比べてよく泣くんだ」
 既に二人には違いが出ていた。男の子、ベルの方はよく泣く。寝つきも悪い。目を細めてベルを見るアリアンスはベルを哀れんでいた。ただ、この時のアリアンスは知らない。ベルはアリアンスによく似ていたが、紛れもないローの血を引いた息子だった。



 アリアンスは、リッツともベルとも距離を置いていた。距離を置く産みの親というのもなんだが、アリアンスは一度二人を殺そうとした負い目があった。もし、この二人が不幸であれば、もしくはアリアンスがこの二人を産んだことにより不幸になることがあれば、アリアンスも罪悪感を感じることはなかった。ただ、現実はその真逆で、二人の子どもは実に健やかに成長していた。
 子どもには母親が必要不可欠だとか、親が必要だとか、アリアンスは思っていない。特に自身に親がいなかったが、ちゃんと愛されていれば問題ないと思っていた。ただ、ハートの海賊団で教養のある者は少ないため、様々な知識はアリアンスが教えていたが、それ以上のことは特にしていなかった。
 生命力を培うために夜のジャングルに放り込む手法はローに却下された。
 アリアンスは前の島で手に入れた医学書を手に欠伸をしていた。そして、その気配に気がついていながら、わざわざ訪問者が来てから医学書を閉じて、そちらに顔を向けた。
「ベル、どうしたんだい?」
 見た目はアリアンス生き写しのようなベル。贔屓の激しいローが二人の子どもについて比較的平等に接しているのも、ベルが男の子なのに関わらずローの好む骨格をしているからだ。ベルは、アリアンスによく似た人に好かれる子どもらしい笑顔を浮かべている。
「アリアンスに遊んでもらいたくて」
 手にはチェスセット。見聞色の覇気に長けた二人にとってそれはただのチェス以上の何かに発展し、遊びの範疇を越えていくので、アリアンスは溜息をつく。
 だからといって、子どもの遊んでほしいという言葉を無視することも、手を抜くこともしないのだが。アリアンスは自身の内面を見抜く自身の生き写しが単純に苦手だった。しかし、ベルはアリアンスと遊びたがる。
「リッツは知らないだろう」
「リッツは癇癪起こして、ローと喧嘩するのわかっているから、教えいないよ」
 二人の会話は他人に意味のわからない突拍子のないところから始めるが、二人の間だけでは会話は成立する。ベルはアリアンスが自身を殺そうとしていたことを知っていた。ゆえに、意味のわからなかった幼少期は、現在とは正反対で、アリアンスのことを酷く怖がった。アリアンスとしては当然の報いであることがわかっていなかったので、特に気にしていなかった。むしろ、今の状況の方が戸惑っていた。
「でも、多分、わかってから話をしてもリッツはローと喧嘩すると思うけれど」
「私もそう思う」
 逆にリッツは昔から変わらない。良くも悪くも出来の良い普通の子どもだった。そして、正義感が強くとても頑固で、そのせいでローとよく言い争いをしていた。特に、最近のネタはローの好き嫌いだ。好き嫌いはダメだという正論をお見舞されて、拳骨を返したいところを娘だということで我慢しているローを、アリアンスとベルはぼんやりと見ていた。リッツは年相応の子どもらしく世界は自分を中心に回っているくらいの勢いなので、収拾がつかない。
 しばらくすると、急に扉が開いた。二人とも予期していたことだったので、驚きはしなかった。
「ベル、アリアンスのところにいたの? 船から落ちたと思って心配したよ。あなたはぼんやりしているから」
 ローによく似た三白眼だが、子どもながら既に整った顔立ちをした少女が仁王立ちしている。
「大丈夫だよ、リッツ。ありがとう」
 傍目からは、リッツはぼんやりとした兄弟を引っ張っているように見えるし、本人もそのつもりだが、実際は違う。隣にいるベルはまだ情報の処理が上手くいっていないためぼんやりしているだけで、実際はリッツを危険から遠ざけることにベルは執心している。リッツにそれ程興味がなさそうに見えて、その実リッツよりもベルの方がリッツに執着し、依存している。ローがリッツを心配したように、アリアンスはベルがリッツに関するあらゆるものを独占しようとしないかを心配している。「何で私は男の子からすぐに逃げられるの」と怒るリッツとそれを宥める黒幕ベルの姿がアリアンスの脳裏には描かれている。
