その日は満月の綺麗な夜だった。刀鍛冶の里での上弦との戦闘の後、蝶屋敷で療養中だった俺は、こっそりと病床から抜け出した。夜になって静まり返る町の静寂さや暗さにも、今では慣れたものである。もう何度通ったか分からないほどに繰り返し歩いた道を通り抜け、広い四つ角の二つ目を左に曲がり、一邸の屋敷の塀を登って静かに地面へと着地をする。完治したばかりの脚がまだ痛むのを感じて、よくあの戦いから生きて帰ってこれたな、と自分のことであるのに何処か他人事のように驚愕してしまう。こうして蝶屋敷のベッドから抜け出したことがしのぶさんにでも見つかってしまえば、たちまちお説教が始まるだろう。
屋敷の塀を越えてすぐのところには大きな藤の木が仰々しくそびえ立っている。外から塀を乗り越えて彼女の部屋へ向かうには、この場所を必ず通らなければいけないのだが、その大きな藤の木の存在が、この屋敷が藤の花の家紋を掲げている由縁を物語っているかのようだった。うねるような幹から伸びた枝が曲線を描き夜の暗闇の中でも光を浴びようと、月に向かってそれぞれに花を咲かせている。月の光に照らされた藤の花は昼間に見るそれよりも、時には美しく、時には妖しく、そしてどこか神秘的にも見えるのだ。満月には昔から不思議な力があるのだと言われているけれども、俺がここにやって来た理由はその不思議な力のせいなのだろうか。彼女に会いたいと思ったんだ。今、俺が立っている地球が月に引き寄せられているように、それは不思議な引力にでも強く引き寄せられるかのようだった。
彼女の部屋へと繋がっている襖は閉じられていた。
「名前、」
小さな声で彼女を呼ぶ。どうしてだろう、こんな夜は名前も俺と同じ気持ちなのだろうと、なんだかそう思って、いや、思い込んでしまっている自分がいる。スッと静かに音がして、俺と彼女を隔てていた一枚の襖が開く。すると彼女がそこから顔を出して俺の名前を小さく呼んだ。
「こんな夜更けに、どうしたんですか?」
「どうしても君に会いたくなって、」
彼女は『不思議ですね、私も同じことを考えていました』とクスクスと笑った。
ほら、俺の思った通りだ。そんな気がしたんだ。
「禰豆子、太陽を克服したんだ」
「ほ、ほんとに、?」
「うん、今は鬼に見つからないように身を隠しているから、ここには連れて来れなかったけど」
「そっかぁ、禰豆子ちゃん、頑張ったんだね」
『よかったぁ、』と言葉を零して自分のことのように嬉しそうに笑う彼女を見ると、俺もたちまち嬉しくなってしまう。
俺は大きく息を吸い込んだ。吸い込んだ息と一緒に夜の匂いが紛れ込んできて、自身の身体の中へするりと侵入してくる。隊服の襟を正して彼女の方へ向き直し、目の前にある透き通るように透明な色をした瞳を捉えながら、俺は静かに口を開いた。
「もうすぐ終わるかもしれないんだ」
きっと、無惨との最終決戦はすぐそこまで近づいているのだろう。誰も口には出さないが、俺が感じ取っているように、それはみんなが思っているに違いない。
「全部終わったら、俺と一緒に生きてくれないか」
ここに来るまでに、いったい何人の人たちが命を落としてしまったのだろうか。それは俺が生まれるよりもずっと前から。背中に大きく刻まれた“滅”の文字がその長い年月を現している。
「きっと名前が待ってくれたら、俺は頑張れるから」
今までだって、何度死ぬかもしれないと思ったことだろう。無限列車で俺たちや乗客全員の命を救ってくれた煉獄さんは勿論のこと、これまでの鬼殺隊の人たちが命を繋いでくれたおかげで、俺はこうしてまだ生きている。けれども次の無惨との戦いは、きっとこれまでみたいにはいかないだろう。生半可な覚悟では許されないのだろう。もしかしたら俺は志半ばで死ぬかもしれない。命を落としてでも鬼舞辻無惨を倒す、そんな強い覚悟を持って挑んでいかないと、無惨の首には刃の先の少しすらも届かないだろうことは分かっている。
「返事は俺が生きて帰ってきたら聞かせてほしい」
けれど、名前が待っていてくれたら、俺は生きて帰ってくる理由が出来るから、だから、
「炭治郎さんはもう十二分に頑張っていますよ」
そう言って、反対の手で着物の袖を邪魔にならないように押さえながら右手を伸ばし、よしよしと俺の頭を撫でる。
「そうやって、子供扱いするんだ、」
俺は至って真剣な話をしていた筈なのに、いつの間にか彼女のペースに流されている自分に気付いた。途端になんだかすごく恥ずかしくなってきて、ムッと口を尖らせてみせる。
「そういえば、前にもこんなことがありましたね。炭治郎さんは、覚えています?」
自分で言うのも何だが俺は記憶力は良い方だ。確かあれは、名前が体調を崩してしまった時、ちゃんと薬を飲めた彼女の頭を俺が撫でてやった時のこと。『子供扱いしないで』と拗ねた彼女が被った布団から赤く染まった頬が見え隠れしていて、可愛いなぁ、と思ったんだっけ。思えばあの時からもう俺は、彼女のことが好きだったのだろう。
「だから、おあいこです」
ふふふと、悪戯に成功したかのように楽しそうに笑う彼女に、思わず俺もつられて頬が緩くなってしまう。なんだか拍子抜けしてしまった俺は、彼女が座る縁側の隣に腰を下ろす。左側、そこが俺の定位置だ。
無性に彼女に触れたくなって、右手を彼女の頬へと添える。すると彼女は俺の羽織の裾を小さくきゅっと握って瞼を閉じた。それを肯定の合図と捉えた俺は、ゆっくりと彼女の唇に自分のそれを近づける。長い睫毛が影を作っているだとか、触れた肌の白さだとか、このまま目に焼き付けてしまいたい衝動に駆られたが、あと数センチというところで俺も同じように瞼を閉じた。そして触れるか触れないかというくらいに優しく口付けた。
名残惜しげに彼女から顔を離すと、瞼を開いた二人の視線がぶつかってどちらとも何も言わずに見つめ合った。それはとても心地の良い沈黙だった。どのくらい時間が経ったのだろうか、時計の秒針に換算すればほんの一瞬がとても長く感じたんだ。
ようやく耐えきれなくなった彼女が空を見上げたので俺も倣って空を見上げると、ひとつ、まるい満月がまるで昼間の太陽のように明るく暗闇に浮かんでいる。
「炭治郎さん、月が綺麗ですね」
ある英文学者が『I love you』を『我、君を愛す』と訳した教え子に対して、日本人はそんな風に訳したりはしない、『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ、と言ったという話を聞いたことがある。後付けされた話なのか、本当にその人がそう言ったのかどうかは分からないけれど。その話を彼女は知ってるいるのだろうか。俺は目を細めて彼女を見つめた。きっと俺は今、とても優しい目をしているのだろう。
「きっと君の隣で見るからだろうね」
その話を初めて聞いた時に、どうしてその学者はそんな風に遠回しに言ったのだろうか、と思っていたけれど、たった今、その理由が分かった気がした。
(20200719)