「約束しよう」

 小学校の入学式の日、赤いチェックのスカートを靡かせて、あの子は笑った。空には透き通った青空が広がっていて、春の柔らかな日の光が、あの子の顔を照らしていた。きらきらと光る大きな目、影の一つもない笑顔。

 柔らかな小さな手と手を繋いだ。あれの手は少しだけ湿っていて、ひんやりとしていた。

 あれは幼い頃から頭が悪かった。女の子は早熟だというが、あれは違った。ふたりだけで遊んでいた頃には気がつかなかったが、小学校に上がった頃、同じ年のませた女の子たちを見て幼いながらに気がついてしまった。あれが特別愚かなのだと。夏休みが始まる前には、幼稚園の子みたいだね、とあれはクラスメイトに笑われていた。

 それでも小学校低学年の頃は、あれも楽しく友達と遊んでいたような気がする。あれが変わったのは中学年に上がった頃だった。幼いあれは、背伸びしたクラスメイトの女子の中で浮き始め、次第にいじめられるようになっていった。ただ、その頃は己がいじめられているという事実にも気がついていなかったようだから、幸せだったかもしれない。

 学年が上がっていくにつれ、あれも自分の置かれている状況に気がついたらしく、あれの表情から笑顔が消えていった。 次第にいじめも激しくなり、中学に上がった頃には学校中の人間があれの名前を知っていた。あれは一日中誰とも話さずに毎日を過ごしていた。多くの人は、あれを相手にしないだけで、危害を加えるようなことはしていなかったように俺には見えていた。

 ただ、それでもたった一度だけ目にしてしまった。何人かの、教師のお気に入りに囲まれて、泣きそうな顔をしていた。彼らに、おい、と声をかけられて、無視するわけにはいかなかった。話を聞くと、テストの結果に菓子を賭けているという。一番点数が低かった者が全員分を買うというものだ。ヘラヘラと笑いながらそう説明した男は学年トップの成績で、それを囲う取り巻きは同じ塾に通う成績優秀者だった。あれが負けるのは火を見るよりも明らかだった。参加を誘われたが、俺は断った。

 きっと彼らはあの約束を知らない。ただ、俺も忘れたふりをしていたのだから、彼ら以上の重罪人に違いなかった。

 あれは大きな目に涙を浮かべ、ただ俺を見上げた。微かに口が動いた。よしき、と俺の名前を呼んでいたような気がした。

 助けを乞うあの眼は、俺の姿をどう映していたのだろか。ひうひうとなっていた喉と、潤んでいた目、全て覚えている。俺が背を向けたとき、あれは何を思ったのだろう。

 あれから何年かが経ち、俺は高校に入学した。高校でもバレー部に入って、そして、試合に出た。

 そして、負けた。

「ひさしぶり」

 トイレの前で、女が俺に声をかけてきた。その女は俺の知らない女だった。烏野高校の制服を着た線の細い女は、俺の表情を見た。

「なまえだよ」

 あれは微笑んだ。僅かに伏せられた大きな目はきれいに細まり、口元はゆるりと弧を描いた。その表情は、昼休みに能天気に笑い合うクラスメイトの女たちと同じ年だけ生きている女とは思えなかった。

 もみじの葉のようだったふっくらした手は、柳のようにしなやかなものに変わっていた。寸胴だった体は細く長く、腰はぐにゃりとくびれていた。その体が、あれの体だとは思えなかった。思いたくもなかった。

「ひさしぶりだな」

 何よりも変わっていたのはその微笑だった。翳りのあるただ綺麗な微笑み。それは俺の裏切りを象徴しているかのようだった。

 あの日、あのとき、あの場所で、俺の名を呼ぶあれを助けていたとしたら、あれの笑顔は眩しい光を失わなかったのだろうか。あの翳りもない笑顔を、今も見ることができたのだろうか。たった六年の間にここまで変わらざるをえないほどあれを追い込んだ状況は、どのようなものだったのだろうか。その忌まわしい記憶があれにどれだけ強く刻まれたのだろうか。

 幼い日の俺は、ただ何も考えずにあの約束をしたのだろうか。俺の世界にあの子しかいなかったからだろうか。

 頭が悪かった。でも、優しかった。足が遅かった。でも、いつだって一所懸命だった。俺のことが大好きだった明るい笑顔の女の子。俺と一緒に小学校に行けることが、嬉しかった。それは、俺も同じだった。

 あのさ、とあれは切り出した。そして俺に覚えているかと尋ねた。

「小学校に入った日のこと」

 俺は何も答えなかった。何を答えても、ただただ不誠実な気がした。あれは俺を見た。その目は俺の全てを見透かしているに違いなかったが、俺を責めるようなものは一切含まれていなかった。

 忘れていることを責められた方がどれだけ楽だったことか。

「私は、あのときの約束、今も続いていると思って生きているの」

 あれは綺麗に笑った。少しだけ潤んだ目を、真っ直ぐと俺に向けて。

 俺の世界にはどうしてこうも真っ直ぐな奴が映り込んでしまうのだろう。何故、俺を相手に、真っ直ぐと向き合おうとするのだろう。先輩も、あのチビも同じだ。そして、気がつくのが遅かったことも同じだった。

 ただ一つ違うのは、この試合には終わりがないことだった。

「俺は、もう一度、約束する」

 変わり果てた幼馴染の、あの太陽のような笑顔を取り戻すために。

企画 : 誰そ彼は

約束

list
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -