光の一筋さえも差し込まない、海の底のような深くて暗い闇の中、名前の小さな手が俺の傷だらけの手を握ってくれたような、そんな気がしたんだ。
───炭治郎さん、起きて、
瞼を開けると俺が今まで彼女だと思っていたのは、妹の禰豆子だったことに気付く。禰豆子を名前だと勘違いしてしまうなんて、きっと俺は相当疲れているのだろう。酷く頭がぼぅっとする。
「お兄ちゃん…!よかったぁ、目を覚まして、」
大きな瞳から大粒の涙をポロポロと零しながら俺に抱きつく禰豆子の頭をいつものように優しく撫でてやる。いつもと違うのは禰豆子はもう鬼ではなく、人間だということだ。そうだ、無惨を倒して、禰豆子は人間に戻って、それから俺は鬼になって…
「お兄ちゃん、あれから一月以上も、ずっと目を覚さないから、私、死んじゃったのかと思ったじゃない、」
「禰豆子、ごめんな、」
ふと顔を横に向けた時、何故か名前に贈ったはずの簪が俺の枕元に置かれている。蝶を象った淡い桃色の、彼女に似合う簪だ。それを手に取って、仰向けになったまま顔の上でかざしてみせる。俺が自分で選んだのだから見間違える筈はない。そうだ、夢の中に出てきた彼女は、名前はどうしているんだろうか、禰豆子の話の通りに俺がずっと意識を戻さずに眠っていたのなら、きっと今頃は屋敷の中で退屈しているだろう。
「名前は、元気なのか?」
俺が彼女の名前を口に出した途端、やっと泣き止んだと思っていた禰豆子の瞳が大きく揺れた。再び泣き出してしまいそうな、そして何かに耐えるかのように辛そうに顔を歪ませて下を向いた禰豆子の肩を、背後から顔を出した善逸の手が掴んだ。
「禰豆子ちゃん、」
善逸はそれ以上言葉こそは交わさなかったが、今にも瞳から涙が溢れ落ちてしまいそうな禰豆子と視線を合わせて強く頷くと、妹を背後に隠す。そして俺の方へと顔を向けてから、その重い口を開いた。
「名前ちゃんは死んじゃったんだよ」
「は?何を言ってるんだ」
死んだ?誰が?
「だから、名前ちゃんは、一ヶ月前に急に心臓の病気が悪くなって、」
やめてくれ、その続きの言葉は聞きたくない、お願いだ、やめてくれ、
「死んだ」
目の前に浮かんでいる景色がぜんぶ白黒になっていく。それはまるで世界から色が消えてしまったかのようだった。
「ははは、嘘なんだろう?いくら善逸でも、そんな冗談は、」
「炭治郎、名前ちゃんは死んだんだ」
目を逸らして自分の身体に纏わり付いている真っ白なシーツの皺を理由もなく見つめていた俺の肩を、善逸は両手で強く掴むと、真剣な顔をしてもう一度おんなじ言葉を俺に向かって言い放った。善逸が嘘を言っていないことぐらい、そんなの匂いを嗅げば分かる。知ってるだろう?俺は他人よりも鼻が利くことを。俺はただ、現実を認めたくないだけなんだ。
ドタドタと足音がしたかと思うと、大きな音を立てて部屋の扉が開いた。伊之助だ。
「オイ!紋次郎が目を覚ましたんなら言えよ!!!」
勢いよく部屋へとやってきた伊之助だったが、今の俺たちがいつも通りでないことが分かったのか、キョロキョロと顔を覗かせて様子を伺っているようだった。
「すまない、ひとりにさせてくれないか」
「わかった」
『行こう、禰豆子ちゃん、伊之助も』そう言って禰豆子と伊之助を連れて部屋を出る善逸。『オイ!なんでだよ!説明しろ!』と伊之助の声が遠ざかっていくと、最後にバタンと扉が閉まる音だけがした。
ひとりになって手の中にある彼女の簪を見つめる。俺がこれから生きていく理由であった彼女が先に死んでしまって、なんで俺だけ生きているんだろう。彼女が苦しんでいる間、どうして俺だけやすやすとベッドの上で眠っていたんだ。どうして俺は彼女の手を最後まで握ってやれなかったんだろう。後悔ばかりが押し寄せてくる。不思議と涙は出なかった。人は悲しすぎると涙さえも出ないのだろうか。
