君のぬくもりも、小さな癖も、最後の言葉も、もう忘れてしまった。

車内に流れる歌が私の記憶を擽った。これは君の歌、そんなふうに特別な歌にしたわけじゃなかった。ランダムで幾度となく流れるこの歌の、たったワンフレーズが、いつも君のことを思い出させた。

忘れたいと思ったわけでもなく、忘れまいと誓ったわけでもない。霞がかかったようにぼやける君なのにこんな少しのきっかけで、すぐに浮かび上がる。こんなことを何度繰り返しても私はあの日から進めない。


「ってわけ、どう思う!?」
「怒りの沸点が低いな。まぁ私も同じ反応すると思うけど」


ガチャガチャ、と居酒屋らしく皿がぶつかり合う音と、威勢のいい店員の声が飛び交う。私はコーラハイボールの入ったジョッキをガタンと机に置いた。今日は呑む、とお決まりのセリフを吐いて、また一通り愚痴をこぼす。


「それ絶対もう別れるでしょ」
「うん私もそう思う」
「最短?」
「最短じゃない、最短はあの人」
「あー、あの人ね。いやあれ最短ていうか始まってもないでしょ」
「............」


痛いところをつかれて私は、友人から目を逸らしコーラハイボールの最後の一口を飲み干した。女友達と呑むときに話すことなんて大体毎回一緒だ。仕事の愚痴からはじめて、今のお互いの恋愛事情。彼氏がいれば彼氏の愚痴と称した惚気、いなければ今気になってる人の話、それもいなければ将来の不安。今回は別れる寸前の私の彼氏の話が主だった。私の場合、本当に別れそうだから、惚気がまったくないのだけれど。そして、今の話が終わると大抵過去を振り返る。「あの人はよかった」「今の彼氏よりここがよかった」、そう言って過去を美化していく。前の彼氏が今の彼氏だった時、同じように扱き下ろしていたくせに。


「でもあの人だけは私悪口言わなかったと思う」
「いや言ってたよ。声がでかいとか」
「............」


またも一本取られた私は追加のアルコールを頼んで、それが運ばれてくるまでの間、暇を持て余した口にフライドポテトを放り込んだ。ここに向かうまでの間も考えていた。あの人と最後に会った日に呑んだお店はここだった。こんな風に些細なきっかけですぐに思い出してしまう。大した人じゃない、そう思って次に進んでるつもりだった。

またね、といって友人と別れた。代行サービスのおじさんがよくある話をふって、私もそれによくある回答をしていた。流れる歌はあの人のことを思い出しもしないような恋の歌。恋なんてよく分からないけれど、あの時間、私は確かにあの人のことを心から大切だと思った。


「ん、」


自分の鼻にかかったような声がやけに大きく響いた。夜は今日もきちんと暗くて、目立つ銀の長髪を田舎道から隠していた。ギシ、と軋んだベッドの音が、ここが古くて安いラブホテルだと言うこと、私たちがこれからどうなるかということを思い知らせた。彼氏はいなかった。あの人にも彼女と呼べる人はいなかった。仕事で抱く女はいると、呑み屋の席で聞いた。あの人とは呑み屋で出会った。仕事で失敗した日の夜、やけ酒にいつもは行かないような呑み屋に、はじめて一人で入った日のことだった。日本では、ましてこんなド田舎では、珍しすぎる銀色の長髪を首元で結んだ外国人が、カウンターで小さなお猪口を握っていた。やけ酒に酔った私は二つ隣の席でまったく酔った様子のないあの人に声を掛け、愚痴を聞いてもらった。あまり覚えていないけど、「死ななきゃそれでいいんだぁ」とやけに優しい声で言われたことだけはよく覚えていた。酔った勢いとは怖いもので、その日私はあの人を誘った。もちろんあの人は断った。断ったというより上手く流されたと言った方がいい。それでも引き下がらない私にいつかもう1回会えたらな、と肩を叩かれ、タクシー代を渡された。


