逃走ラプソディ

「か、竈門くん…!音程が違います!」

ピアノ伴奏の手を止めて、その原因である生徒へと声を掛ける。

「あれ、すみません!」

そう言って竈門くんは、『みんな、すまない』と恥ずかしそうに頭をかいて笑った。

「炭治郎〜〜!勘弁してくれよ〜〜!」
「あはは、竈門くんまた音ズレてたよー!」

音楽室の広い空間を陣取っている黒いグランドピアノの周りを囲うように、生徒達は教科書に載っているイタリア民謡を歌う。もちろんピアノを弾くのは音楽教員である私の仕事である。

私が勤めているこの学校では、2年生になると音楽は芸術選択科目として、希望者のみの授業になる。音楽、美術、書道と3つの科目から自らで選択する事が出来るこの科目は2時間続けての授業となる為、生徒達はそれぞれが得意な科目を選択する事が多いのだ。そういった理由で、現在は2年生の合同授業の最中なのだが───

一人の生徒に頭を悩ませていた。


2年1組の竈門炭治郎くん。他の教科の先生達からも評判が良く、品行方正で礼儀正しく、文句の付け所が無い。まるで絵に描いたような優等生なのだが、少しばかり歌が個性的な生徒なのである。否、オブラートに包まないで表現するのならば、破壊的に歌が下手だということだ。

芸術科目は学期末に筆記テストもあるので、出欠率も良く、勤勉な授業態度である竈門くんはそれが成績にまで響くというような事は無いのだけれど。

竈門くんを見ると、常々彼は“陽”の人間であると感じる。誰にでも分け隔て無く手を差し伸べる、お日様の様な高校生だ。学生時代の頃に、竈門くんのようなクラスメイトが居たならば、私の学校生活も変わっていたのかもしれないと想像をしてみたが、昔から目立つ方では無く、如何に平凡に過ごすかを心掛けて学校生活を送っていた私は即座に頭を横に振る。

竈門くんとは正反対の、“陰”の方であった私は、彼とは縁遠い人間である。




職員室横の掲示板に『第46回文化祭』と達筆な筆遣いで書かれた掲示物が貼られている事に気付いた。もう半袖では肌寒いと感じてくる季節。もうそろそろ文化祭の時期なのかと思うと、顧問をしている吹奏楽部の事を考えた。生徒指揮代表の我妻くんが、文化祭で女の子達に自身の格好良い姿を見せるのだ、と張り切っていたのを思い出す。

すると掲示物の右端によく知っている生徒の名前が視界に入る。てっきり達筆すぎる文字に書道の先生が書いたものだと勘違いしていた私はその作者の名前を見て驚いてしまった。

《2年1組 竈門炭治郎》

───竈門くん、こんなに綺麗な文字を書くんだ。




その日、受け持っている自分の授業が全て終わった私は、音楽室の隣にある準備室で課題の採点をしていた。この学校で音楽教員は私ひとりしか在籍していないので、こういった作業はかなり時間を要するのだ。

生徒達へと休憩を告げるチャイムが校内に響き渡る。手元にある時計を見るともうこんな時間か、と腕を伸ばして小さく欠伸をした。


すると、タイミング良くコンコンと準備室の扉を控えめに叩く音がした。『どうぞ』と入室を促すと見知った男子生徒が入って来る。

「苗字先生、こんにちは!1組の音楽課題の提出に来ました!」
「竈門くん、ありがとう」

貴重な休み時間にわざわざ持ってきてくれたのだろう。竈門くんの手からクラス分の提出課題であるプリントを受け取る。

「そういえば、文化祭のポスター見たよ。竈門くん、あんなに綺麗な文字を書くんだね、先生ビックリしちゃった」
「近所に習字教室を開いてるお爺さんが住んでいて、小さい頃によく教えてもらってたので」
「へー!すごい!」
「実は中学の時に書道の大会で入賞して、近くの公民館に飾られたこともあるんです!」

エッヘン!と効果音が付きそうなくらいに自慢げに胸を張る竈門くんに年相応で可愛らしいなぁ、と思いつつ、ひとつの疑問が頭に浮かぶ

「あんなに綺麗な字を書けるなら、竈門くんは芸術選択で習字を選ばなかったの?」

ふと浮かんだ疑問を吐き出すと、竈門くんはゆっくりと私へと視線を向けた。赤い瞳が揺れて、私を見つめる。

「だって音楽を選ばないと、苗字先生に会えないじゃないですか」



「は…?」



思わず握っていた赤ペンを床へと落ちる音がした。『あっ、ペンが』そう言って床に転がるソレを追いかけて拾うと『はい!落ちましたよ!』と落ちた赤ペンを目の前に差し出す。目の前の竈門くんはいつものように人懐っこい表情を浮かべている。

