「炭治郎さん、まだ準備が出来てなくて」
名前の部屋の襖が静かに音を立てて開き、彼女が遠慮がちに顔だけをこちら側へ出してそう言った。
「気にしないでくれ。俺もさっき来たところだから、ゆっくり準備をしてくれよ」
『すぐに終わらせるので…!』と、とても申し訳なさそうにバタバタと部屋の向こうへと戻っていく。自分から言うのも何だが、昔から待つのは得意な方だ。それに、その準備に時間が掛かっている理由が、俺と二人で出掛ける為なのだと思うと、むしろ嬉しくて、思わず口元が上がってしまう大変素直な自分もいる。
今日は名前と町に出る約束をしていた日だ。今日という日を楽しみにしすぎて、昨日の夜に俺が寝れなかったのは彼女には内緒である。先日のお医者様の検診で晴れて外出許可が出たので、以前から彼女と約束をしていたように二人で町へと出掛けることになったのだった。
「炭治郎さん、お待たせしました!さぁ、行きましょう」
女の子らしい明るい色の綺麗な着物を身に纏い、唇に紅を引いて、男の俺が見ても分かるくらいに、だけど少し控えめに化粧を施しているであろう彼女は、普段は屋敷の中でしか会っていないからなのだろう。いつもと違う彼女は俺をドキリとさせるには十分だった。
「きれいだ…」
頭で考えるよりも先に無意識に口が動いていたことに気付いて急に顔の熱が上昇してくる。
「えへへ、ありがとう」
俺は余裕のない気持ちを悟られないようにと平然を装って、『じゃあ、行こうかと』と手を差し出すと、名前は俺の差し出した手と俺の顔を交互に見比べて『じゃあ、失礼します』と遠慮がちに小さな手が俺の手を握った。
「実は、炭治郎さんとこうして外へ出掛けるのが楽しみで、昨日は眠れなかったの」
名前は俯きながら恥ずかしそうにそう告げた。俯いているので横顔しか見えないが少し頬が赤くなっているように見える。
かっ、かわいい〜!いや、いつも可愛いんだけれども。普段と違う場所で彼女と会っているからなのか、いつもよりも割増で可愛く見えてくる。いつも可愛いけど!ドクドクと脈打つ自身の左胸を空いた手で抑える。呼吸を整えるんだ、呼吸、呼吸、呼吸…
「…さん、炭治郎さん…?」
「は、ハイ!」
横から呼び掛けられていたことに気付かずに、思わず返事の声が裏返ってしまう。
「ボーッとしてどうしたの?」
「す、すまない」
「あははは、へんな炭治郎さん」
クスクスと口元に繋いだ手と反対の手を当てて可笑しそうに笑う彼女。手を繋いだだけで動揺してしまうなんて、男として不甲斐なし。
「炭治郎さん、今日は何処に連れてってくれるんですか?」
「とっても美味しい団子屋があるんだ!きっと名前も気にいると思うよ」
「お団子ですか?わぁ、楽しみ!」
彼女は俺の隣でその瞳をキラキラと輝かせながら溢れんばかりの期待をその透明な瞳に抱いて笑ってみせた。
▽
あれから団子屋で彼女とみたらし団子を食べて美味しいね、と笑い合って、それからは色んなことを二人で話しながら町を歩いた。名前にとっては町にあるあらゆるものが新鮮に見えるようで、何かを見つけるたびに俺の手を取って『炭治郎さん!こっち!』と興味津々に近付いていく。そんな彼女が可愛くって、思わず顔が綻んでしまう。
外を歩いている時に突然体調が悪くなってしまったらどうしようという不安を抱えていた俺は名前のそんな嬉しそうな顔を見るたびに、彼女を町に連れてきて本当に良かったと心から思った。『少し寄り道をして帰らないか?』と提案すると、彼女はコクリと頷いた。
町の栄えているところから少し離れた高台にあるこの場所は、上から町を見下ろせるようになっている。ひっそり佇むように置かれているベンチへ腰掛けると、自身の隣の空いた場所をポンポンと手で叩き、彼女を隣に座るように促した。
「すごい…!こんな所あったんですね!さっきまで歩いていた町がこんなにも小さく見える」
「この前見つけたんだ。いつか二人で外へ出る時があったら、名前に教えてあげようと前から思っていたんだ」
あそこはさっき行った団子屋さん、私の家の屋敷はこっちで…と眼前に広がる町並みのそのひとつひとつを指差して確認しながら楽しそうにしている彼女の横顔が俺の目に映る。
「名前」
俺が名前を呼び掛けると『なぁに?炭治郎さん』と彼女は俺の方を向いて首を傾げた。
「名前に受け取ってほしいんだ」
そう言って俺は彼女に布で包まれたものを渡す。
『開けてみてくれ』と促した。それを受け取った彼女は包みを開けると、桃色の蝶を象った簪が顔を出す。彼女は硝子細工で出来たそれを夕日に透かして眺めながら『きれい』とひとこと言葉を溢した。
「今日のお礼だよ」
近年では女性にアクセサリーを送るという文化が西洋の国から入って来て定番になりつつあるようだが、まだまだこの国では想い人の女性に簪や櫛を送る風習がある。俺が彼女に簪を送った理由。つまりはそういうことなんだ。
先日の任務で隣町に訪れた時、ふらりと通りがかった小間物屋でそれを見つけた。名前にピッタリだと思ったんだ。俺は運命なんていうのは信じる方ではないが、直感的にそう思ったんだ。
簪を見つめていた彼女はハッと顔をこちらへ向けると、おずおずと俺の方へその包みを返してくる。
「こんな素敵な簪受け取れない、それにこれは私なんかじゃなくて、炭治郎さんの想い人の方にあげてください」
「俺は君にあげたいんだ、俺の想い人は、名前、君なんだ」
逃すものか、と俺は両手で彼女の手を取って、燃えるような熱い瞳で彼女の双眸を見つめた。少しだって余所見なんてさせたくない。今だけは俺だけでその瞳を一杯にしてほしい。
「ほ、ほんとう…?」
その目尻からキラリと溢れた雫が頬を伝った。
「ほんとだよ」
俺は瞳から零れ落ちたそれを右の手で、まるで壊れ物を扱うかのように出来る限り優しく丁寧に拭ってやる。返事を聞いてないのに彼女が俺と同じ気持ちを抱いているような気がして、思わず笑みが溢れてしまう。
「名前のことが好きなんだ」
「だけど、私はきっと長くは生きれない」
「名前の本当の気持ちを聞かせて」
暫く口を閉ざしていた彼女の唇が動いた。
「私も、炭治郎さんが好き…」
堪らなく愛おしくなってその小さな身体を一度だけ抱きしめる。ゆっくりと身体を離すと、彼女の肩にそっと両手を乗せて向き合うと、自分の額を彼女の額にゆっくりとくっつけた。俺が笑うと彼女もつられて笑ってみせた。
「嬉しくて、こんなに幸せでいいのかと思ってしまいます」
「俺も一緒だよ」
俺はあの時、このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思ったんだ。
(20200706)