「どうしたぁ、怖気付いたかぁ」
「そんなわけないじゃない。初めてじゃないんだから」


あの人と初めて会ってから丁度1ヶ月後くらい。別の店であの人と出会った。その日はそこまで酔っていなかった私は先日のことを思い出して恥ずかしくなった。見間違うわけもない銀の長髪が私の心臓を早めた。あの人は約束なんてした覚えもないと言うように、「一緒に呑むかぁ?」とやけに大きい声で問う。私は素直に頷き、結局また仕事の愚痴を聞かせた。あの人は時たま「そんなくれぇの上司、うちに比べれば大したこたねぇ」と、自慢だか自虐だかわからないけれど、快活に笑った。連絡先も知らない、どこに住んでるのかも知らないあの人と、その後なぜだか呑み屋でばったり会うことが続いた。何度目かの再会、その日私は追い詰められていた。普段しないような失敗をして、仕事を辞めようかというところまで来ていた。あの人は私の顔をみて、困ったように笑った。こうなることを分かっていたかのように。


「ひ、ぅ、」
「どうしたぁ?初めてじゃないんだろぉ」


意地悪く笑うあの人がどうしてそんなに悲しそうなのか分からなかった。あの人を受け入れた時、言いようもない満足感が胸をついた。あの人が私の頭を撫でて、額の髪を避けてキスをした。大事にされているような錯覚が私を包んだ。思わずあの人の首に腕を回してキスを強請った。仕方ないな、とあの人にしては珍しく、小さな声で呟いて、たった一度だけの接吻を交わした。


「この交差点右?」


代行サービスのおじさんの声で我に帰る。もうアパートのすぐそばまできていた。ランダムに流れる歌は何曲進んだかわからない。道の詳細を説明して指定した番号の駐車場に車を停めてもらい、言われた金額を支払った。満月に近い大きな月が空に浮いていた。狭い階段を見つめて、無意識に数を数えながら昇る。目的の階につく前に、頭上から何度も反芻した声が響く。


「う゛ぉい、久しぶりだなぁ」


すぐに顔をあげる。確かに目が合う。網膜は目の前にいる銀の長髪を捉えているのに頭が回らない。銀の長髪なんてあの人しか知らないのに。


「いくつになったんだぁお前」


本当にあの人なんだ。話し方も声も表情も。忘れかけていたものが一気に押し寄せてくる。どうにかこうにか質問に答えると、くっと眉に皺を寄せて笑った。


「そうかぁ意外と離れてなかったんだなぁ」
「なん、」
「抱いた時の反応が初心すぎて、お子様に手を出しちまったかと思ったぜぇ」
「うるさい!!変なこと言わないで!ていうかなんで私の家知っ、」


漸く頭が回り始めたのに、突然抱きすくめられてまた何もかもわからなくなってしまった。結構な巨体が私を上から抱きしめるから、階段から落ちそうになってしまった。


「あっぶない...」
「なぁ」
「なに」
「お前、オレのこと好きだろぉ」
「なに、急に、はぁ?」
「オレのこと忘れられなかっただろぉ?」
「調子乗らないで」
「オレは忘れられなかった」


忘れられなかった。
たったワンフレーズ聞いただけで、すぐに君のことが思い浮かんで、幾度となくあの夜を繰り返した。別の誰かに抱かれても、一人の夜に思い出すのは君の横で眠りについたたった一夜のことだった。君のことを好きだと言ったことも、思ったこともなかった。なのに、こんなに忘れられなかった。昨日のことのように君との時間を再生できた。それが答えだった。


「オレと生きてくだろぉ。今の男とは終わりだぁ」
「結構勝手な人ね。もっと大人かと思ってた」
「思い出の中のオレを美化してただけだろぉ。オレだってもっと美人だったと思ったぞ」
「歳をとったんです、歳を」
「まぁいいから早く部屋にいれろ、冷える」


脇に腕を入れられ、ひょいと数段階段を飛び越えた。思い出したように唇にキスをした。


「強請ればもっとしてやるぜぇ」
「...じゃあ、名前、教えて」
「あ?前に教えてやらなかったかぁ?」
「忘れた。だから、教えて」


耳元で君が囁いた。
忘れまいと誓ったわけじゃなかった。気にしないふりをしてもいつも私の中に君がいた。それだけで、それが全てだった。


「スクアーロ、久しぶり。今日ね、」
「また上司の愚痴かぁ?」


アパートの古いドアの鍵を閉める。背伸びしてキスした君の頬がまだ電気のつかない小さな部屋で、少し色づいているように見えた。



180612


prev next
back


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -