――――浮上する。
 その感覚が正しい。いつだって彼女の意識は水底にある。
 今までも。これからも。
 薄氷に覆われた下、どこまでも深く誘う死の音色。
 ……生と死は表裏一体だと誰かが言った。
 なればこそ、生無くして死は無く、死無くして生は無いのだと。
 しかし、果たして本当にそうだろうか?
 死を孕みて生を奏でる湖の中、彼女は時に惑う。
 ならば。
 死を忌避して選んだ今は、全体、何だと言うのだろうか。
 あの時死を選んでいれば彼女は生きていられたのにと、一体、誰が言えるのだろうか。

 *

 ――――冬の空には、光のカーテンがかかるという。
 あれから一夜明けた早朝――といっても冬は常に夜だが――真白は一人雪降る城下町を走っていた。
「B−21……38番街の……」
 冬の国には、夏の間者が多くいるという。あれだけ堅固な壁で囲われ、四六時中無人飛行機が警戒しているというのに、さすが隠密行動を得手とする国だ。
 彼らに連絡を取り、一人牢に残った千鶴を救出するのが真白の役目だ。
 あの厳戒な地下牢から、どうやって脱出できたかというと、見張り役もまた人間の男であった、と言う他無い。真白は言われて耳と目を塞いでいたものの、何事が起こったのかは大体想像がついた。が、深く考えるのはやめておいた。初心故の本能というべきか。
 今あの地下牢で何が行なわれているかなど、考えてはいけない。
 切るように冷たい厳風が邪念を消してくれないものかと願いつつ、真白は雪に手間取りながらも教えられた住所を探した。
 こうして外に出てみると、冬の国がどれだけ厳しい土地かが文字通り身に沁みて分かる。あの地下牢が、この国では余程マシな環境だった。確か、ミハシラの力で零度以上に保っている、と逆羽が言っていた。ならば国全体の温度を調節してくれればいいのに、それはミハシラでも無理なのだろうか。
 風があるとないとでは大きく違う。痛みを覚えはしてもただそれのみに留まった寒気が、風を伴えば確実に肌を傷つけていく。耳が千切れるような痛みはやがて頭痛に成り代わっていた。
 そもそも姿格好が冬仕様ではない。下手をすれば辿り着くまでに凍え死んでしまう。人目を避けてのことではあるが、同じような建物が連なるこの町で早朝に彷徨うのは愚策だったかもしれない。
 とはいえ――いつまた冬のミハシラや守護者が牢に来るか分からない。真白が脱出したことが露見するまでに、夏の間者と接触しなければならない。この機会を逃せば、脱出は不可能となるだろう。
『彼の殻をぶち壊すしかないわ。孤独を――喪失を恐れる臆病者の殻を』
 白銀の町、雪だけが舞う静寂の世界で、千鶴の言葉が脳裏に響く。
(戦うことも、守ることも、死ぬことも君に求めてない)
 それはクレナイの言葉。
(隠れて、逃げて、自分の命を守ってほしい)
 クレナイの願い。
 いつだって彼は死を望まなかった。生を志向することを望んだ。
 それは彼の優しさか、否か。そんなことはどうでもいいのだ。
 ただ今、どうしようもなく、帰りたい。それだけでいい。
「B−25、24…………、うわっ」
 真白にとって、“雪”は初めて見、触れるものだ。雪深い地を歩く事に不慣れであることは当然である。
 ふくらはぎの中ほどまで積もった雪に足をとられ、盛大に転んだ。
 痛くはない。が、冷たい。服が濡れて余計に寒い。散々だ。どうにかこうにか起き上がって見ると、何の跡もついていない天然のカンバスに真白の形の窪みだけがあって、焦りやら恥ずかしさやらが一挙に襲ってくる。
 ともかくも、早く行かなくては。妙なところに妙な痕跡を残してしまった。気付かれる――かどうかは分からないが、早々に離れるに越した事は無い。
 不安定な足場に難儀しつつ、鼻の頭についた雪もそのままに立ち上がろうとしたとき、
「おねえちゃん、大丈夫?」
「へっ」
 目の前に、赤い毛糸に包まれた手が差し出された。親指以外を一纏めにしては物を掴みにくいのではないか、とぼんやり考えてから、慌てて顔を上げると、そこには十歳前後の男の子がいた。
 頭には毛糸の帽子とぬいぐるみのようにもこもことした可愛らしい耳当てをつけ、顎まで菱形の模様――アーガイルというのだったか――のマフラーに埋め、見たことがないほど分厚く膨らんだダウンジャケットから伸びる足には、かゆくなりそうなファーがついたブーツを履いている。
 鼻の頭を真っ赤にして、男の子はずっと真白に手を差し伸べている。
 体格差を考えると、流石に頼りきりになるわけにはいかないが、形だけでもその手を借りて立ち上がる。
「あ、あり……ありがとう」
 緊張のためか寒さのためか、舌が上手く回らない。
「どういたしまして」
 舌足らずの感謝を素っ気無く受け取りつつ、男の子は雪の付いた真白の服をぱたぱたと払ってくれる。年齢が逆転してしまったかのようだ。こんなときにどう反応したらいいか分からなくて、されるがままになっていると、ほどなくして目立った雪はあらかた落とされた。
「よし、これで大丈夫だよ」
「あ、うん、ありがとう。えっと……」
「おねえちゃん、そんなカッコで寒くないの? 死にたいの?」
「え、いや、死にたくは」
「こっち」
「えっ?」
 柔らかい毛糸の手が真白を引っ張る。手の大きさからは意想外な強い力が、否を言う時間すら取らせず、真白をすぐそこの民家へと引き入れた。
 彼は誰なのか。何故この家へと自分を招き入れるのか。自分はどうすればいいのか。しかしそれらの疑問は、敷居を跨いだ途端、あっという間に融解した。
(あ、あったかい……)
 恐らく秋の国では「寒い」の部類に入る温度だ。だが、氷点下の外界に比べればまさに別世界だった。体に纏わり付いていた雪と一緒に体が溶けていきそうな錯覚さえ覚える。
 思わずほうと息を漏らした真白に、男の子は少しだけ笑みを見せる。ドアの音か入り込んだ寒風か、安楽椅子に腰掛けて編み物をしていた婦人が戸口に目を向けて、あら、と声を上げた。
「虎太郎。その子はお友達?」
「うん」
「えっ」
 真白にはそのつもりも覚えもない。反射的に否定しようとして、慌てて口を噤む。虎太郎と呼ばれたこの子が何のつもりかは知らないが、ここは従っておいた方が賢明だ。外国人だとばれるわけにはいかない。
