「私はイレギュラーな存在だから」
これが彼女の口癖だった。
やっとの思いで鬼の総大将である鬼舞辻無惨を倒した俺達。全てが終わったら、俺のこの想いも彼女へ伝えようと決めていた。だけど、俺のもとから彼女は突然消えてしまった。
* * *
私の父親は育手であった。小さい頃からその背中を見て育った私は、いつか立派な鬼殺隊士になって、沢山の人たちを鬼から助ける事が夢だった。
或る日、木登りをして遊んでいた私は、誤って足を踏み外し、木の上から真っ逆さまに落っこちて意識を失った。
不思議な夢を見た。そこは今よりも文明が発達していて、鬼なんて生き物は存在しない。私はただの平凡な高校生で、恋に部活にそれなりに華の高校生活を謳歌していた。或る日突然ナイフを持った男に左胸の心臓をひと突きされて、私の生命は終わりを告げたのだった。私を刺したその人は見たこともない人だった。きっと私は何かの事件に巻き込まれて死んでしまった可哀想な女子高生。何の事件かだったなんて、死んでしまった私が知る方法は無い。次に目を開いた時、すべてを思い出していた。そして、私が生きているこの世界は、漫画の世界だと知った。炭焼きの男の子が家族を鬼に殺されて、妹は鬼にされてしまうという慈しい鬼退治≠フ物語。どうやら私は、令和、平成、昭和、大正と100年もの時空を駆け抜けて、遂には次元まで超えていたらしい。
私が十五の歳になった時、藤襲山で行われた鬼殺隊の最終選別でこの物語の主人公である竈門炭治郎に出会った。それまでの時系列は分からなかったけれど、炭治郎が手鬼を倒した時、既に漫画の物語は動き始めているのだと知った。歯車は回り出していた。
それからは、すべて漫画の通りだった。炭治郎は鬼になった妹の禰豆子ちゃんを連れていて、鬼舞辻無惨を倒す為に隊士になったのだと教えてくれた。ただ一つ異なる事は、私というイレギュラーな人間が存在しているということだけ。炭治郎は優しかった。私が炭治郎を好きになるのに時間は掛からなかった。
沢山の大切な人達を失ったけれど、炭治郎たちは無惨を倒して世界から鬼は消えた。ここから先の物語の結末を、私は知っている。何も言わずにみんなの前から私は消えた。
* * *
世界から鬼が消えて3年もの月日が経った。物語に決着が付けば元の世界に戻れるのではないかと思った日もあったが、元の世界の私は既に死んでいて、魂が戻る肉体だって存在していないのだろう。日輪刀を手放した私からは何も残らず、遠くの街まで着の身着のままで辿り着いた私は、甘味処を経営していた優しい老夫婦に出会い、こうして住み込みで雇ってもらっている。看板娘と呼ばれるにはまだ縁遠いが、見知った常連さんも増えてそれなりに良くして貰っており、私は案外この生活を気に入っていた。
「お嬢さん、みたらし団子をふたつください」
済んだお皿を下げて店の奥へと入ろうとしたところで、背後から声を掛けれた私は軽く返事をしながら振り返ると、見知った耳飾りを付けた男の人が立っていた。あの時に少年だった男の子は立派な青年へと成長していた。
「やっと、見つけた」
私はこんな結末を知らない。
「あれから君の家に行っても其処はもぬけの殻だった」
そりゃそうだ、私は貴方の目の前からわざと消えてみせたのだから。
「大事なものほど、手の中から溢れおちてしまう」
嗚呼、こんなの期待してしまうじゃないか。
「名前、」
数年ぶりに聞いた、私の名前を呼ぶ彼の声。声変わりして低くなっているけれど、すべてを包み込むような優しい声は数年経った今でも変わっていない。忘れようとしたって全身の感覚が彼を、炭治郎のことを覚えているのだ。
「どうして来たの」
「きみを忘れられないんだ」
「これじゃあ、まるで炭治郎の目の前から私が消えた意味がないじゃないの」
私はこの先の物語を知っている、鬼舞辻無惨を倒した炭治郎たちは故郷の山に帰って幸せに暮らすんだ。物語は炭治郎たちが自分たちの家に帰って笑い合いながら暮らしたという描写までしか描かれていなかったが、最終話では炭治郎とカナヲの二人が繋いでいった生命の証である子孫たちが幸せに暮らしている。めでたしめでたし。物語の結末はこうだ。
痣が発現された剣士たちは25歳まで生きれないのだから、少なくとも無惨を倒してから3年は経っている。彼に残された時間もあと少しなのだろう。早く貴方は次へとその命を繋がないといけないのに、何してるの。
「ねぇ、なんで、未来が変わっちゃうよ」
「俺の結末は、俺が決めるよ」
「私は、」
「名前はイレギュラーなんかじゃない、俺の世界に居ないといけない人なんだ」
「君がいない世界はまるで意味がないんだよ」
炭治郎の端正な顔が私の顔へと近づいていく。
「だから、今から俺がする事も、全部俺の勝手だ」
そう言って炭治郎の唇が私の唇を塞ぐ。私はそれを瞼を閉じて受け入れた。
嗚呼、私はずるい女だ。彼を諦めきれなかったのは私の方だった。
『そして、また物語は動き始める/20200621』