あれから何ヶ月が経ったんだろう、それからは流れるように毎日が過ぎていった。俺たちは善逸と伊之助と一緒に家に戻って元の生活を始めた。禰豆子から善逸とお付き合いをすることになったと聞いた後も『お兄ちゃんの事が心配だから』と、二人は頑なに家を出ようとはしなかった。俺はもう大丈夫。もう心配ないよ。彼女がいなくなってしまったことに蓋をして蓋をして、何重にも鍵を掛けたんだ。そしたら考えなくたって済むだろう?それに、まだ生きているようなかんじなんだ。だってほら、今だって彼女の後姿が見えて俺はその右手をめいいっぱいに伸ばして、大きく足を踏み出した。
──炭治郎さん、まだこっちに来たらだめ
「お兄ちゃん!やめて!」
バッと身体を引かれ、目の前を見ると俺は崖の淵にいた。足元が崩れて俺の代わりに小石や砂が崖の下へと落ちていった。それはここから落ちれば即死は免れないだろうという高さをものがたっていた。禰豆子に止められて、自分が死のうとしていた事に気付く。まだ二十の歳にだってなっていないのに、俺は夢遊病者にでもなってしまったのか。『ははは、参ったなぁ、』と誰にも聞こえないように小さく声を零す。
「お願いだから、お兄ちゃんまでも、居なくならないでよぉ…!」
気が付くと俺たちのところへ走ってきた善逸が目の前にいて、俺の着物の襟合わせをぐっと持ち上げ、胸ぐらを掴んだ。
──パシン!
渇いた音が響く。暫くして、ようやく自分が善逸に頬を叩かれていることに気付いた。ヒリヒリと赤くなっているであろう自分の頬を右の手の平で押さえる。痛い。叩かれたところじゃない。身体の奥にある見えない感情を掌る器官が痛い。
「な、何するんだ、ぜんい、」
「禰豆子ちゃんを泣かせるやつはなぁ!たとえ、炭治郎でも許さないんだからな!俺の親友でも、なぁ、ゆるさないんだからなぁ、っ!」
禰豆子が泣いている。泣かせたのは俺なのか?
「ごめん」
ごめん、禰豆子、たった二人の兄妹になってしまったのに、こんなんじゃ俺は、禰豆子の兄ちゃん失格だよなぁ、もう二度と悲しい思いなんてさせないってあの時に誓ったはずなのに。
「ごめん」
ごめん、善逸、誰か一人が道を踏み外しそうになったら止めようって皆で約束したもんな、それがどんなに辛くても、って。善逸に叩かれるまで俺は気付かなかった、本当に馬鹿だなぁ。
「ごめん」
ごめん、名前、きっと名前だって、こんな事、望んでるはずないって分かってるんだ。だけど、心にぽっかりと穴が空いてしまったようなんだ。何度も塞いでみようとしたけど、その穴がだんだん広がっていって、ぜんぶぜんぶそこから溢れはじめていくんだ。
冷たい何かが自分の頬を伝っていく感覚がする。彼女が死んでしまったと知ってから、初めて自分が泣いていることに気づいた。
──悲しいんだ
なんで?彼女が居ないから
──苦しいんだ
なんで?彼女が死んでしまったから。
一度、それを認識してしまうと堰き止めていた何かが外れてしまったかのように、涙がぽろぽろととめどなく溢れてくるばかりで、それは止まることを知らなかった。
涙でぐしゃぐしゃになってぼやけた視界に小さな何かを乗せた手のひらが差し出される。
「ほら、つやつやのどんぐり!お前の為に見つけてきてやったから」
「伊之助、」
俺が顔を上げると、差し出されたその手の中にあったのは一つの小さなどんぐりだった。
「俺は名前に会ったことねぇけどよ、お前が泣くほど好きなやつなんだろ?」
伊之助の言葉に、俺は我に返る
「うん、そうなんだ、好きなんだ」
そうやって言葉として口に出しただけで、ぽっかりと空いた大きな穴が、なんだか不思議と埋まっていくように感じた。満たされていくように感じた。好きだった、なんかじゃなくて、今でも好きなんだ、大好きなんだ、俺は彼女のことが。ずっと俺がこんなんだから、伊之助なりに元気付けてくれたんだよな、伊之助もありがとう。俺は本当に良い友達を持ったよ。
あれから、彼女が死んだことを認めるのが怖くて、ずっと近づくことができなかった藤の花の家紋を掲げている苗字の屋敷へと俺は足を運んだ。周りの家よりも幾分か大きなそのお屋敷の凛とした佇まいは以前と少しも変わってはいなかった。
「御免ください」
閉ざされた長屋門を叩く。暫くして開かれたその門からはお手伝いのトメさんが出てきて、俺の顔を見ると酷く驚いた顔をした。
「旦那様…!炭治郎さんが…!」