 いざとなれば、小さな子供と女性一人、真白でも切り抜けられる。――そうならないのが一番いい。
 婦人がよっこいしょと立ち上がると、その背は真白より少しばかり低い。椅子の手すりに掛けていた杖をついて目の前まで来ると、なんて寒そうな格好、と自分が羽織っていた毛足の長いケープを真白の肩に掛けた。
「見慣れない制服ね。別の町から来たの?」
「は、はい。そうです」
 嘘ではない。
 そう、と婦人は目を細めて笑う。その顔色は悪く、穏やかというよりも病弱さが際立つ。
 虎太郎が食卓に三人分のマグカップを用意し、二人を促した。
「いや、わたしは……」
「いいから座って。おかあさん、コート持ってくる」
「ええ、お願い。確か、紺色のダッフルコートがあったわね。もう着ないから、それと、手袋はどれでもいいわ。さ、座って」
「あの、でも、これから行かないといけない場所があるんです」
「あらあら、急ぎの用? でも辿り着く前に凍え死んでしまうわ」
 先ほど自分でも考えた最悪の想定をそうあっさりと口にされてしまうと、二の句が継げなくなる。口ごもった真白を、息子にしっかり遺伝された強引さで座らせ、婦人はホットココアを啜った。
 ――それにしても、一体何のつもりなのか。温かそうな湯気で誘惑してくる焦げ茶の水面に視線を固定し、思索を巡らせる。家の前で転倒していた見慣れない、冬のものとは思えない装いをした正体不明の女を自宅に招き入れ、あまつさえ名すら訊かないまま歓待するなど、正気の沙汰ではない。戦時中でなくても、「お人よし」と詰られて然るべき暴挙だ。
 罠か。真白が外国人と知った上で屋内に引き入れたのか。足の悪い婦人も幼い子供も油断を誘うための生餌で、別の部屋に屈強な兵が隠れているのか。
 真白がそっと黒目だけを動かして構造を把握し逃走経路を確認する、その様子を気に留めず、婦人は器用に二本の棒を動かして一目ずつ編んでいく。
「この町は、寒いでしょう」
「!」
 無意識に身を固くする。ぶれた肘がテーブルに当たってココアが波立つ。
「他の町よりも一段と寒いんですって。中央広場には行った?」
「いえ、まだ」
「大きな湖があるのだけれど、凍結してしまっているの。この町の外では、そんなことはないのに」
「湖が、凍結?」
「ええ。信じられない?」
 笑みを含んだ悪戯な問いに、真白は一瞬頷きかけて、横に振り直した。
「これだけ寒いと、ありえなくはないと思います。でも……どうしてこの町だけなんですか」
「さあ……多分、ミハシラ様に関係があるのではないかしら」
「ミハシラに?」
 脳裏に、冷厳な美貌が翻る。
 婦人は少し手を休め、困ったように眉を下げた。
「あの湖は、ミハシラ様の覚醒に呼応するように凍結してしまったの。元々、この国は寒いのだけれど、それ以降もっと寒さが厳しくなって、この国の環境に慣れている国民なのに凍死者が後を絶たないくらい。だから……」
 そこで言葉を切って、ココアを一口。
「ラグナロクに勝利すれば、きっと、もっと過ごしやすくなるはずだわ」
「! ……」
 婦人の目は、虎太郎が小走りに入っていった部屋のドアを映している。
 その瞳が見据えるのは、未来だ。虎太郎が成長し、生きていく、この国の前途だ。
 湖が凍りつき、死体が積み重なる厳寒の地。冬の現状は他国に比べようもないほど深刻だ。秋は真白自身体感したように快適そのものだし、夏にしても、あの暑さや水不足は看過できる問題ではないが、それでも人々は上手く環境に適応し、力強く生きている。
 自然が齎す死が日常に在るなどと、想像がつかない。
 虎太郎の将来を想像し、喜びに笑み、不安に眉尻を下げる婦人の横顔を見ていられなくて、真白は顔を背けた。その先には仲睦まじい家族の写真が飾られている。今よりずっと元気に笑う婦人とその腕に抱かれた赤ん坊の虎太郎、二人に寄り添うのは父親だろうか。
 家族。そう、誰にも家族があり、手放しがたい過去が、守りたい現在いまが、希求する未来がある。それはこの婦人も、千鶴も、そして真白も同じだ。
『貴方は、ラグナロクについて、どう思う?』
 氷点以上に温度の保たれた地下牢、木霊した千鶴の声が頭蓋に反響する。
 それはクレナイがアオイに向けた問いだと、千鶴は語った。運命を、未来を変えたいとクレナイが望んでいた、それにアオイは何も応えなかった。それだけ言って、千鶴は物思いに沈んだ。
 彼が変革を望む未来とは何を指すのか。それがラグナロクとどう関わるのか。真白には分からない。
 ただ、何となく。その願いは、枢密院の人間が追い求めるようなものではなく。婦人が望むささやかな生に寄り添うものだと、そんな風に思うのは、真白の贔屓目だろうか。
「おかあさん、これで合ってる?」
 ドアが開き、虎太郎が小さな両手には大きいコートを広げて見せる。婦人が鷹揚に頷き、虎太郎はコートと手袋を真白の膝に押し付けた。
「これ着て」
「え、いや、その」
「ちょうど完成したわ。はい、マフラー。首回りをしっかり暖めておくだけで、随分と違うものよ」
 突然のことに反応しかねる真白に、更に婦人が先ほどまで編んでいたマフラーを手渡す。反射的に受け取ってから、二人の顔を順繰りに見る。
 彼らの意図が――親切の理由が、分からない。
「……どうして?」
「なにが?」
 無邪気に首を傾げる虎太郎の純粋な目を直視できない。胸の内側から滲みだす優しさをそのまま形にしたような婦人の微笑みに、黒く凝って渦を巻く醜い自分が浮き彫りになる。
 知らず、喉が震えた。
「わたしは……君の友達じゃ、ないよ」
「……? なんで? おねえちゃんはおれの友達だよ」
「違う。わたしは、ホントは……!」
 敵だ。立場も現状も全てかなぐり捨てて、そう言いかけた真白の舌が、思いがけない温度に止まる。
「おれはおねえちゃんの友達じゃないかもだけど、おねえちゃんはおれの友達だよ。だって、おれが決めたんだもん」
 無垢な指が、冷えた真白の手に添えられる。
 ずっとずっと小さいはずのそれが、包み込んでくれているような錯覚さえ覚える。
 ――――四肢に纏わり付く灰色の煤が、眼球の内側に舞った。
「……っ!」
「おねえちゃん!」
 マグカップが倒れて湯気を忘れたココアが弾ける。よろけた椅子がカーペットに飛び込んで鈍い悲鳴を上げる。
 気が付くと真白は、手にあった何もかもを放り出して、白雪降る外へと飛び出していた。