 ただ、そのようなことが裏で展開されているなどとはリッツは知らないし、アリアンスも心配はしているが、それはそれで、という性格なので特に何も言わない。
「アリアンスも目を離すとすぐにどこか行っちゃうんだから。私はベルだけで大変だから、アリアンスはローにお世話してもらって」
 今のところ向かうところ敵なしなリッツにかかればアリアンスもこの扱い。びしっと言い放ち、ベルの手を引くリッツを、アリアンスは目を細めて見送る。
「ありがとう、リッツ」
 言わば敵陣で育てられたアリアンスは、自身の人生にはなかったリッツの子どもらしい性格が好きで、酷く甘かった。
 入れ替わりで入ってきたのは部屋の持ち主であるローだった。
「ロー、リッツのお世話、ありがとう」
「五月蝿ぇからシャチに押し付けてきた」
 リッツは最近、キャプテンの意味を知り、やたらとローに対して己の思うキャプテンらしさを説くようになった。アリアンスはチェックメイトをかけたチェスボードを見やる。ベルは勝敗に拘らないので、すぐに帰っていくが、リッツは勝ちたい気持ちが強く、勝つまで粘ろうとする。ローもリッツに対して折れることはないし、アリアンスもリッツに手加減をするようなことはしないため、シャチがよく間に入って何とかリッツについた炎の火消しをやっている。
「リッツはシャチを子分にしたいらしいから、良いんじゃない」
 そのせいで、リッツの中で自身の序列がシャチよりも上になったのだが、今のところローにもアリアンスにも実害がないため、二人は放置している。実害が伴わないのもシャチの人格と苦労ゆえであるのは二人もよくわかっているので、シャチの評価は上がった。
 だからといって、別にシャチの取り分が多くなるようなことはないのだが、下船時に便宜を図る程度のことはしていた。
「ねぇ、アリアンス」
 リッツについていったはずのベルがひょっこり顔を出す。
「抱っこして」
 アリアンスに身を寄せる。アリアンスは困ったような笑みを浮かべて、控えめにその体を触った。
「もっと、ぎゅーっと」
 嘗て海軍に愛された子どものように、その子どとは太陽のような笑顔を浮かべる。アリアンスは目を見開き、その力を込めて抱き締める。そこに広がるのは屈託のない笑顔。どこか不完全ながらも優しいアリアンス、その隣にいるロー。抱っこはしてほしいけれど、それが言い出せずにローに抱かれて満更でもないのに、「抱っこなんて子どものすること」と思ってもいないことを言うリッツ。それが小さな世界でベルが思い浮かべる理想の世界。
「ありがとう。ベルはアリアンスが笑ってくれるの好き。アリアンスの近くが好き。ローが近くにいるともっと好き」
 アリアンスは誰よりもベルが本心からそう思っていることを理解してしまう。ありがとう、と再び強く抱きしめると、ベルは幸せそうに笑う。満足して部屋から出て行くベルを見送ったローは、呆れ顔でアリアンスを見た。
「人誑しなところはお前にそっくりだな」
「そうかい? 私を救ってくれるところは、二人ともローによく似てくれて、私は幸せだけどね」
 わざと言っているのか、こいつ、とローはアリアンスを見やる。しかし、アリアンスは純粋に嬉しそうで悪意は全くなさそうだった。性質が悪い、と思いながらも、ローも二人の子どもと一人の大きな子どもに振り回される穏やかな日々は悪くないと思っていた。その言葉も純粋な意味も。
「リッツはあれで大丈夫なのか? 我が強いにも程がある」
「ベルがいなければ大丈夫だろう。きっと美人になるさ」
「どういうことだ?」
 アリアンスは笑って誤魔化す。アリアンスはリッツを可愛がり、ベルの良き理解者であり続ける道を選んだ。リッツ自身の強さを信じたとも言える。心配性のローが何とかするよりも、二人が二人の力で乗り越えられると信じていた。



 リッツはその名のとおりの選択をした。すなわち、ハートの海賊団からの独立。その際にはローとは大喧嘩をした。しかし、ロー譲りの武装色の覇気と、ローにもアリアンスにも通じる頭脳と、主にローですら梃子摺る頑固さを持ったリッツは、ローに完全勝利し、船を出ていった。アウステル・リッツ、華々しい勝利の名を口にして。
 両親と同じ大太刀を、たとえ血の繋がった親だろうとも容赦なく振り回した。ローの能力にも屈せず、血の繋がった娘に本気を出せないローは大変な苦戦を強いられた。リッツは容赦しないが、ローは幼い頃から喧嘩ばかりの娘であろうとも、傷ひとつつけたくないのだ。リッツは「今は」能力的に敵わずとも、ローが本気を出せないことを知った上で勝負に出たのだ。
