閑話 気付き始めた恋心

「炭治郎さん、お嬢様が屋敷から消えてしまって、どうしましょう…」

彼女に見せてあげようと、腕一杯に抱えていたシロツメグサの花がヒラヒラと地面へと落ちる。今まで一度だって、名前が何も言わずに屋敷から出る事なんてなかったはずだ。微かにだが、彼女の匂いが辺りに残っている。きっと彼女が居なくなってしまってから、まだ時間はそんなに経っていないだろう。俺は屋敷を飛び出して名前の匂いを辿りながら走り出した。

だんだん強くなっていく彼女の甘い匂いと、浩一の匂い。それに加えてもうひとつ禍々しい匂いがする。これは人間じゃない。鬼の匂いだ。日はとっくに落ちてしまい、今は暗闇を好む鬼の活動時間になっている。

「名前!浩一!何処にいるんだ!?」

二人の名前を叫びながら暗闇の中、茂みを掻き分けていく。微かにだが、水の匂いがする。湖でもあるのだろうか。

────間に合え、間に合え、間に合え!

必死で俺は匂いのする方向へと駆けていく。もっと早く、もっと速く、もっとはやく。

「浩ちゃん!だめ!」

彼女の大きな声が聞こえた。声のする方へと駆けると俺の背の高さを優に超える大きな鬼が浩一へと飛び掛かろうとしていた。

瞬時に鞘から日輪刀を抜き、鬼の頚を斬り落とす。鬼が浩一に触れてしまう一歩手前で鬼の身体は大きく揺れて、その身体を消滅させながら地面へと音を立てて崩れ落ちた。





あれから浩一は鬼と対峙した緊張からか極度の疲労を見せ、気を失って眠ってしまった名前を苗字の屋敷へと送る役を俺は代わりに買って出た。禰豆子の入っている箱を前に抱え、空いた背中で彼女を背負う。

彼女の事が好きなのだと一度意識をしてしまうと、途端に心の奥がムズムズとしてくる。今だって自身の背中に抱えている彼女の身体が柔らかいだとか、彼女から甘くて良い匂いがするだとか、時々触れる素肌に気が気でなくなるとか、そんな邪の感情がぐるぐると俺の頭の中を支配しているのだ。俺は長男だ、耐えろ、耐えろ、耐えるんだ。そんな葛藤を一人繰り広げる間に苗字の屋敷に着いた俺は、名前を起こしてしまわないよう、布団の上へとそっと下ろして上から掛け布団を被せてやる。

隣に置いていた箱からカリカリと小さく音がしたかと思うと、カタリと小さく音を立て、妹が箱から顔出した。きっと禰豆子も名前のことが心配だったんだよな。その証拠に眠っている名前の顔色を伺うように覗き込んでいる。

「禰豆子、兄ちゃん護りたい人が増えたよ」

そう言って禰豆子の頭をひと撫でしてやると、目を細めて柔らかく笑ったような気がした。

「禰豆子と同じくらい大切だけど、家族とはちょっと違うみたいなんだ」

背中に彼女を抱えた時、余りにもその身体が軽くて、ちゃんと食べているのだろうかと心配になった。それと同時に余りの軽さに俺の知らない間に彼女が何処か遠くへ行ってしまうのではないのか、ふっと何処か俺の知らないところへ飛んでいってしまうんじゃないのか、という焦燥感に駆られた。

「兄ちゃん、ちゃんと名前を護ってやれるかな」

俺に彼女を護れるのだろうか、触れてしまえばこんなにも壊れそうな彼女のことを。横から小さな手がスッと伸びてきて禰豆子が俺の頭を撫でた。

「そっか、ありがとうな」

いや、護ってみせるよ。そう心の中で誓った言葉は目の前の彼女へとは届かずに深い夜に溶けた。


(20200628)

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