 寒い。
 それでいい。
 きっと、彼らは、ただ手を差し伸べただけなのだ。厳酷な環境に生きるからこそ、その手が命を救い得ることを知っているのだ。
 呼吸するのと同じくらい当たり前に、彼らは雪に凍える見ず知らずの他人に温かさを分けただけなのだ。
 それを、疑った。優しさを、温かさを受け取る資格など無い。
 真白は彼らの敵だ。彼らを殺す者だ。もし受け取ってしまったら、今度こそ真白は何者でも無くなってしまう――否、そうではない。彼らの過去を踏み台にして未来を砕く、その覚悟が無かった。
 そして、手酷く拒絶した。傷つけた。その咄嗟の行動が何より、真白には許しがたい。
 だから。どうか。雪風よ、この体を切り裂いて欲しい。
 痛みが無ければ、手足の先から黒く変色して崩れてしまいそうなのだ。
「、うあっ」
 がむしゃらに動かしていた足が積雪に躓く。顔面から雪に突っ込み、沁み込む冷たさが漸く脳の芯の熱を下げた。
 上体を起こす。周囲を見渡して、もはやここがどこかすらも分からないことに気が付く。右も左もなく走ってきてしまった。
 立ち上がる気も起こらず、その場に座り込む。スカートがじんわりと濡れていくのが分かった。
「……何してるんだろ、わたし……」
 千鶴に地下牢を出してもらって、早く夏の間者に接触して彼女を助け出さなければならないのに。
 思いがけない温かさを、ありのままに受け取っておけばよかったのに。
 刻々と時が過ぎて行く。朝が目の前までやってきている。
 だというのに今、こんなところに力なく座り込んで、本当に、どうしようもない。
(……とにかく、立ち上がらないと)
 なけなしの使命感が、どうにか膝に力を込める。深く沈みこむ雪に支える手をついた時、不意に目の前に白魚のようなしなやかな手が差し出された。既視感を覚えつつ見上げるとそこには、
「……!」
「えっと……あの、大丈夫?」
 丁寧に切り揃えられた絹のような髪と、長い睫毛に縁取られた大きな瞳、冬のこの気候にはまるでそぐわない薄い衣。
 真白たち守護者を捕らえ、千鶴の契約痕を奪おうとした、冬のミハシラ――――セツだった。
 見つかってしまった。寒さが一層増して体を凍りつかせたかのように、手足を動かすことができない。喉がカラカラに渇いて、耳鳴りが頭の中を真っ白に染め上げる。
 翡翠の双眸から目を離せないまま、冷や汗だけを流していく真白に、セツは美貌に怪訝を滲ませた。
「っ!」
「こんな格好じゃあ……寒いよ。今月だけで、もう13人も凍死してるのに……」
 セツは動けないでいる真白の手を取り、温めるようにさする。それから、そうだ、と淡い喜笑を浮かべて、自身の剥き出しの腕に絡めていた、向こうが透けて見えるほど薄い絹布で、ふわりと真白を覆った。
 そんな布切れ、何の役にも立たない。そう思った真白だったが、覆われた途端に不自然なほどに寒さが掻き消えた。
「どう? 寒くない……かな」
 驚愕と戸惑いの余り、声を出せない。ひたすら頷いてみせると、セツは胸の前で手を組み合わせて、
「よかった」
 ふわっと、破顔した。
 蓮花が綻んだような、美しくも儚い笑み。人間を超越した三十三相の如き麗しさに、真白は束の間現実を忘れた。
 自失する内に手を引き立たされてから、慌てて一歩後退った。
「? どうか、した?」
「……君は……」
 一体、何故。言葉は声にならず降雪に紛れ落ちていく。
 落ちて、融け消えるまでのわずかな間に、記憶との差異につま先が引っかかった。
 容貌は同じだったが、雰囲気、態度、口調、そういったはっきりと目で見比べられないものの何もかもが違う。それほど長い時間接したわけではないが、如何にも女王然とした振る舞いは今や微塵も無く、むしろ蜜柑のような臆病ささえ感ぜられる。いわゆる、“普通”の女の子だ。
 もしや姉妹ではないかというまずありえない考えも、彼女の腕の真新しい包帯にあえなく崩れる。真白が傷つけた箇所だ。
 まさか同一人物だとは、思い難いのだが――――。
 そんな真白の懊悩など露知らず、セツは真白の手を握ったまま淡い笑みを湛えている。
「あたし、セツというの。えっと……あなたは?」
「え……あ、」
 知ってる、と言いかけたが、そういえば自分は名乗っていなかったことに思い至り、答える。するとセツは、
「綺麗な名前。この雪のよう」
 舞うような優雅な動作で、ひとひら結晶を捕まえた。熱源に触れたはずの氷片は、しかしわずかも瓦解することなく花弁のような手の平でころころ転がっている。
 それもまた、冬のミハシラたる所以か。現実味なく呆とそれを見つめる。
 セツは雪を地面に返すと、じっと真白の目を見て、
「……とても、まっすぐな目」
 羨むような、憧れるような声音で言った。
「え?」
「……ううん。ねえ、真白は、どうしてこんな時間にここにいるの? まだ朝早くて、寒いのに……」
「そ、それは」
「あ、それはあたしもだね。あたしはね、ホントはお城……ええと、家の中にいなくちゃいけなくて、でも、今日はいつもより暖かいし、この時間なら人もいないし大丈夫と思って、抜け出してきたの。その……久しぶりに表に出てきて、外の空気が吸いたくなって」
「…………いつもより、暖かい……?」
「う、うん。まあ相対的にというか……昨日より3度くらい暖かい、かな。多分……」
 3度違えば、大分体感温度は異なるだろう。だとするなら、もし昨日脱出していたとしたらとっくに凍え死んでいたかもしれない。そう思って、背筋が震えた。
「あの、そろそろ、手を離してもらってもいいかな……?」
「あ、ごめん、ごめんねっ?」
 火傷でもしたかのように勢いよく手を離し、セツは何度も謝る。
 一体どうしたというのだろう。まさに別人のよう、だ。うろうろと視線を彷徨わせ、目が合えばすぐに逸らし焦ったように髪をいじる目の前の彼女があの女王で、ミハシラだとは、とても思えない。100人に訊けば100人が別人だと答えるだろう。
(……あ、違う)
 あの地下牢で、彼女の目は、冴え冴えと星夜色に煌いていた。
 今は、深い夏の森の色だ。
 人の目の色が変化する。そんなことがあるだろうか。真白の常識では――――否、もはや常識などと言っていられないのだった。何故か真白の方が非常識と言われることさえある。