 アリアンスはリッツの門出に食糧と当面の間何とかなる程度の財宝を持たせた。実際はアリアンスは何も持たせずに放り出しても良いと思っていたのだが、ローがそうはさせなかった。とにかくローは娘に甘かった。とはいえ、ローは自ら手渡すことはしたくないらしく、離れたところから冷たい目で船を降りたリッツを見下ろしていた。
「アリアンス、私は別に何もなくても何とかやっていけるけれど、一応、ローにありがとうって言っておいて」
 しかし、リッツはしっかりとローのことを理解していた。似たもの同士なのだ。お互い隠し事ができるはずがない。それを直接ローに言えずアリアンスに言うリッツもローにとてもよく似ていた。アリアンスが頷くと、リッツは続けた。
「アリアンス、あのね」
 ローによく似た目だが、ローとは何処か異なる凪いだ眼がアリアンスを射抜く。その眼光は極めてアリアンスに似ているのだが、アリアンス本人はわからない。
「ローとシャチが出しゃばるけど、私とベルが一緒にいたのはアリアンスが一番長いんだから。何があっても、それは変わらない」
「寂しがらせていたのだったら、悪いことをしたね」
 アリアンスは誤魔化す。己とよく似たところを持ったリッツのそれには気が付かない。自分自身と似たそれが覗くのは本当に一瞬だからだ。リッツはアリアンスの言葉にすぐに表情を変えて怒り出す。
「そうじゃない。アリアンスの馬鹿」
 怒った顔はローにそっくりなのに関わらず、アリアンスにとってローの怒りとリッツの怒りは異なる意味を持つ。アリアンスはローに怒られることについては何も思わない。ただ、リッツは違う。
「私もベルもローのヘンテコ能力で生まれたし、アリアンスが何を思っていたのかも知らないけれど、たとえ何があっても、私たちにとって一番偉いのはアリアンスなんだから」
 真っ直ぐと前を見据えるその眼はローに似ている。ベルのように最初から知っていたわけではないが、リッツとて気が付かないはずがない。アリアンスが何故不自然に距離を取るのか、いつまでも気が付かないような娘ではない。アリアンスもそれは知っていた。ただ、リッツの口からそれが出たのは初めてだった。ローに似た小さな瞳孔と氷のような美貌の娘。アリアンスはこの娘に触れたことはほとんどなかった。
 最後ぐらい、と思って抱き寄せる。すると、驚いたのか、ひう、という空気を吸う音がした。
「リッツ、ハートの海賊団とリッツは袂を分つことになる。でもね、これは私の養父の言葉なんだけど」
 養父は言うのが遅かった。だから、アリアンスは先に言う。もう二度と失わないために。
「家族は違う。家族であることは変わらない。だから、リッツが助けてほしいって言うなら、私は助けにいく。絶対に生き延びて。それだけは約束して」
 血の繋がりは重要ではない。それでも、アリアンスには血の繋がっている「家族」はリッツとベルしかいない。それはローも同じことだ。天涯孤独の二人に、正しく天が授けたのがこの二人。
「何泣いているのさ」
 嗚咽とともに肩が濡れていくのをアリアンスは感じた。
「アリアンスが泣かないから代わりに泣いてあげている」
 もし、アリアンスが泣くことができたのならば、今この場で涙を流していたかどうかはアリアンスですらわからない。最後まで意地を張る娘にアリアンスは思わず笑みが漏れる。本当に立派に育った。
 トラファルガーとアウステル・リッツ。相反する名前に相応しい。
「ありがとう。リッツは優しいね」
 アリアンスは、強く優しく真っ直ぐと育った娘を手放したくないローの気持ちがわかったような気がした。




「ベルはどうする?」
 ベルはアリアンスに似たどこか儚い中性的な優男になった。リッツはベルが海賊になるのは心配だから、と言ってベルの同行を許さず、ベルは何も言わずに引き下がった。ただ、アリアンスはベルがその程度で終わらない男であることを知っている。
「私は海兵になる」
 ハートの海賊団一同目を丸くする。いくらアリアンスが元海兵だったとはいえ、海兵という選択はあまりにも突拍子がなさすぎた。何よりも、それはリッツのみならずハートの海賊団との明確な決別となる。
「海兵になれば、ずっとリッツを追っていけるよね?」
