お父さんとお母さんが交通事故で死んじゃった時、ひとりが怖くて夜になると眠ることが出来なかった。ひとりは寂しくて、怖くて、哀しい。誰でもいいから側にいて欲しかった。助けて欲しかった。
だけど、暗闇の中でいつも誰かが私の頭を優しく撫でてくれたような気がしていた。きっとそこは夢の中だったに違いない。
────温かくって心地いい
これは誰の手なの?お父さん?お母さん?
「君は俺が守ってあげるからね」
その手はお日様みたいに暖かかった。
▽
「お婆ちゃん、おはよう!」
「おはよう、名前」
お婆ちゃんにそう軽く挨拶をすると私は台所に立って朝御飯を作り始める。うん、今日もいい出汁が取れた。こうやって年々身体が動かしにくくなってきているお婆ちゃんの代わりに、御飯を作るのも、もはや日課となってきた。
小さい頃に事故で両親を亡くした私は、お婆ちゃんと二人でこの家に住んでいる。そうして済んだ食器を片付けると、高校の制服に腕を通して学校へと向かう身支度をする。最後に寝癖が無いかどうか鏡で確認して、お婆ちゃんに声を掛ける。玄関に飾られている写真立ての中のお父さんとお母さんに『いってきます』と言って今日も家を出た。
私の家は神社の境内の中にある。先祖代々でこの神社の神主をしており、家の玄関を出ると社が目の前にある。うちの社は日の神様を祀っている。日の神様とはつまり、太陽の神様だ。私は毎朝、日の神様の御神体を祀っているこの本殿の前で瞼を閉じ、手を合わせているのだ。
「神様、おはようございます。いってきます」
そうやって家を出るのは、もう小さい頃からの当たり前になっていた。
▽
2年A組、私のクラス。日本史の時間は先生が黒板に書かいた年表とその時代に生きていた偉人の名前をひたすらにノートへと写す作業だ。先生の話は左から右へと頭の中を突き抜けていく。
数日前の席替えで見事勝ち取った窓際の席からふとグランドに目を移すと、3年の先輩のクラスが体育の授業でサッカーをしているのが見えた。私は無意識にお目当ての黒髪を探す。
───見つけた。一つ上の学年である3年の冨岡義勇先輩。冨岡先輩は校内で物凄い人気があり、隠れファンクラブがあったりと、無口だけど何処かミステリアスで驚くほど顔が整った人である。かと言えばチャーミングな一面もあるそうで、この前は話し掛けるだけで殺されてしまいそうなくらいに怖いと有名な不死川先輩に冨岡先輩がおはぎを差し出していた、なんて奇想天外な場面を見た、という何とも疑い深い噂を耳にした。
そんな私は冨岡先輩に自分から声を掛けた事すら無い。こうして遠くから見つめているだけで幸せなのだ。いつか先輩の隣を歩いてみたい、なんてそんなのは夢のまた夢である。
「菅原道真は、894年に遣唐使を廃止したんだがー」
ひとつため息をして黒板に目を戻すと、ノートにまだ書き写していない文字が黒板消しによって抹消されてしまいそうな事に気付き、慌ててペンを走らせた。
「──それを怨霊だと思った人たちは恐れ、天満宮に道真を祀ったんだ、そうして菅原道真は学問の神様≠ニして太宰府天満宮が有名になったんだー」
人から神様になってしまうなんて、なんて凄い事なんだろう。神様になれば永遠に人々から頼られて崇められる。きっと、哀しい最後を迎えただろうこの人の魂も報われたんだろうな、と思った。
▽
チャイムが鳴って授業の終わりを告げる。『定期テストも近いから各自で復習しておくように』と決まり文句のような台詞を吐いて先生は教科書を閉じ教室から出て行った。
それぞれが部活動へと教室を出て行く中、特に何の部にも所属していない私はクラスメイトたちに『また明日』と軽く声を掛け、鞄を肩に下げて教室を後にしようとしたが、仲のいい友達を見つけて彼女へと歩み寄る。
「カナヲ!今日は華道部?」
「名前、そうなの。名前はもう帰るの?」
「うん!今日はスーパーの特売日だから!」
『そっか…』彼女は眉を下げて何処か心配そうな顔をした。
「気を付けてね」
何処か意味有り気に言われたものだから、思わず『えっ、』と声を出してしまう。カナヲは生まれながらに視力が良く、感覚が鋭い。拠って、この世の見えないものまでが見えてしまうらしい。本人は余り気にはしていないようだけど。
一瞬戸惑ってしまったが、いつものようにニコニコと可愛い笑顔をしたカナヲに戻った事に安堵した私は、先程までカナヲに忠告された事なんてもう、頭にも無くなっていた。
▽
近くのスーパーで特売品を買った私が家に帰る途中の信号を渡ろうとした時だった。