 瞳の変化と人格の変化が無関係ということはまずないだろう。確か――花晶にも人格があるとクレナイが言っていた。もしかしたら、片方は花晶の人格なのかもしれない。
 彼女も、やはり。真白に手を差し伸べるのだ。
 あの温かい家で、虎太郎は傷ついた顔をしているだろう。婦人は悲しそうに目を伏せているだろう。もっと他にできたはずだと、後悔が真白の胸を苛む。
 セツはひとしきり逡巡した後、ため息と共に肩を落とすと、振り切るようにくるりと真白に背を向けた。しかし、歩き出そうとはしない。
「……早く、ここから出た方がいいよ」
「え?」
「ここにいるべきじゃない。ここにいたら……危ない」
 それだけ言って、セツが歩き出した。
 その背は、無防備だ。
(今の彼女なら、わたしでも倒せるだろうか)
 武器は取り上げられているが、体術は身につけている。目の前の無防備なこの少女ならば、裸絞めで容易く落とせそうだ。
 ミハシラを討ち取れば。クレナイに、認めてもらえるだろうか。
 だが。たとえそうだとしても、真白には、彼女を傷つけることはできなかった。
 彼女のような、虎太郎のような者をこそ、守らなくてはならないのではないか。戦争という激しい命の循環の中で失われていく命であってはならないのではないか。
「――――」
 何故。このような少女が、ミハシラなのだろう。
 何故、殺し合わなくてはならないのだろう。
 何故、未来を奪い合わなくてはならないのだろう。
 国の繁栄だなどと――人がいなくては国なんて成り立たないのに。
「待って、セツ」
 思わず、声を上げていた。
「君は、どうして戦うの」
 立ち止まって振り向いた彼女は、瞠目して、それから酷く哀しそうな顔をした。
 雪風が、髪を揺らす。絹布が遮る寒気は、彼女には届くのだろうか。
「……あたしは」
 漸う、セツが口を開く。その唇は、微かに震えているようにも見えた。
「戦ってなんか、ない」
「え?」
「あたしは、逃げてる。ずっと、ずっと」
「逃げてる……?」
 どういう、意味だろうか。首を傾げる真白に、セツはますます眉間に悲哀を滲ませる。
「ねえ、真白。あなたは、この戦いの、ラグナロクの意味を、知っている?」
 あまつさえ、クレナイの問いと、同じようなことを口にする。
「……それぞれの国の繁栄を、求めるということかい?」
「……うん、そう。それが、常識」
 そう、呟くように、噛み締めるように頷くセツは、小さく微笑んでいた。
 その笑みの色は、どこか、諦めのようにも見えた。
 真白には、その問いの意味も、その笑みの意義も、分からない。
 彼女は何を抱え、哀しみ、逃げているのだろうか。
 ――彼女は敵だ。それなのに、知りたい、と思った。
「……真白。あなたに、ついてきてほしいところがあるの」
「え、ちょっと」
 セツは卒然真白の手を取り、歩き出す。手を引かれるまま、抵抗もできずにどこかへ連れて行かれる。まさか城へ戻ることになるのか。慌てて手を引き戻そうとするが、進行方向に城が無い事に気が付いて、ますます訳が分からなくなった。
「ねえ、えっと……セツ?」
「あなたに、見せたいものがある。あなたなら、答えをくれるかもしれない」
「え……でもわたしには、行かないといけないところがあるんだ。だから、どこかに連れてってくれるならその後で、」
 その後なんて無い。思わず言葉の先を飲み込む。するとセツは、歩みを止めないまま、肩越しに微笑んだ。
 その笑みは、“彼女”が今まで見せたものよりずっと、大人びていた。
「あなたは……とっても、数奇な運命の元にある」
「……え?」
「多分、あなたが変えてくれると思うの。あたしたちの、運命を」
 それは、まるで。果てない願いのようで。
 彼女自身、叶うはずが無いと諦めているかのような笑みを浮かべていた。
(どうして)
 どうして、彼の言葉と、重なるのだろう。
 言葉を失った真白に、セツは目元を緩ませ、そのたおやかな佇まいとは裏腹に強引に手を引いた。
 ――寒さから解放されて、漸く周囲を見回す余裕ができる。
 無彩色が基調の建物は、夏と違う意味で飾り気がない。金属をそのまま打ち付けたようなむき出しの壁で、無骨という表現が一番ふさわしいだろう。人口が多いのか、所狭しと建物が聳え立っていて、色も然ることながら高さが見る者に威圧感を与える。
 どの軒先にも大きな氷柱が下がっていて、鋭い切っ先が下を通る者を品定めしているかのようにさえ見える。真下を通らないよう手を繋がれたまま位置を調整すると、セツに不思議そうな顔をされた。
 大通りに出ると、町の外まで一直線に雪道が続いている。隔てのない冷白は想像していたよりずっと静かだ。強い感動というより、ほうと息を漏らすような感嘆を齎す。鮮やかさを排したが反転しての鮮明ゆえか、声を出す事さえ憚られる無音と厳寒のためか。
 いずれにしても、時を奪われる感覚だけがある。
「真白」
「……ああ、ごめん」
 やがて、全ての大通りが集結する中央広場に出る。
 冬の国の中心、王都たるこの城下町は、国の三分の一を占めるほど巨大だという。
 それほどの土地を要するのは、この広場のためではないだろうか。
「これは……湖?」
「あんまり大きくは無いけれど、一応、ね」
 広場だからとて、人々が中央に集えるようにはなっていない。
 そこは、対岸がかろうじてうっすら見えるほど甚大な湖があったのだ。
 普通、湖を国の真ん中に配置するだろうか。わざわざ迂回しなければならないことを考えると、住人もさぞや迷惑していることだろう。
 船でも使えればまだよかろう。その痕も見える。しかし現在は使われていない――使えないのだ。何故なら、
「……凍ってる」
「あた――ミハシラが目覚めたとき、凍っちゃったの。元々、大きな蓮があって、そのときは普通の湖で、そもそも……こんなに寒くなかったんだって」
「…………」
 あの婦人の言っていたとおりだ。
 つまりここが、秋の国で言う、蓮の聖池なのだろう。だからこそ、秋では聖池を基盤に学院を作ったように、冬は湖を中心に都を建てたのだ。
 この厳寒がミハシラの覚醒に伴ったというのは真実だった。秋には、恐らく夏でも、そのような気候変動は起こっていない。この意味するところとは何なのだろうか。考えても、真白には、冬のミハシラの力が特に強いのだろうかというようなことしか思いつかない。