 ベルは昔から聞き分けの良い子どもで、時折爆弾のような発言を投下することがあっても、アリアンスの子どもだから、とハートの海賊団の団員は特に気にしていなかった。とりわけ、アリアンスが問題視していなかったことも大きい。アリアンスはベルにとって常に良き理解者であった。
「それは君次第だよ、ベル」
 アリアンスはベルの頭を撫でる。とても姿形がよく似ている二人。特にアリアンスは時を経たのに関わらずその瑞々しい見た目は変わらないせいか、生写しのような見た目をしている。
「私だけでは至らないから、アリアンスは上手く、私たちを助けて」
 他の者たちは、アリアンスにただ助けを乞うただけだと思った。ただ、アリアンスはその真意を理解する。
「あまり手を出す必要はないから安心して」
 理解者二人の行間をすっ飛ばした会話には誰もついていけない。ただ唯一わかるのは、自分の子どもを愛おしそうに見るアリアンスが、酷く儚く、悲しげで、そのくせ目の前の未来へ目を輝かせていたことだ。
 彼は、海賊の子として海兵になるのに、アリアンスより遥かに苦労することになる。しかし、本来、アリアンスが海軍で発揮するべきであった統治者としての才能は彼に受け継がれる。そして、嘗ての海軍本部を知り尽くしたアリアンスの助力を受けて、彼は少しずつのし上がっていく。
 ただ、勝利をしたのはリッツだった。その名のとおり、自由を勝ち取った。アウステル・リッツ。たった一時ながら、大国の連合軍を打ち破った御伽噺の名を掲げて。そして、美しい名前を持ち、生まれた頃から少しずつ強く美しく成長していくのを側で見ていた男は敗北した。リッツは、ローに負けず劣らず負けず嫌いであり、能力もローによく似ていたが、唯一明らかに違う点があった。
 アウステル・リッツは、アリアンスの公平さと冷静さを受け継いでいた。リッツは何度も辛酸を舐め、努力を繰り返し、天性の才能を持つベルを打ち破った。いつまでもリッツに執着するベルとは異なり、ローの未来を切り開く力とアリアンスの公平さが上手く噛み合い、リッツは新たな時代を切り開く。



 部屋に戻るなり、ローはベルの意志はどういうことだとアリアンスに問うた。滅多にベルの考えを語らないアリアンスも、流石に今回についてはローも知る権利があるだろうと思い、口を開いた。
「海賊になれば、海兵は敵だから、内部を牽制しながら、海兵としてリッツの脅威はしっかり片付けることができる。リッツの情報統制だって可能かもしれない」
 ローにしてみれば、それは突拍子のないことだった。ベルの行動がそもそもリッツのためだとは思いもよらなかったからだ。実際、ベルは上手く隠していたとアリアンスは思っていた。
「子どもの頃から、リッツがベルは女の子にも男の子にも好かれるけれど、自分は避けられる、とよく怒っていただろう」
「俺の顔のせいだと何癖つけてきたやつか」
 ローが苦々しい顔をする。リッツは自身の三白眼や整っているが強めの容姿がローのものだったため、よくローに文句を言っていた。対するローも、その性格のせいだと怒り、アリアンスはその性格もローに似ているんだけど、などとぼんやりと思いながらやり取りを見ていた。
 真実を知っていたことも大きい。
「あれ、ほとんどベルのせいだから」
 アリアンス同様に、二人をぼんやりと見ていたベルこそ元凶であることを、アリアンスだけが知っていた。
「ベルが上手く立ち回って、常にリッツを独占していたんだ」
 ベルはアリアンスに似てしまった。ベルはリッツに比べて意見を押し通すことがないと言われているが実際は違う。根回しとその能力で、リッツのように正面切って戦わずとも己の意思を相手に悟られることなく通しているだけ。その能力は明らかにアリアンス由来だ。しかし、問題はそこではない。
「誰に似たんだ」
 アリアンスはそこまで人に執着しない。その心は海のように広く、むしろ広すぎるのが問題な人間。面倒臭そうに顔を歪めるローにアリアンスは笑顔で答える。
「立ち回りは私由来かもしれないけど、そのしつこさは少なくとも私ではない」
 答えは一つである。


 ベルを駐屯地のある島に下ろして、ハートの海賊団は出港する。アリアンスは草臥れたソファーに横になって、宙を見ていた。ローはベッドに倒れ込み、アリアンスを見やる。
「おい、アリアンス」
 そう声をかけるとなあに、と首を傾げる。その姿は二人の子どもが巣立った親とは思えない。澄んだ目に決して変わることのない体。艶やかな肌。出会ったあの頃と何一つ変わらない。