目の前の信号は進めの青を示しているのに横から車が突っ込んでくる。人は死ぬ直前、世界が止まって見えるようになると聞いた事があるけれど、きっとそれは本当の事だろう。だって私の目の前は驚くぐらいにスローモーションに世界が見えている。今から私を轢いてしまおうとしている車のフロントガラスの向こうでは、運転席に座っているおじさんが真っ青な顔をしているのが見えた。だけど、私の足は石のように硬く動かない。
嗚呼、轢かれる────
走馬灯が駆け巡る。まだ憧れの冨岡先輩に告白もしてないのに。カナヲと先週オープンしたスイーツバイキングに行こうって約束したのに。今日帰ったら食べようと思ってた冷蔵庫の中のプリンだって残ってるのに。まだ、死にたくないよ。私まだ17歳なんだけど、もう死んじゃうのか…
────神様、どうか助けてください
閉じた瞼の中の真っ暗な世界を、真っ赤な炎が弾けるように私の瞼の裏を駆け抜けた気がした。
自分に襲いかかるであろう大きな衝撃に構えて目を閉じていたが、いつ迄経っても来る筈の衝撃は来ない。恐る恐る私は目を開いた。すると、鼻の先まであと数センチというなんとも奇跡みたいなギリギリな距離で車が止まっていた。
「わたし、まだ、生きてる…」
力が抜けてその場に座り込んでしまった。特売で買った玉葱がスーパーの袋からゴトリと音を立てて地面に落ちる。途端に目の前の車の運転席の扉が開いて、先程まで真っ青な顔をしていたおじさんが私の元へ駆けてくる。
「お嬢ちゃん!怪我は無いか!?!?」
「は、はい…何とも……」
『ブレーキがぶっ壊れてもう駄目だと思ったんだが、なんて奇跡なんだ…』そう言って目の前のおじさんは大人気も無く涙を流していた。見知らぬおじさんは危うく犯罪者になっていた所だろうが、私は危うく死んでいたんだ。
こんなに奇跡みたいな事、有り得ない。きっと神様だろう。
家に着いた私は駆け足で鳥居をくぐって、社の御神体に向かって手を合わせる。
────神様ありがとうございます
助けてくれて、ありがとうございます。きっと延ばしてもらったこの命、いい事に使いますから。今度から電車で座席も譲るし、掃除当番だってサボらないようにします。
そして私は瞼を閉じると大きく深呼吸をした。途端に大きく風が吹いて、慌てて目を開く。社の周りの木々を大きく揺らしたかと思うと、緑と黒の市松模様の何かが視界の中で揺れた。すると先程まで何も存在していなかった空間からどこからとも無く、赤い髪をして着物を着た男の人が現れる。髪の毛を頭の後ろに撫で付けて額に痣のような模様がある。辺りを大きく揺らしていた風が収まるのとほぼ同時に目の前の人は綺麗に地面へと着地をした。カラリと音を立てて耳に付いている花札のような飾りが揺れる。
「やっと、会えたね」
途端に燃えるように赤い双眸が私を捉えた。人間では有り得ないくらいに透き通った赤色に見つめられて、私はその場から途端に動けなくなる。恐怖で動けなくなったという事では微塵も無く、寧ろ反対で、驚くくらいの安堵と静謐に包まれている。
すると、目の前の男の人は地面に片膝をついて私の手を取ると、その手の甲に小さくリップ音を立てて口付けた。
「な、なにを…」
突然の事に声が出なくなる。知らない人に突然こんな事をされたのに、目の前にある綺麗な顔に思わず見惚れてしまっただなんて、恥ずかしくなって俯いた。
「俺はこの社を守っている竈門炭治郎、みんなは俺の事をヒノカミ様って呼ぶけど」
「かみ、さ、ま…?」
この人の姿、何処かで見た事がある。そうだ、小さい頃に無断で忍び込んだ御本殿の中に残された古い手書きの読み物。その中に描かれていた神様の姿にそっくりだった。
「名前」
「!?なんで、わたしの名前…」
ハッとして、未だに掴まれていた手を離して距離を取る。
「俺は何でも知ってるよ、ずっと此処から君を見ていたんだから」
そう言って目の前の人は自身の背後にある社の御神体の方を目で示すと優しく微笑んだ。頭が告げている。この人は、いや、今この瞬間に目の前に在る存在は、間違いなく神様だ。
「私が車に轢かれそうになっていたのを助けてくれたのも、貴方、ですか…?」
神様はクスリと笑って頷いた。
「500年は生きているけど俺は永遠なんて要らない」
「君たち人間は儚い生き物だ。だけど決して途絶える事はない。親が子へ、そしてまた別の子へと繋いでいく。俺はそれをこの小さな社からずっと見ていたよ。みんなは神様の俺に手を合わせて祈るけれど、人間の方がずっと尊い生き物だというのを俺は知ってる。」
「俺は人間になりたいんだよ」
そうやって眉を下げて困ったように笑う目の前の神様は、あまりにどんな人間よりも人間らしい思った。
(20200517)