けま、と読むらしい。食満留三郎。彼は僕と同い年で、専門学校を出て美容師をしている。らしい。
僕らはすぐに仲良くなった。その日のうちに敬語はなくなり、次の週にはアドレスを交換した。その時に名前を知ったのだ。けま、と声に出して言うと、留三郎でいいよ、と彼は笑った。
からりと気持ちよく晴れた日だった。洗濯日和、でも乾燥機にかけた洗濯物が僕は好きだ。ふわふわとあたたかい。
「髪の毛、そろそろ染め直したほうがいいんじゃねえ?」
留三郎はコンビニで買ってきたコーラを飲んで、あつい、と言った。半袖のTシャツを肩のところまでめくり上げている。暑がりなのだ、と思った。左の二の腕にBCGの跡がある。
「そうかな」
「今度染めてやろうか? 俺が。その辺のカラーリング剤でさ。あんまりわかんねえよ」
留三郎の部屋はコインランドリーから歩いて五分とかからない場所にあった。ブリーチは持っているということで、近くのドラッグストアでカラーリング剤を買い、彼は2リットルのコーラとミントガムを買った。
「もっと散らかってると思った」
「俺をなんだと思ってたんだよ」
よく笑う人だなあと思う。
室内は禁煙と決めているらしく、あまりにおいはしなかった。一番最初に付き合った彼女が、年上で、煙草を吸う人だったけれど、部屋ににおいが染み付いていたのを思い出す。
「留三郎は染めないの?」僕は頭を預けながら聞いた。
「染めない」と、留三郎はきっぱりと言った。意思を持った言い方だったので、僕は何故染めないのか聞くに聞かれず、大人しく口を閉じた。たしかに、彼はきれいな黒い髪であるし、僕みたいに傷んでしまうのはもったいない。
彼は手馴れた手つきでひとつひとつこなしていった。後頭部のあたりを触られる度に僕はびくりとし、その度に彼は笑った。本当によく笑う人だ。つられて僕も笑った。
雨が降り出しそうな空だった。今日はとても涼しい。髪を乾かしてもらう間、僕は部屋を見回す(視界に入る範囲で)。よく片付いていると言ってよかった。ベッドの上には何も積んでないし、プラスチック製の衣装ケースからはみ出ている服もない。カーテンはやわらかな黄色で、部屋全体としては黒のものが多い。壁にかかった大きな時計は三時五分を指したまま止まっていた。止まったのは、午前だろうか午後だろうか。
南向きの窓は日当たり良好。ベランダもきちんとある。その隅には洗濯機が置いてあった。
「なんでコインランドリーになんて通ってたの?」僕は聞いた。ほとんど独り言みたいな声で、聞こえなくてもいいと思った。
「あんたがいつもいたから」
「へ?」
ヘアドライヤーの音にかき消された、ような言葉はしっかりと聞こえていたけれど、聞こえなかった振りをした。
すっかり染まった髪は明るく、留三郎はワックスで(プロの手つきだった)きれいに整えてみせた。大きな鏡の前で、耳の横で動く手はとてもきれい。形がきれいなのだ。職業柄、指先が少し焦げたように黒くなってしまっているのがもったいない。
完成、と言った彼の手を取ると、わずかに力を込められたのでぐっと顔を寄せた。それはほとんど自分でもよくわからない衝動だったけれど、たしかに何かが自分を突き動かした。抑え切れないくらいには。目を閉じて、唇が触れた。僕からしたのか、彼からされたのかはわからなかったしどうでもいいことだった。
「嫌だった?」
僕は聞いて、返事の代わりに今度は彼からキスをした。ゆるく舌を絡ませて、さっき出されたコーラのにおい、なんだ、手慣れている。
「メシ、食ってくだろ」
こうして僕らの奇妙な関係は始まった。
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