 その答えをローは知っているし、アリアンスもおそらく察している。
「よくやってくれたな」
 アリアンスは何も答えない。
「それは俺か」
 ローは自嘲した。アリアンスはうーん、と
「リッツもベルが死の間際、生まれてきてよかった、とそう思えたとき、私たちの罪は許される」
「死んでいるだろ、俺は……」
「私は?」
 凪いだ眼には未だに慣れない。その言葉を突きつけられたとは鎌をかけてきただけだろう。
 ローは上手く話を逸らすことにした。
「やめろ、お前が後追い自殺などしてみろ、俺の死後数十年以上、あの口だけは達者な小娘がこの世で一方的に俺の悪口を言い続ける」
 アウステル・リッツは強くなった。ロー自身認めたくはないがローによく似た娘は、血の滲むような努力をした。とはいえ、ローがリッツを褒めることはない。
 リッツの実力を疑うような輩は全員黙らせるが。
「私もベルを怒らせたらどうなるか想像つかないからな」
 アリアンスはローの言葉を否定せずに呑気に笑う。アリアンスはアリアンスでベルのことを強く気にかけている。アリアンスはローに時折ルージュの話をするようになった。アリアンスにとっての唯一の存在のようになれない、というどうしようもない問題をアリアンスが重要視していることをローは気がついていた。
 とはいえ、それはローも同じだ。ローも自分の両親には敵わないと思っていた。ただ、別にアリアンスとローだけがリッツとベルの世界ではなかった。
 二人はハートの海賊団に育てられた。
「静かだね」
 寂しい。
 その言葉がアリアンスには出てこない。ただ、長年アリアンスを隣に置いていたローはアリアンス自身よりもアリアンスの感情がわかっていた。
「おそらく触る。嫌なら言え」
「嫌じゃない。もういいよ。ありがとう」
 シャンブルズで目の前の本とアリアンスを入れ替える。髪を撫でる。リッツの髪以外の女の髪に触れたのは十年数年ぶりだ。アリアンスに触るのも。
 身体的に距離のあったローとアリアンス。
「十何年ぶりだろう」
 アリアンスは十六歳の体から変わらない。
「ロー、老けたね」
「お前……」
 当然だ。順当に歳をとっているのだから。むしろ、歳を取らない方がおかしいのだ。
 アリアンスはくすくすと笑う。
「褒めているんだよ。ローはちゃんと親になれた」
「お前も頑張っただろ」
「一番はシャチかな」
 ローは苦々しい顔をする。シャチを散々困らせたリッツが自分に似ている自覚はあるのだ。むしろ、リッツを見ながらローは自分を客観視できるようになっていった。
「寂しいな。お腹を蹴っていたのはどっちかわからないけど」
「どうせリッツだろ」
「でも、あのひどい悪阻の原因はベルだと思うんだよな」
「なんだ、その科学的根拠のない話は」
「お互い様」
 医者らしくない会話をするのは二人だけのときだ。
「寂しいか?」
 柄にもないことを聞いてやる。そうでもしないと、その時分の感情に鈍く作られているアリアンスはいつまで経っても気がつかない。ローの言葉にアリアンスは目をパチパチさせる。そして、顔いっぱいに笑顔を浮かべる。
「うん、だから、ローはずーっと一緒にいてね」
 無垢な笑顔はとても幼い。そのくせ凡庸な色をした目は溶けてしまいそうな彩をしている。
 アリアンスを強く抱きしめると、安心したように体の全てを預けてくる。リッツやベルよりもずっと子どものようだ。この時間が永遠に続くことはない。ローは歳をとっていくし、アリアンスはおそらくそうではない。アリアンスが求めているのは、あの過ちを犯した日に求めていたのは、ルージュのような存在だった。
 ただ、それが過ちだったのかはわからない。
 誰もが欲しがるものを持った王の器は、きっと答えを見届ける。ローがいなくなったあとも、アウステルリッツとベルがいなくなったあとも。
 永遠に永遠に。その未来を見ていたのだ。今もまだ未来を……
 守れるはずもない約束をしないローは何も答えないまま、この救いのない地獄から抜け出せない王の器に、「間違った選択」をさせたことを考える。ただ、それについてはローは後悔していない。
 ハートのキングのカードは永遠にローのものだ。子どものように胸に顔を埋めたアリアンスの頭をローは撫でながら息を吐いた。

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