アンドロメダにくちづけを

「なぁ、なにしてんの?」

気付けば大きな黒い影がすっぽりと私の頭上を覆っていた。「ソコ、傑の席だけど」と、続けて聞こえてくる普段聞き慣れないその声の主に驚いて顔を上げると、日本人離れした長身に白髪という珍しい容姿をしたクラスメイトの男の子が目の前に立っていた。あまりに突然の出現に、しばらく呆気に取られていたが、ハッと我に返り、慌てて机の上に書かれていたものを手のひらで隠した。

「ご、五条くんこそ、どうしたの、」
「俺は任務の報告書忘れたから取りにきただけ。そういうアンタは何かしてたワケ、じゃなさそうだね、」

そう言った五条くんの大きな手には数枚の書類のようなものが握られていた。フーンとまるで興味がなさそうに手元の白い紙たちを眺めている。大丈夫、すぐに隠したんだから、きっと見られていなかったはず。

「苗字サン、傑のこと好きなんだ」

高専に入学してから一ヶ月が経とうとしているにも関わらず、まともに喋ったこともなかった目の前のクラスメイトが私の名前を知っていたことに驚いた。けれど、今はそんなことはどうでもいいのだ。私が両の手のひらで今も隠しているモノを五条くんはしっかりと見ていたようだった。

そこにはシャーペンでハートマークに直線で記号のように傘のイラストが書かれた、青春を謳歌する華の女子中高生ならば、誰だって一度は書いたことがあるであろうソレは、いわゆる“相合傘”というやつだ。傘の右側には自分の名前と、その反対には“夏油傑”、と幼なじみの名前がご丁寧にフルネームで書かれている。「俺、人よりも目が良いんだよねぇ」だなんて自信満々に言う五条くんに最悪だ、と心の中で言葉を吐いた。

つい出来心だった。放課後の誰も居ない教室で、好きな男の子の席に座って、傑が振り向いてくれたらいいなぁ、なんてそんな淡い期待を込めて。もちろんすぐに消すつもりでいた。それをまさかクラスメイトの男の子に見られてしまうだなんて、誰が想像しただろう。そんな私の今の気持ちを表すなら“サイアク”、その一言に尽きる。バレてしまったけれどそのままにしているのも恥ずかしくて、持っていた消しゴムで乱暴に証拠を隠滅した。

五条くんは隣の机に身体を預けると、私の方へと身体を向け直した。行き場を失った長い脚がこれでもかと持て余されている。

「アンタたちオンナノコが好きな“おまじない”ってのはさ、つまり“呪い”の一種なんだよ。仮に4級の底辺術師だとしても、呪術師の苗字サンにはオススメしないね」

五条くんの言う通り、私が4級の底辺術師なのは事実であり、幼馴染の傑がこの呪術高専に入学するというだけの理由で、たまたま術式を持っていた私は、傑を追いかけて入学したようなものなのだ。他人からすれば馬鹿だろうと言われるようなキッカケでも、私にとっては立派な理由であったし、実際に私の実力は呪霊が見える一般人に毛の生えたようなもので、身体に刻まれている術式も他の術師よりも弱々しいものである。

「それに、」

「“愛ほど歪んだ呪いはない”って言うだろ?」

そう言った五条くんは、どこか辛そうな表情をした気がした。それはほんの一瞬だけだったけれど。ふわりとどこかに消えてしまいそうな儚ささえ感じた。不思議なことにその儚さが男の子なのに綺麗だな、なんて思ってしまったのだ。

五条くんはいつも傑と一緒にいるから、絶対にこのことは傑にチクられる。傑本人に私のちっぽけな片想いが知られてしまった日には、きっと私たちは今までと同じようになんて居られない。だって傑は優しいから、中途半端に期待させるようなことはしないだろう。それに私のことを妹のように思っていたとはしても、異性としての恋愛対象として私を見ているわけがない。この気持ちは自分からは言わないでおこうって、ずっと思っていた。だから他人から、ましてや五条くんからバラされるなんて、そんなの絶対にダメ。そう考えた私が次にするべき行動はひとつに決まっている。

「お、お願いです…誰にも言わないで…傑に、言わないで、ください…」

思いっきり頭を下げてスカートの裾を両手で握りしめながら真新しいローファーのつま先を見つめる。いつもなら皺になりそうだなんて思うけど、今の私にとっては、もうそんなのどうでもよかったのだ。ジワリと目尻が潤んできたことに気付き、その情けなさと恥ずかしさに更に涙が溢れてきそうになる。

どれくらい時間が経ったのだろう、大きくて深いため息と「いいよ」という言葉に私は勢いよく顔を上げた。真っ黒なサングラスでも隠しきれない五条くんの碧色の瞳と視線がぶつかる。そして次に五条くんから告げられた言葉に思わず身体が固まってしまった。

「いいよ、キスさせてくれたら」

────キス?誰が?誰と?五条くんと、私、が?何故?

