※現パロ





 春みたいな天気だった。試験の最終科目は生物だったが、あのマニアックな、受験にはさして役立ちそうにない問題をみんなが早々に投げ出す中伊作がギリギリまで粘ったので、俺たちの他に歩く生徒はほとんどいない。さあっと駅のほうにくり出して、数少ない飲食店の席を陣取りに行ってしまったのだ。残り時間を俺は伊作の背中をぼうっと見て過ごした。ひどい猫背だった。
 伊作は試験の後の開放感を全身で表現しながら(具体的には少し跳ねながら)横を歩いている。風はやわらかく、一晩寝てから目隠しされたまま連れてこられたら、季節の感覚はまるで狂ってしまうかもしれない。伊作の鞄は、朝のつめたさに騙され大げさなマフラーを巻いてきた所為で膨れに膨れていた。
 交差点の角のパン屋は雨の日におまけをつけてくれるらしい。学校の通り道にあり、いつも前を通ると香ばしい、としか言いようのない甘い香りが漂ってくる。でも俺は一回もその店に入ったことがなかった。伊作がよくクリームメロンパンやらチョココロネやら焼きそばパン(ゆで卵がのっている)やらを食べているのは見たことがあるけれど、いつでも行けるし、雨の日に行ってみるか、と前を通る度に思い続けてもう三年の秋である。
 タイミングが大事なのだ、何事も。いつでも行けるだろう、いつでもできるだろう、いつでも言えるだろう。

「僕は唇がすごくやわらかいんだよ」
 俺の部屋で勉強していたときに、伊作は思い出したように言った。個体発生は系統発生を繰り返す。個体発生は系統発生を繰り返す。個体発生は系統発生を繰り返す。俺は顔を上げて伊作を見た。伊作はこちらを見ていた。
「触ってみる?」
 いつの間に、なんで、こんな雰囲気になっているんだと思った。俺はよくわからない返事をして、そっと伊作の唇に触れた。ふに、と指の形に沈んだ肉はたしかにやわらかだった。人差し指の先にはリップクリームの油が少しついた。
「留三郎は、女の子とキスをしたことがある?」
「あー……ある、かな」
「最後にしたのはいつ」
「三ヶ月くらい前」
「僕は昨日したんだけれど」
 というかされたんだけど、と目を伏せた伊作はノートを熱心に見詰めながら言った。それくらいの熱心さがあるなら、物理の平均点は5点くらい上がるはずだ。
「善法寺くんの唇、やわらかそうだったから、つい、しちゃったんだって」
 他人事みたいな言い方で、実際その話の伊作は今ここにいる伊作ではないような気がした。寧ろ確信に近い。
「どう思う?」

 俺たちはいつからか、ときどきこんなふうに妙な空気に包まれてしまうことがある。包まれてしまう、というのはまったく俺(たち)の意図せぬところで事態が進行していくからだ。
 俺は幾度か女を連れ込んだことのある部屋で、自分の唇に触れた、男の、伊作の唇を感じながら、やわらかいだのなんだのも、生物のなんやかやもすっかり頭からすっ飛んでいた。伊作は目を閉じていた。俺は閉じなかった。それがなんだかものすごい悪行のように思えて、俺も目を閉じた。その瞬間に唇は離れた。
「お昼食べてくよね、もう2時だけど」
「誰の所為だよ、っと」
 学生服の下に着込んだセーターは失敗だった。もう一枚薄いのにするべきだった。歩くといささか暑い。伊作も手持ちのやつでは一番分厚いのを着てきていて、長めの袖が指先まで覆っていた。
「僕、冷え性なんだよね」
 細い路地を曲がりながら伊作は言った。日陰になり、ぐっと温度は下がった。ここを抜ければ駅に着く。
「指が冷たいんだよ」
 ねえ、触ってみる?
 左手で伊作の右手を掴むと、なるほどたしかに伊作の指は冷たかった。
「僕ばっかりがんばってるなあ」と伊作はからから笑って腕を振った。それにつられて俺の腕もなにやら楽しそうに揺れた。





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2011/04/02
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