彼と彼女の出逢い

「きさつの、けんし、さま……?」

彼女は踝まで浸していた池の底に足をつけて立ち上がると、透き通るような綺麗な瞳で俺を捉えたままそう尋ねた。

「ゴホッ…ゴホッ……」
「だ、大丈夫か!?」

途端、彼女が突然咳き込み出したかと思うとその身体が大きく左右に揺れる。まずい、と思った瞬間に頭よりも身体の方が先に動いていて、気付いたら俺は彼女へ手を伸ばしていた。彼女の身体を引き寄せて自身の胸にぐいと抱き寄せる。彼女の足下は池から引き摺り出され、その代わりにパシャパシャ…と水が大きな音を立て跳ね上がった。判断が遅ければ、今頃は目の前の池でびしょびしょに濡れてしまっていたかもしれなかったと考えるとホッと胸を撫で下ろした。きっと朝の冷たい空気で池の水が冷たくなっているはずだろう。

屋敷の奥の方からドッドッドッドッ──と床を走るような足音がして、俺たちのいる方向へ近付いてくる。

「お嬢様───!また布団から抜け出して!お身体に触ります!」

見覚えがあると思ったその人は先刻、俺を屋敷を招き入れてくれた初老の女の人だった。先程の落ち着いた素振りは何処にいってしまったのか。

『あっ、あのー』、自分の顔の下辺りから遠慮気味に声がして、透き通るような彼女の目が俺を見上げている。我に返った俺は自分の腕の中に未だにに彼女を閉じ込めている事に気が付いて慌てて自身の腕からバッと引き剥がす。

「こっ、これは!その!断じて不純な事をしていた訳ではなく!」

両の手のひらを持ち上げて降参のポーズをしながら、誰に向けてかも分からずに弁解する。同じぐらいの年頃の女性とこんなに密着する事に慣れているはずもない俺は、質感が柔らかいだとか、甘い匂いがしただとか、そんなふうに途端に彼女を意識してしまい、顔の体温が上昇したのが自分でも分かった。身長は低い方だと自負しているが、それよりも一回りも小さい彼女に上目遣いで視線を向けられていると認識した時は、鼓動が素早く脈打って心臓が破裂するかと思った。

「トメさん、この方が池に落ちそうになったのを助けてくださったの」
「あら、鬼殺の剣士様ではないですか」

どうやら俺が説明する前に彼女が状況を説明してくれて事無きを得たようだ。先刻、お世話してもらったとはいえ、見ず知らずの男が自身が使えているお屋敷の大事なお嬢様に抱き付いていただなんて、どんな地獄絵図だ。

「それよりもお嬢様、また外に出ていらっしゃる。旦那様に怒られますよ」
「良いお天気だから水遊びをしてみたくて。もうちゃんと大人しくお部屋に戻りますから、お父様には言わないでくださいね」
「はいはい、約束ですよ」

『鬼殺の剣士様もお身体もゆっくりご休養くださいませ』、そう言い残して初老の女性、もといトメさんは屋敷の奥へと戻って行ってしまった。

「鬼殺の剣士様も内緒にしておいてくださいね?」

彼女は人差し指を出して『内緒ですよ?』と念押しした。会ったばかりの何処の馬の骨とも分からないような俺に向けて、小首を傾げて秘密の共犯を乞う様子は、まるで小さな子供みたいではないか、と思ってしまいその可笑しさに少し笑ってしまった。
そして、『少しお話しませんか?貴方の事を教えてほしいの』そう言って彼女は俺の手を取って屋敷の縁側の方へと誘導してくれた。

「藤の花の家紋を掲げているから、鬼殺隊の方たちが屋敷にいらっしゃる事はあるけれど、一度でいいから鬼殺の剣士様と直接お話してみたくって」

『きっと私と年も離れてなさそうに見えますし』と、隣に座る彼女は興味に満ち溢れた眼差しを俺に向けている。

「それよりも俺は君に言いたい事がある。さっきから“鬼殺の剣士”“鬼殺の剣士”って、俺にだってちゃんと竈門炭治郎って名前があるんだぞ」

彼女に呼ばれる度に、むず痒くて仕方なかったんだ。『炭治郎と呼んでくれ』俺が食い気味でそう迫ると、彼女は渋った顔をした。

「でも、お父様から“昔から私たちを守ってくださっている鬼殺の剣士様には無礼はしてはいけないよ”、って言われてますし…」
「いいんだ、俺が許可するよ」
「じゃあ、炭治郎さん…?」

“鬼殺の剣士”だなんて、むず痒かった理由はそんな大層な名前で呼ばれるからだと思っていたが、自分の名前を呼ばれてみれば、単に自身の名前を彼女に呼んで欲しかっただけかもしれない。

「君の名前は?」
「苗字、名前…」
「名前か、いい名前だな」

名前はその後、色んな話をしてくれた。彼女の家は代々続く武家の家系で、その昔鬼に食われそうになったところを当時の鬼殺隊士に助けてもらって以降、藤の花の家紋を掲げるようになったらしい。そして、母親は既に病で亡くなっていること。現在は彼女の父親と先程のトメさんというお手伝いさんと名前の3人でこの大きなお屋敷に住んでいることを教えてくれた。『私ね───』彼女は大きく深く息を吸った後に話し始めた。

「身体が弱くて外の世界に出れないの」

彼女は困ったように笑ってそう言った。

「鬼殺隊の方たちは鬼を退治する為に、東へ西へ、と沢山のところを飛び回っているんでしょう?炭治郎さんもそうなの?外の世界はどんなものなのですか?」

外の世界への強い憧れも彼女の身体が弱いから所為なんだろう。俺は彼女に自分の故郷の山での話や、鬼殺隊として訪れた町で見たものを話してみせた。彼女は目を輝かせて首が取れるんじゃないか、と此方が心配になるくらいに相槌を打ちながら俺の話を聞いてくれた。

暫くすると、どこからか一匹の白い蝶が屋敷に迷い込んできて、それに気付いた彼女が指を出すと、まるで誘われてきたかのように彼女の指に止まってみせた。

「炭治郎さん、私ね、生まれ変わったら蝶々になりたいなぁ。自由に飛びまわって綺麗な花に止まれるでしょう?」

初めて彼女を見た時に透き通るように綺麗だと思った理由、彼女はきっと外の世界の広さを知らなさすぎるんだ。俺が彼女の世界に色を付けてあげたいと思った

これが俺、竈門炭治郎と苗字名前の出逢いだった。


(20200507)

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