状況を飲み込めずにいる私の頭の中をまるで見透かしたかのように「キスするの、俺と、苗字サン」と五条くんは人差し指で交互に自分と目の前の私を指差した。

「えっ、なんで、」

そんな私の疑問なんて、まるで聞こえていませんという素振りで、五条くんはサングラスを制服のポケットに仕舞い込んで、コツコツと踵を鳴らしてこちらへ近付いてくる。その行動に、さすがに冗談だと思えなくなってきた私は、ぶるりと身体を震わせた。慌てて椅子から立ち上がり、ゆっくりと後ろへと後ずさる。傑の椅子がガタンと大きな音を立てて倒れたのも私の耳には入らなかった。

五条くんの顔が近付いてくる。サングラスを外した五条くんの顔はまるで彫刻のようにひとつひとつの顔のパーツ配置でさえ完璧だった。どうして五条くんのように整った顔立ちの人が、こんな平凡な女子高生とキスをしなければいけないのか。ただでさえ浮世離れしたような、モデルみたいな容姿をしている五条くんのことだ。彼女の一人や二人いたってなんら可笑しくなんかない。そうだ、きっとおんなのこに飢えているんだ。この学校は生徒も少ないし、同級生のおんなのこなんて硝子ちゃんと私の二人だけ。きっとキスだって両手の指で数えきれないほどの、綺麗な女の人としてるだろうし、こんなの五条くんにとってはペットの愛犬とちゅーするような、戯れみたいなものじゃないか。そんなふうに揶揄われているだけに違いない。
でもキスをしたら私が傑のことを好きなことを内緒にしてくれる。だけど、裏を返せば、ここで五条くんとキスをしないと、傑に私が異性として好意を抱いていることをバラすということだ。それはもうすごく困る。何がなんでも譲る訳にはいかない。だけど好きじゃない人とキスするだなんて、たぶん、良くない。そんなことを頭の中でぐるぐるぐるぐる考えていると、背中に固い何かがぶつかる。教室の壁はもうすぐそこだった。後ろが駄目なら横に逃げれば、なんて私の思考は顔の横でバンッと音を立てて背後の壁についた大きな手によって遮られた。

あっという間に右も左も五条くんの腕に挟まれて逃げ場は無くなってしまった。行き場を失った視線は自分の足元を見るしかない。だけどそれも五条くんが私の顎を掴んで無理やり顔を上に向けさせたことによって許されなくなってしまった。おのずとお互いの視線がぶつかり合う。髪の毛と同じ真っ白な睫毛に縁取られた五条くんの瞳の中には小さな宇宙が広がっていた。さっきまで恥ずかしくて目も合わせられなかったはずなのに、その瞳の中の碧色の輝きに、目を逸らせなくなってしまう。それは宝石というよりも宇宙の銀河で光る星のようだと思った。

「目、閉じてよ」

ゴツゴツした大きな手が私の頬に添えられる。もう何も考えられなくてギュッと瞼を閉じて自分の唇に訪れるであろう衝撃を待ち構える。こわい、怖い、恐い。

しばらくして、小さなリップ音が耳に響くと同時に唇に柔らかくて温かい何かが触れた。触れたものが何だったかなんて、そんなの五条くんの唇に決まっているソレは、触れるだけですぐに離れた。

「もしかして、はじめてだった?」

いつまで経っても言葉を発しない私の沈黙を肯定と受け入れた五条くんはくつくつとお腹を抱えて笑い始める。あまりの恥ずかしさに耳まで真っ赤になっている私の顔は五条くんの瞳にさぞ面白く映っているだろう。

「ハッ、ウケる」
「う、うるさい…」
「今時、小学生でもキスのひとつやふたつ経験済みだっつーの」

そんな意地悪言わなくたって、自分でも分かってる。高校生にもなってファーストキスがまだなんて、だけど小さい頃から初めてのキスは絶対に好きな人とするんだって決めていた。言い返そうとして喉まで出かかったその言葉は目の前の人に教える義理は無い。

本当は五条くんに触れられた唇をすぐに制服の袖で擦ってやりたかったけど、なんだかこちらが負けたみたいでそれはやらなかった。キッっと睨みつけると五条くんはニヤりと口元を吊り上げて挑発的に笑った。悔しいけど立ち姿だけはカッコいいから余計に腹が立つ。

「傑には言わないでやるよ」

そんな支離滅裂な言葉とは裏腹に、唇に触れた感覚がとても優しかったのは、せめてもの彼の“やさしさ”だったのだろうか。


▲▼▲



なるべく音を立てないように教室の扉をゆっくりと開ける。あんなことがあった昨日の今日だ。五条くんはいつもチャイムが鳴って授業が始まってから教室に入ってくる。だから、この時間はまだ教室にすらいないはずだ。数センチだけ開いた扉の隙間から中を覗くと、思った通り、そこには硝子ちゃんと傑の姿しかない。ホッと胸を撫で下ろしたところでガラガラと音を立て、一人手に扉が開いた。

