「絶対に認めない、絶対に認めない」
───鬼狩りなんて絶対に認めない。自ら挑んだ勝負には呆気なく負けてしまったが、俺はあんな奴の事を認めない。
ブツブツと独り言を言いながら自然と身体はあの場所へと向かっていた。名前の身体がまだ今よりも良かった頃、お互いの両親の目を盗んで俺は名前を外へと連れ出した。案の定、見つかった後にこっ酷く怒られたけれど。どうしても彼女を連れて行きたい場所があったんだ。
街を少し外れた所にある山の麓、自分の膝の高さぐらいまで伸びきっている草を掻き分けて進むと、そこには開けた大きな湖がある。人間にまだ手が付けられていないようなこの湖の静けさが、やけに自分を落ち着かせる。湖の水は透き通っていて、初めてこの場所を見つけた時は彼女の瞳の色みたいだとさえ思った。何年も経った今でも、ここはずっと変わらないでいてくれる。
独りで物思いに老けっていると何時間たったのだろうか、いつの間にか陽は沈み、辺りはすっかり真っ暗になっていた。どうやら思っていたよりも長居をしてしまっていたらしい。そろそろ家に帰らないと、父さんが心配する。重い腰を上げた時、近くの茂みからガサガサと音がした。
「浩ちゃん!」
「名前…!?」
名前は俺の姿を捉えると大きく安堵の息を吐いて、小走りで駆け寄ってきた。
「良かったぁ、浩ちゃんのお父様から暗くなっても家に戻らないって聞いて、もしかしたら此処にいるのかもと思って、」
『やっぱり当たってたね、』なんて言いながら名前は笑う。そうだ、この場所を知っているのは俺と彼女しか居ない。今も、昔も。もしかしたら俺は、こうやって今みたいに彼女に迎えに来てほしかったのかもしれないな、と自身を嘲笑った。
昔、俺が名前に好きだと言った時、『浩ちゃんの私への好きは、浩ちゃんがお父さんを思う気持ちときっと一緒なんじゃないかな』と諭されてしまった事があった。
いつだって彼女の透明な双璧は俺の瞳をすり抜けて心の中まで見透かしてくるのだ。あの時はそんな事はない、と強く反論してみせたけれど、今になっては当時の彼女の言葉を肯定してしまっている自分がいる。
俺も名前もお互いに兄弟もおらず、小さい頃に母親を亡くしていて、何処か似ているんじゃないかと、気付かぬうちに自身を重ねていたのかもしれない。
ゴホゴホと咳き込む音がして隣の彼女の顔を覗き込むと暗闇の中でも分かるくらいに辛そうに顔を歪ませる。
「お前、身体大丈夫なのか…?!」
「だ、だいじょうぶ、だよ…」
『早く屋敷に帰ろう』そう言って彼女の肩を担いで、歩き出そうとした時だった。
先程とは大きく異なる、ガサガサと乱暴に草木を掻き分ける音。そして酷く胸騒ぎがした。
「人間の子供だ〜!しかも2人も!今日はツイてるぜぇ〜!」
「お、鬼…!?」
目の前に大きな影が現れたかと思うと、そいつは人間とは思えないような長く鋭い牙と頭から角のようなものがご丁寧に二つ付いていて、見上げるように高い頭の位置は俺の背丈を遥かに越している。ギョロリと血走ったような大きな眼球が俺たちを捉えた。
「こ、浩ちゃん…」
名前は俺の着物を掴むと怯えるように更に顔を青ざめさせる。俺は懐に潜めている護身用の短刀を抜き、目の前の鬼へ尖った先端を向ける。俺が名前を護らなければ、
「オイオイ、お前誰かを刺した事なんてないんだろ?その証拠にお前の手、震えてるぞぉ〜?」
鬼の言葉の言う通り、短刀を持つ俺の手は酷く震えていた。手が震える、足が震える、だけど彼女を護らなければいけない、俺の命に代えても。強く決心をすると、鬼の心臓目掛けて斬りかかる。しかし、短刀は自身の手から意図も簡単に弾かれてしまう。
「まずは其方の女の方から食っちまお〜〜」
先程まで俺に向けられていた眼球は彼女を捉えていた。このままでは名前が鬼に食われてしまう、途端に鬼の長い爪先が彼女の方へと振りかざされる。
『浩ちゃん!だめ!』、名前の静止を無視して庇うように彼女の前に乗り出す。直ぐに襲いかかってくるであろう鬼の斬撃を目を瞑って受け入れた。
──────
「おかあさん、おかあさん、鬼は本当にいるの?」
幼い頃に聞いた鬼の話、幼い俺は見たこともないその存在について母親に訊ねる
「鬼は夜になったら人間を食べちゃうの」
「えー怖いよぉ、じゃあ、みんな死んじゃうの?」
「大丈夫よ浩一、そうならない為に、」
───鬼狩り様が鬼を斬ってくださるのよ
月の光を背に受けながら暗闇の中で見知った赤い髪が揺れた。閃光の様な速さで肉を斬り裂く音が響く。即座に刃は吸い込まれるように持ち主の鞘に収まった。先程まで自身の方へと迫っていたはずの鬼の頚は瞬く間に地面へと転がっていた。
「名前!浩一!大丈夫か!?」
慌てて自身の背中へと隠していた名前を見ると瞼を閉じて、その小さな身体が地面へと倒れていた。慌てて彼女のもとへ駆け寄り呼吸を確かめる。小さいながらも聞こえる命の音に、俺と炭治郎はホッと胸を撫で下ろした。どうやら恐怖から気を失っている様だった。
「お前が来てくれなかったら、名前は死んでいた」
あのままでは俺が食われた後、名前も鬼に食われていたに違いない。どうしようも無い自分の無力さに腹が立つ。俺はまた自身の拳を強く握った。
「そんな事ない、浩一が名前を護ってくれてたんだ。名前が生きてる事がその証拠だよ」
何を言ってるんだ、誰がどう見てもお前が名前を護ったんだよ。
「こんな俺なんて助けてくれないで、放って置いてもよかったのに」
「何を言っているんだ!失われても良い命なんてこの世に存在しないんだ、きっと亡くなってしまった浩一のお母さんだって、浩一にずっと生きていてほしいと思っていたに決まっている!」
───思い出した。鬼狩りに頚を斬られた時、鬼になったはずの母さんの顔が、安心したように笑っていた気がしたんだ。まるで俺と父さんを殺さなくってすんで良かった、って言ってるみたいだったんだ。
「それに、浩一は俺の友達でもあるんだから」
そう言って地面へと腰を下ろしていた俺の前に右手を差し出す。
あの時の鬼狩りが、炭治郎だったら、鬼になってしまった母さんの頚を切らなくてもいい方法があったのかもしれない。だけど全部思い出して、勝手に救われたような気になった。今まで鬼になった母さんの事、鬼狩りから救ってやれなかったって、何処かで罪悪感に駆られていたんだ。だけど、あの時、母さんは俺と父さんを見て笑ったんだ。
大事な事、忘れていて御免な、母さん───
「ありがとうな、炭治郎」
なあ、お前なら、炭治郎なら、名前を守ってくれる気がすると思うから。仕方が無いから認めてやるよ、何だか悔しいから頑張れなんて言ってやらないけどな。
俺は差し出された同い年とは思えないようなマメだらけの手を取って立ち上がった。
(20200523)