「あ、ありかとう…」

『どういたしまして』と目を細めて返事をすると竈門くんは言葉を続けた。

「うちの学校、音楽は1年までしか必須じゃないし、先生は担任のクラスも持ってないし、俺は家のパン屋があるから、先生の吹奏楽部にも入れないし───」


「だから、音楽選択を選んだのは先生に会うための口述です。───苗字先生の事が好きなので」

『内緒にしてたんですけど』と言いながら恥ずかしそうに頬を掻く

『なっ、』慌てて座っていた椅子から立ち上がると反動で自分の肘が当たってコーヒーを入れていたマグカップが机から落下して大きく音を立てて───割れた。


慌てて床に蹲み込んで、落ちたマグカップの欠片を拾おうとするとチクリと小さな痛みが右の人差し指に走った。

「い、痛っ」
「先生!大丈夫ですか!?」

竈門くんは物凄い速さで怪我した方の私の手首をガシリと掴む。驚いて顔を上げると竈門くんと視線がぶつかり、私は再び竈門くんの赤い瞳に捕らえられてしまった。少し動けば触れ合ってしまうような距離が急に恥ずかしくなって、視線を下げると目の前には竈門くんの綺麗なフェイスラインに首筋にくっきりと浮き出た喉仏が、彼が男の人であるという事を痛いくらいに主張する。

「保健室に行きましょう!」

思わず見惚れてしまっていた私はその一声で現実に引き戻される。

未だに私の手首を掴んでいる竈門くんの手は程よい筋肉と血管が浮き出ていて、更に男の人だという事を意識するには十分な程だった。

「は、離して」
「嫌です」

力を入れて振り払おうとしても微塵も動かない。『早く保健室に行きましょう!』と目の前で訴える竈門くんの声は私の邪念によって掻き消される。

近い!近い!近い!!!

「ほ、保健室くらい、ひ、ひとりで行けますから!」

私は竈門くんの身体を思いっきり押して音楽準備室から逃亡した。飛び出した部屋の方向からは『あっ、先生!』と私を呼ぶ声が聞こえる。お構い無しに廊下を走り続ける。脈がドクドクと波打って止まらない。顔が熱い。相手は高校生だ、と落ち着かせようとするがさっき迄近くにあった竈門くんの顔が脳裏を焼き付いて離れない。

───まるで竈門くんの事、好きみたいじゃないか、




「はい、じゃあ戻って課題に取り組んでください」

そう言って、たった今扉を出て行った生徒の採点をする。音楽の授業には勿論実技テストがある。音楽室で別の課題を与えている生徒が出席番号順に一人ずつ入れ替わりで準備室に入ってきて課題曲を歌うテストだ。『次の人、どうぞー』と私は次の生徒へと入室を促した。

「失礼します」

ドアが開いて、彼の花札のようなピアスがカラリと揺れる。校則違反なのでは?と思いながらも2年1組の担任は不死川先生だという事を思い出し、即座に納得した。他の教師は不死川先生のクラスの生徒へは指摘も出来ないのだ。そう、怖くて。流れ作業のように竈門くんへもクラスと出席番号と名前を促した。

「2年1組8番、竈門炭治郎です。」

それを合図にピアノ伴奏を弾き始めようとすると『あっ、その前に』と静止の合図が掛かる。

「苗字先生、好きです」

竈門くんはこの部屋が防音室であるのを良い事に数日前のとんでも発言を再びする。私が竈門くんの前から逃亡したあの日からこうして顔を合わせるのは初めてで、如何に平然を装うかに神経を使っていた私の努力はここで脆くも崩された。もちろん壁を隔てて課題をしている他の生徒には今の声は聞こえない。

「先生、次は逃げないでくださいね」
「お、大人をからかうんじゃありません…」

私の反応を見て満足そうに笑うと、伴奏に合わせてお世辞にも上手とは言えない歌を歌い出す。

きっとこの曲が終わってしまったら、この前のように竈門くんの前から逃げることは出来ないだろう。このまま永遠にピアノを弾き続けてしまいたいくらいに終わってほしくないという思いと、この曲が終わったら先生と生徒という今の関係が変わってしまうのだろうか、という好奇心と背徳感が顔を出す。

音程外してるけど合格点にしておこう、と思った。



『逃走ラプソディ/20200529』

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