「オマエ、なんで教室入んねぇの?」

背後から一番会いたくなかった人の声がして首を反り返して後ろを見る。私より遥か上にあるその顔は欠伸をしながら私の顔を見下ろした。寝起きのせいだろうか、昨日聞いた声よりも低いその声。いつもなら遅刻してくるのにどうして会いたくない時に限って早く来るのか、と五条くんにも分かるように思いっきり顔を歪めてやった。

「は、入ります…」
「そうそう、おはよう、名前」

突然呼び捨てで、しかも下の名前を呼ばれたことにびっくりした私はパチパチと瞬きを繰り返す。昨日まで苗字で呼んでたくせに、周りから疑われるようなことをするのはやめてほしい。

「お、おはようございマス…」

当たり障りのないように適当に挨拶を返す。五条くん、ぜったいにわざとだ。「なんで敬語?」なんて言いながら、頭の上からクスクスと笑い声が聞こえる。楽しんでるんだ。硝子ちゃんが五条くんはクズだって言っていた意味がやっと分かった。

怪しまれないように傑と硝子ちゃんにもいつものように軽く挨拶をして自分の席へと歩きだす。五条くんも後を追う様に後ろから着いてくる。着いてくるな。私はふたりに気付かれないように五条くんを睨みつけると、お返しとばかりにべーっと少しだけ舌を出した。ムカつく!小学生か!

「名前、いつの間に悟と仲良くなったんだ」

私のことを下の名前で呼ぶ五条くんを不思議に思った傑に思わず肩をびくつかせる。まさか、“昨日、私が傑の事を好きだって五条くんに知られたので、口封じにキスされました”、だなんて、口が裂けても言えるはずがない。

すると、横から五条くんの長い腕が伸びてきて、肩を抱かれたかと思うと、彼は目の前の傑に向けて反対の手でブイサインを作って笑った。

「昨日仲良くなったんだよな?名前」
「な、五条くんに、」

“五条くんに脅されてる”、と口から出かかった時、五条くんは私にだけ聞こえるように耳元に口を寄せて、さっきよりも低い声で「話し合わせねぇと傑にバラすぞ」という声を出したものだから、全身からサッと血の気が引くような気がした。

「そ、そうなの〜、意気投合しちゃって、、」
「俺たち、今まで話さなかったのが盲点だったよな〜」

今度は大きな手でバシリと肩を叩かれた。コイツ、ワザとやってるな…

「そうか、良かったな」

傑は、「きっと二人は仲良くなれると思っていたよ」なんて、私には冗談にしか聞こえないようなことを言うと、細い目を更に細めてニッコリ笑ってみせる。私の好きな傑の顔だ。それに素直に喜べないことが非常に悔やまれるのだが。

この学校の一年生は四人しかいないので、机も当然四つしか並んでいない。硝子ちゃんと傑が前の席で、五条くんと私が後ろの席だ。ちなみにその席順になったのは、後ろの窓際の席が良いと駄々を捏ねた五条くんに見兼ねた夜蛾先生が渋々折れたのだった。

「オイ」

まさか自分に話しかけられていたのだとは気付かずにナチュラルに無視を決め込んでいた私に、五条くんはサングラス越しでも分かるくらい不機嫌な顔をした。

「ん、」

すると五条くんは小さな何かを隣の席に座る私に向かって投げた。慌ててキャッチすると、それは白と黒のシンプルな紙袋に某有名ブランドの文字が刻まれている。

「オマエ、欲しかったんだろ、やる」

おそるおそる中に入った箱を開ければ、小さな二つ折りの財布が綺麗にその箱の中に収まっている。

『名前は初任給で何買うの?』
『この財布欲しい』
『コレめちゃくちゃ高いよ、最初のうちは簡単な任務しか来ないから纏まったお金は貰えないだろうね』
『そっか、じゃあお金貯めて買おうかな、』

いつだったか、休み時間に硝子ちゃんと特にやる事も無く、教室で雑誌をパラパラ眺めながら、任務で貰ったお給料を何に使うか、なんて話をしていた時。紙面の中で見つけた某ブランド物の二つ折り財布。あの時、傑は先生に呼ばれて居なかったし、五条くんは自分の席でひとり携帯を弄って私たちの話なんて聞いてなかったはずなのに。

その私が欲しいと指差したものと同じものが目の前にあるのだ。

こんな高価なもの受け取れない、突き返そうと椅子から立ち上がった私の前に今度はぐちゃくちゃに丸められたルーズリーフが机の上にコロコロと転がった。慌てて隣の席の五条くんを見れば声には出さないが口を動かして何か言っている。私が手にしているものを指差していることから、おそらく、“コレを開けろ”ということだろう。

しわしわのそれを開いた私は、走り書きで書かれたシャーペンの文字を見て驚愕した。

“だからまたキスさせろ”

口をパクパクさせながら真っ赤な顔をしている私を見ながら、「金魚みてぇ」と言って隣の席の五条くんは笑った。


『アンドロメダにくちづけを / 210210』

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