 一際強く吹雪が舞い上がる。体に巻きつけた絹布が激しく波打つ。
 真白の手を握ったまま、セツは暫く凍りついた湖を眺め、じっとしていた。
 白嵐がふっと凪いだ頃、不意に彼女が口火を切った。
「今、この国は危険なの」
「え……?」
「年々、寒さが酷くなってる。水どころか機械も凍り付いて、修理が間に合わないくらい。家の中にいても凍死する人もいるの。今はまだ、酷いのはこの都だけだけど、いずれ全国に広がる。ううん、都がこれじゃ……この国は、いずれ内から瓦解する。……あたしの、せいで」
「それは……」
 ミハシラが目覚めたせいで寒さが酷化したというなら、その惨状もまた然りだろう。しかし、彼女は本能か何かに従い目覚めさせられたに過ぎないし、故意にこの状況を招いたわけでは当然ないはずだ。何より、ミハシラは世界に――国に無くてはならないもの、奨励されたものである。だから、彼女の懊悩は、第三者からしてみれば“悩んでも仕方の無いこと”だった。
 だが、だからといって、それを安易に口に出せるほど、真白は能天気でもまして口達者でもなかった。
 セツの手は細かく震えている。身体的寒さによるものではない。我知らず国民を傷つけている心の寒さだ。
 真白には――外国人、敵である真白には、何の言葉もかけられない。ただ、慰めるように励ますように、手を握ることしかできなかった。
「――だから、あたしは……ずっと、逃げてる」
 セツが先ほどの言葉を繰り返す。その声音には、苦痛が滲んでいた。
「戦いから?」
「ううん……それもそうだけど。一番は、国民から。国民皆の、期待から……軽蔑から、絶望から、全てから」
 彼女の言は、抽象的に過ぎて真白には理解できない。ただ、彼女が心の底から何かを恐れ、憂い、諦めていることを悟った。
 だからこそ、解せない。この戦に勝利すればこの惨状も解決されるというのに、何故そんなにも、哀しい顔をするのだろう。
 勝てないと思っているのか、それとも。
「……あたし…………」
 セツの声が掠れる。俯いた表情が髪に隠れて見えなくなる。
「死にたく、ない……」
「っ……」
 ――人と異なる神たる存在だなどと、一体誰が言ったのだろう。
 その心は、確かに、人のものなのに。
 こんなにも脆く、繊細なのに。
 縋るように、真白の手を握る力が強くなる。深く考えもしないまま、真白は言葉を発していた。
「逃げればいい」
「……え?」
「戦うのが嫌なら、この国から逃げればいい。ミハシラなんてやめて、どこか別の国でも、あるか分からないけど別の土地でもいい、誰も知らないところへ逃れてしまえば、」
「無理だよ」
 涙を浮かべた笑みは、哀しみを織り交ぜた声は、皮肉なまでに、美しかった。
「選ばれて、選んだ以上、逃げられない。ミハシラじゃなくなるってことは、死ぬってことなの。もう……人じゃないから」
「そんなこと、」
「人じゃないの! 死から逃れたら、それは生きてない。生きてないのに生きてるってことは、人じゃない! 人らしい生も、死も! もう、あたしたちには、残ってない……!」
 空気を切り裂く悲痛な叫びに、真白は言葉を失った。
 人の心を持ち、
 人の命を背負って、
 人としての記憶を抱いたまま、
 ……人でなくなるというのは、一体、どれほどの苦しみだというのか。
 理解など、到底、できるはずもない。
 脳裏で、燃え立つ炎が翻った。
「……ごめん、急に怒鳴って」
「ううん……その、」
 俯くセツに、謝ろうとしたときだった。
「セツ様っ!」
 男の声が飛ぶ。王城の方角から、一人の青年――逆羽が血相を変え、雪を巻き上げて走ってくる。セツはその姿を認め、真白を自分の小さな背に隠した。
 逆羽は目尻を吊り上げ険を滲ませ、真白をギッと睨んだあと、セツを責め立てた。
「セツ様、城を出られませぬようお願いしたはずです! しかも、よりによってその捕虜と……まさか、セツ様が逃がされたのですか!」
「――そうだよ」
 違う、思わず言いかけた真白を、セツの澄み切った声が制した。
「だってこの子、守護者じゃない。契約線が無いんだよ。あそこに入れていても仕方ないじゃない」
「ならば処断するまでです。わざわざ生かして逃がすことはない。害にしかなりません」
「そんなこと……っ!」ぐっと唇を噛み、俯く。「……そうかもしれない。でもね、考えてみて。契約してない、戦闘力にも乏しい女の子を、秋のミハシラは必死に助けようとしてた。それは、彼にとって戦い以上の特別な価値があるからじゃないの? もしそんな彼女を殺せば……それこそ、どうなるか」
「激情で我を失ったものは獣と変わりません。我らの敵ではない。むしろ好都合と言えるでしょう。迷い込んだところを完膚なきまでに叩きのめせばいい」
「火は、怖いよ」
 そう。夏との戦いにおいて、秋がミハシラの力によって戦闘機の駆動力を増幅したように、こと機械での戦闘で優位に立つのは、炎を司る者だ。風を弾く金属皮も、超高温の熱には熔けてしまう。だからこそ冬はこれまで積極的に攻撃を仕掛けることなく、国力を蓄え、先に夏を叩こうと狙っていたのだ。
 その性質上、秋が存分に力を発揮するには相応のモーションが要る。万物を切り裂く力でもあるまいに、熱で溶かすせよ時間が掛かる。突くとすればその隙で、守護者たちを攫ったときは上手くいった。しかし、未だ相手の実力は未知数、殊に秋のミハシラは、器自身かなりの実力者で、神力に頼りきった戦い方ではない。敵対するには全く以て油断できない相手なのだ。
 果たしてそれはセツの本心なのか口からでまかせなのか、いずれにせよ逆羽はそれを重く受け止めたらしく、言葉に詰まる。しかし、論破できたと表情を明るくしたセツの希望を打ち砕くようにすぐ、ならば、と低い声を出した。
「それこそ牢に繋いでおけばいいでしょう」
「それじゃ、あっちからしたら殺したも同じだよ! 帰してあげるのが一番、」
「あげる? セツ様、貴方のそれは情からの言葉ではないと言い切れますか? 王は、そのように甘い考えは持たれない。お忘れか? 此度の一件、全て王命なのですよ」
「……っ」
 ――今の内に、逃げるべきだろう。二人のやりとりに圧倒されていた真白は、ゆっくりと数歩後退る。早く指定された場所へ行き、千鶴を助けなければ、ならない。