トメさんは慌ててご主人を呼びに屋敷の中へと戻って行く。名前のお父さんにどの面を下げてやって来たのか、と追い出されるかもしれない。俺は線香すらも上げさせてもらえないかもしれない。そう思われても当然だろう。俺は逃げたのだから。
「待っていたよ」
名前のお父さんは穏やかに微笑んで、俺を屋敷の中へと迎え入れてくれた。目覚めた時に枕元に置かれていたあの簪は、禰豆子が彼女の葬儀に参列してくれた時に、彼女のお父さんから、俺に渡すように、と受け取ったものだったのだと教えてもらった。目を覚さない俺の代わりに、禰豆子が見送ってくれてたのだ。そんなことも知らなかったのかと、今まで自分がどれだけ周りが見えていなかったのかということに気付く。
「これだけは、直接渡さないといけないと思っていたんだ」
“竈門炭治郎様”と彼女の綺麗な文字で俺の名前が書かれていたそれは、一通の手紙だった。
「何が書いてあるのか中身を見るなんてことはしていないから安心してほしい」
「今まであんなに良くしてもらっていたのに、すみません、」
「私はね、とても君に感謝をしているんだ」
『炭治郎くん、』そうやって俺の名前を呼ぶ目の前の人に、彼女の姿が重なる。
「名前、息を引き取る前にね、何て言ったと思うかい?“生まれてきて良かった、ありがとう”って、そう言ったんだ」
俺は受け取った手紙を持つ右手を強く握った。
「不謹慎だと言われるかもしれないけれど、私はそれが嬉しくてね、名前は自分が長く生きれないと、物心が付く頃から分かっていたんだろうね、いつもどこか諦めたかのように生きていたように見えてね、私たちの元に生まれてきてしまった事が不幸だったのではないのかと、常に私の心の中は娘への罪悪感で一杯だったんだ、だから名前が最後に生まれてきてよかったと言ってくれたこと、私は本当に嬉しかった。炭治郎くん、きっと君がいたからだろう?どうか私からもお礼を言わせてほしい、ありがとう」
「頭を上げてください…!俺はそんなふうに礼を言われるような人間じゃないんです、」
目の前で躊躇いもせずに頭を下げる名前のお父さんに、俺は慌てて頭を上げてもらうように促す。
「それに、生まれて初めて好きな人が出来たんだと、私と亡くなった妻もこんな風に人を愛おしいという気持ちを持って自分が生まれてきたのだと知れたんだと、名前は言っていたよ」
「娘を愛してくれて、ありがとう」
ずっと後悔ばかりだったんだ、もっともっと色んな景色や世界を見せてあげたかったとか、もっと一緒に笑い合いたかったとか、彼女の方がもっとたくさん後悔があってもおかしくないはずなのに、俺は泣いてばかりじゃないか、
屋敷を出た俺はふらふらと町を歩いて、気が付いたらあの場所にいた。そこは俺が彼女に想いを伝えた場所だった。ひっそりとそこに佇むベンチに座る。隣には彼女はいない。先程の手紙を懐から出してそっと開いた。彼女の匂いがして、その懐かしさに俺は思わず目を細めた。
竈門炭治郎様
この手紙を炭治郎さんが読んでいるということはきっと私はもう、この世にはいないのでしょう。
あの後、人間に戻った禰豆子ちゃんが私を訪ねて来てくれました。ついに全てが終わったんですね、炭治郎さんは成し遂げたんですね。本当によく頑張りましたね。本当は、今すぐにでも抱きしめてあげたい気持ちでいっぱいですが、私の身体はもう思うようには動いてくれないようで、こんなふうに手紙を書くので精一杯みたいです。少しざんねん。
炭治郎さんがあの満月の夜に、全部終わったら一緒に生きようと私に言ってくれたこと、とっても嬉しかった。だけど、その約束はどうやら守れそうもないみたいで本当にごめんなさい。
私はもう炭治郎さんと一緒に生きていくことは出来ないけれど、炭治郎さんは、どうかこれからも生きてください。私のことなんて忘れてしまってもいいんです。私の小さな世界を広げてくれた、こんな私に人を愛しいという感情を教えてくれた、誰よりも優しい炭治郎さんが幸せになってくれたら、それで私は十分なのです。沢山、たくさん、ありがとう。愛しています。
どうか幸せになってくださいね。
苗字名前