 このままここにいれば、また牢に入ることになるだろう。そうなれば二度と助けは来ない。
(特別な価値)
 違う。クレナイは、誰かが死ぬのが嫌なだけ。
 助けは来ない、ならば、自分で自分を助けなければ。
 充分な距離をとってから、身を翻し駆け出した。
「っ! おい、貴様!」
 即座に気が付いた逆羽が声を上げて追い、それをセツが引き止めようとしがみついた、刹那、
 ――――大気が、大地が、震えた。
 轟音と共に地面が大きく揺れ、足を取られて転ぶ。何事が起きたのかと空を仰いだ真白の視界に、炎が見えた。
 手の平を翳しても収まりきらないほど巨大な炎球が、一瞬を境に無数に分化し――セツと逆羽に降り注ぐ。
「《惑うがいいストレイ・シープ》っ!」
 セツを中心に雪風が舞い起こり、降り注ぐ炎弾が意志を持ったかのように軌道を逸らして湖面や壁面にぶつかる。巻き上がった雪や氷が煙幕となり視界を塞ぐ。清涼な白煙の向こうで、赤い光が走るのだけが肉眼で視認できた。
 刹那、幾重にも弾け連なる戟。
「《神いざなう紅炎の階ビフレスト》!」
「くっ……!」
 ――破裂する爆炎。雪霧を溶かし、様相を明らかにする。
 翻る赤。舞う黄金。
「…………ク……レナイ……」
「真白ちゃん! 無事?」
 そこにいたのは、今一番会いたくなくて、一番会いたい人だった。
 クレナイは真白に目立った外傷が無いのを見て取ると、分かりやすく目元を緩ませ、即座にセツと逆羽に向き直り朱槍を突きつけた。
「……キミが、冬のミハシラ? 名前を伺ってもいいかな」
「――――」
 セツは一歩前へ進み出、目を閉じると、
「セツだ。これなるは吾が従者、逆羽。歓迎するぞ、秋のミハシラ――クレナイ、といったかな」
 艶やかな睫毛の下に現れたのは、どこまでも深く冷たい、蒼穹だった。
「……ふうん。花晶自ら表に立つんだ。物好きなのか、それとも――」
 それ以上を口にせず、クレナイは皮肉に唇を歪めてみせる。それで充分気分を害したらしく、セツが片眉を跳ね上げた。
「――!」
 音もなく逆羽が動き、クレナイに大剣を叩き込む。クレナイはそれを涼しい顔でいなし、遠方へ投げ飛ばすと同時にセツに肉薄した。
 その刹那、けたたましいサイレンが響き渡る。
 町が――国が、乱入者に気が付いたのだ。
 夥しい数の機械兵器が上空を飛び交い、クレナイに向かって砲弾を発射した。
「――クレナイっ!」
「ッ」
 瞬時に展開された炎膜がそれらを中途で爆破させていく。しかし絶え間なく無数の銃口から降り注ぐ弾丸全てに対応するには、逆羽とセツのコンビネーションは抜群すぎた。
 率直に言ってしまえば、逆羽などクレナイの敵ではない。だがセツの秒にも満たない術式展開の隙を埋め、クレナイの退路を塞ぐには充分だった。
 その中で“拮抗”せしめているのは紛れもなくクレナイ自身の実力であり、彼もまた戦神の一人であることを嫌でも実感させられる。
 炎と氷、そして剣が舞う。何人も立ち入ること罷りならぬその場へ割って入ったのもまた、神であった。
「《奈落撃つ風タルタロス・シュート》っ!」
 全ての弾丸を切り裂き、嵐が落ちてきた。
 過たず三人の元へと落ちたそれは、すんでで回避したセツと逆羽に風刃を叩きつける。大剣で防ぎ叩き落としていく逆羽を四つの輝石で翻弄しつつ、嵐は――アオイはセツと相対した。
 今度は風と氷、二つの射撃戦が地上に程近い空中で繰り広げられる。
「秋っ! お前は上を潰せ!」
「――っ真白ちゃんは、隠れ家へ!」
 平手打ちのように鋭く激しいアオイの声にクレナイが反応し、真白へ指示を飛ばして空へ昇っていく。自らが操る炎弾と同じ、或いはそれ以上の速さで滑空し、冬の兵器を片っ端から落としていった。
 ――夏と秋の共同戦線。誰もが想像さえしなかった現実が、ただ守護者を――真白を助けるためだけに目の前に顕現している。
 他に秋の軍はない。ここにいるのは、夏と秋のミハシラと守護者、それ以外は全て冬の人間だ。
 何たる愚行、とんでもない愚策。誰より強く、誰より守るべきミハシラが、たかが守護者一人のために単身で敵地に乗り込むなどと、一体誰が考えただろう。
 何故。何故、そんなことを。
「馬鹿ね」
「! 千鶴、さん」
 自力で脱出したのだろうか、いつの間にか千鶴が傍に立っていた。地面に座りこんでいた真白を引き起こし、綺麗な笑みを浮かべてみせた。
「貴方のことが大事だからに決まってるでしょ」
 その言葉は、熟れた果実のように、弾けて全身に染み渡っていく。
(自らの生命・身体を維持することにのみ)
 ――初めからそう。守ろうと、してくれていた。
 真白が想像していたよりずっと、強く。
 ならば、
「……守られるだけじゃ、嫌だ」
 その強く、しかし静かな呟きに、千鶴が、その意気よ、と肩を叩いた。
 千鶴はそのまま、自らの主の元へと駆け、逆羽と刃を交える。枷から一つ解放されたアオイが、それまで遠距離から飛ばすだけだった風刃を腕に纏い、風速を超えてセツに飛び掛った。
 対するセツは僅かに目元に険を滲ませたものの、焦ることなく、地面から自在に突き出させた氷の柱で相手の動きを翻弄し限定しつつ、目視すら叶わない速度で虚空から取り出した弓に番えた矢の雨を放つ。それを避け、或いは逸らし、アオイはセツに追いすがる。
 氷の森で縦横無尽に飛び回る鬼ごっこ。こと速さという点で見ればアオイの圧勝ではあったが、セツの非凡な才が紡ぐ通力によってその差は埋められていた。
 拮抗。どちらも決定打を出さないまま、氷樹ばかりが増えていく。
「そなたが新しい夏のミハシラか。なるほど――確かに頑是無い。上手く力を操れていないようだな」
「……だからどうした。内にこもって震えている臆病なミハシラ殿は、さぞ力を持て余しているのだろうな」
「そなたがこうして内に入り込むのを待っていたまでよ。もっとも、火鼠まで連れてきてくれたようで、頭の痛いことだが」
「火は恐ろしいか」
「ふ――――まあ、少なくともそなたよりは、な」
「……なるほど。だが」
 ふっとアオイの姿がセツの視界から掻き消える。通力の軌跡を辿って空を見上げたセツは、しかしもはや遅かった。
「《奈落撃つ風タルタロス・シュート》!」
 凝縮された暴嵐が、真下に墜ちて爆発する――――!
 墜落の負荷を力にして叩き込んだ拳は地に穴を穿ち、全方位に弾け飛んだ爆風が氷柱をことごとく粉砕していく。
「オレを侮られては困る」
 嵐が凪の兆候を見せ始めた頃、氷雪が薄れ、不明瞭だった冬のミハシラの姿を晒した。
「……吾や秋のとは違う、戦闘に組み込む事を前提とした運用か。全く……どいつもこいつも相性の悪い」
 地に立つセツの体には傷一つない。ただ彼女が不機嫌そうに吐き捨てた、その言葉を引き出せたのは成果だったと言えるだろう。
「まあよい。すべきことは変わらぬ」
「……!」
 セツが弓を眼前に構える。アオイが僅かに腰を落とし、風刃の切っ先を敵に向ける。
 一触即発。火薬の匂いが充満する空気の中、密やかに口を開いたのはセツだった。
「一つ問おう。そなた、この歪んだ戦の中で、何がために戦う」
「……………………」
 応えはない。表情も見えない。
「…………ただ」
 破られることはないと錯覚するほどの、長い沈黙の後だった。
「守るべきもののために」
「――なるほど。そなた、知らぬのな」
 僅かに瞠目したセツは、憐憫の彩を持った声で言った。
「哀れよの」
 しかし。その唇は。
 たとえようもないほどに、笑みに歪んでいた。
「――――ッ」
 言霊が、発せられる。その数瞬にも満たない直前、悪寒がアオイの全身を這い上がった。
 ニゲロ。他でもない本能が発した声が、人間の反射速度を超えた動きを四肢に要求する。
 真実人の域を脱したアオイは、理解するより早く地を蹴り、上空数十メートルへ遁れた。
「――――《凍てつくがいいジュデッカ》」
 呪が、弾けた。
 それまでアオイがいた地点を中心に、氷が広がっていく。――より正確に言うならば、凍っていく。目にも止まらぬ速さでその場にある全てが氷へと変じていった。
 離れたところで刃を交えていた逆羽と千鶴は、逸早く逆羽が上空――建物の屋上へ離脱し、後を追うように千鶴が街灯を駆け上って難を逃れる。
 後に残されたのは、拙い体術で敵兵を倒し、ナイフと散弾銃を奪い取っていた真白だけだった。
「――!」
「え……うわあっ!」
 迫りくる氷上に自失した真白を、すんでのところでアオイの風が掬い上げる。取り落とした散弾銃が地面に触れた刹那、音を立てることさえなく一瞬にして凍りつく。そのまま真白は上空へ吹き上げられ、逆羽たちとは別の家屋の屋根に落ちた。
 地に倒れていた兵士も、街灯も、ベンチも何もかも、半径20メートルにあるもの全てが氷結する。それらは一つの詞を引き金として、消失した。
「――――《断罪せよソドム》」
 遍く、清白に染まる。
 幻想的な変容に魅惑された視界は、刹那にして絶望に侵される。
 綻んだ桜が散るより冷徹に、色づいた楓が崩れるより残酷に、風に浚われ霧散していく。其処にいた人も、武器も、凍りついた全てが文字通り消滅したのだ。
「これ、は……」
「……とんでもないわね」
 焦燥を滲ませながら千鶴が毒づく。舞い散る白片を捕まえてみると、存外粗い白色透明の粒子で、砂のようにも見えた。
「――塩、か」
 上空に浮遊し淡白に呟くアオイに、セツが挑戦的な笑みを引いた。
「神話の再現だ、どこの誰が作ったのかは知らぬがな――――吾に爪先でも触れてみよ、瞬きの間に消してくれようぞ」
「……随分と大技らしい。使わせる間もなく叩くまでだ。……忘れていないか? お前の敵は、オレだけじゃない」
 包帯の下の目が上へ向く。ほぼ全ての戦闘機を撃墜したクレナイが、静かに通力を高めている。彼も先の惨劇を見ていたのだろう、セツに対して最大限の警戒を払っているのが分かる。
 セツもまた彼を見、それでも尚余裕だというかのように、顔に下がる髪を後ろに掻き流した。
「フ――まさかそなたらが手を組むとは思わなんだぞ。まして、夏の、そなたならともかく、秋のがあの娘を助けに飛び込んでくるとはな」
「オレを孤立させる罠だというのは分かっている。しかし、何故あの娘をも攫った? 全く論理的ではないな」
「ハ、夏のに論理を説かれるとはな! まあ、そうだな、久々に気分がいいから特別に教えてやろう。あの女だけでは餌になりそうもないと思ったのだよ。あれは契約線が欲しかっただけだ」
「契約線……?」
 アオイとクレナイの顔が俄に険しくなる。それにますます機嫌をよくしたのか、セツは饒舌に続けた。
「彼女――あの小鼠こそが餌なのだよ」
「なに……?」
「往々にして引きこもり・・・・・は隠された情報に強いものだ。秋のが網に掛かったのは誤算だったが、そなたを釣るに充分な餌だと先に証明された。何せ、あの娘は――――」
「――っ!」
 弾丸を上回る速度で飛来した輝石が言を遮る。哄笑だけをその場に残し空へ逃れたセツに、アオイが風の矢を巧みに利用した遠近両用の連撃を叩き込む。セツもまた器用に隙を擦り抜け、変幻自在の氷膜でアオイの肌を切り裂いていく。
 一見計算され尽くしたようなアオイの動きは、しかし、焦りによって突き動かされたものであるがゆえに、戦闘者ならばこそ見出せる空白が目立った。
「アオイくん!」
 クレナイからいくつもの炎弾が発射され、二人の元へ飛来する。アオイをくぐり抜けセツに襲い掛かったそれは、同時にアオイの動きをも制限した。
 彼の動作が鈍くなったのを見逃さず、即座に飛んできたクレナイがアオイの腕を押さえた。
「落ち着いて。今回は彼女を倒すのが目的じゃない、優勢の内に逃げないと、」
「っうるさい! 気安く触るなこのニワトリ頭!」
「ニ……、ニワト……っ?」
 思いもよらない罵倒にクレナイが右肩を落とし、その手から力が抜ける。アオイは高い音を立ててクレナイの手を打ち払い、セツに特攻した。
 呆然と見送ってしまったクレナイが、我に返るや否や舌を打って歯噛みする。
「……っの馬鹿……!」
 いつになく憔悴した口調で吐き捨て――振り向きもしないまま後方へ炎弾を発射した。
「うわっ!」
 それらは真白のすぐそばを通り抜け、今まさに襲い掛からんとしていた兵士たちをなぎ倒した。
 肉の焼ける匂いがする。思わず鼻を押さえた真白を、クレナイが前触れなく腕一本で抱き上げ、空へ舞った。
「――っ!」
「わ、ちょっと、暴れないでよ! 落ちたいの?」
「だ、だって、これ、高い……!」
 瞬く間に地上が遠ざかっていく。訓練でだって、こんな高さに来たことはない。まして、それに適した装備も何もなく、中空で体を支えるのはクレナイの腕だけとは、いくら彼を信用しているとはいえ体感として頼りないことこの上なかった。
 足の下に空があるというのは、こんなにも不安になるものか。
 無我夢中でしがみつく。真白の腰に回った手の力が強くなる。
 間近から見上げた彼の横顔は、ささくれた焦燥で鋭くなっていた。
「今の内に脱出する。目、瞑っといた方がいいよ」
「で、でも、千鶴さんが」
「千鶴さん・・? 雪の下で随分と仲良くなったんだね」
 含みのある言葉に反論しようとして、やめた。
「あの石頭、若いせいもあるけど、こっちの話を全く聞かないし、返事もしないし、無鉄砲だし、付き合ってられない。命がいくつあっても足りないよ。千鶴ちゃんには悪いけど、捨てさせてもらう」
「そんな、捨てるって」
「彼もミハシラだ。そう簡単にはやられないよ――――多分ね」
 厳しく言い捨てるクレナイは、しかし反して、痛みをこらえるような表情をしていた。
 氷雪を伴う硬い風を切る。鼓膜の内までも凍りつきそうな音が耳元で鳴くのに、全く寒気を体感しないことに疑問を覚え、セツに借りた絹布をそのまま持ってきてしまったことに気が付いた。
「……真白ちゃん」
 不意に、クレナイが名を呼んだ。
「キミは、彼を――――」
「え?」
「…………いや、なんでも、ない」
 結局言い終わらぬ内に、クレナイ自身が言葉を切る。
 無言。一層際立たせる風の音が、痛い。
「……クレナイは、」
「!」
 突然、ガクリ、と高度が落ちる。緩やかな半円を描いて高度を戻す、その過程にクレナイは目が回りそうなほどの素早い小円を加え、やがて空中に静止した。
 その左肩――ちょうど真白の頭を隠していた肩甲骨に裂傷が出来、鮮紅が吹雪に散る。
「く、クレナイ、血が……!」
「――――これはまた、厄介な」
 冗談めかした物言いで毒づく。
 炎を宿す瞳が射抜くのは――――山かと見紛う、巨大な機械人形だった。
 一体今までその巨体をどこに隠していたのか。市街地に忽然と出現した、その表現が正しい。
 夏で見たものと同じ、黒い機体。目は無いが、その意識がこちらを鋭く睨んでいるのが分かる。
「テュポン……!」
「テュポン?」
「冬が極秘裏に作ってた、いわゆる奥の手ってやつかな。その気になったら、多分、国一つは簡単に滅ぼせる。100年前に試作機があったらしくて、書庫に記録が残ってたよ」
 不動。その二文字が似つかわしい。しかしその脅威は、真白がその身を以て知っている。
 先刻クレナイの肩を貫いたのは、テュポンが装備するごく小さい機関銃だろう。その手に装着されたミサイルだったら、跡形もなく塵となっていたに違いない。
 逃げるか。否――逃げられまい。
 圧倒するなら、速度しかない。防ぐに秋は最適だ。しかし、こちらの攻撃が通用しなければ――――
「大丈夫」
 見る者を安心させる、この場には不似合いなほど温かな笑みを浮かべて、クレナイは言った。
 ――その笑みには、見覚えがある。
「キミはボクが守るから」
「――――!」
 ふわりと近くの家屋の屋上に真白を下ろし、腰につけていたポーチを託す。
「ちゃんと迎えに来るから、待ってて」
「……っ! 待って! 君は、どうしてそんなに守ろうとするの。わたしは、君の守護どころか……足を引っ張ってるのに」
 クレナイはその言葉に目を丸くして、表情を隠すように俯いた。
「それは、ボクの台詞だよ」
「え……」
「キミは、何度突き放しても離れない。どうして? どうしてそんなに、ボクの役に立とうとするの?」
「それは」
「そうやって、敵に捕まって、怖い思いをしたのに」
 ――彼は、責めなかった。
 真白が捕まったその責を、本人ではなく、自身に負わせた。あまつさえ、怖かったろうと気遣いさえした。
 なんて――――なんて、優しすぎる。
「……友達」
「え?」
「友達に、なりたいから」
 瞬刻。クレナイの目が、いっぱいに見開かれる。
 それから、今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「馬鹿だなあ。友達って、そんなに一意的じゃないよ」
「友達のいないクレナイには分からないよ」
「あ、はは……うん、そっか。そうだね、そのとおりだ」
 何度も頷いて笑うクレナイの目は、何故か、揺れていた。
 そうして、差し出される右手。
「――よろしくね、ボクの友達」
「あ……」
 ――思いは、返るものだ。
(……そのとおりだ、千鶴さん)
 真白は、ずっしりと重たいポーチを片手に抱いて、しっかりと握り返した。
 クレナイは空をジグザグに駆け、間断なく炎弾を降らせつつ槍でテュポンの関節を突く。テュポンはその巨腕で巧みに防ぎ、緩慢な動きに反比例して精度の高い射撃で反撃する。
 それだけではない。一度は一掃したはずの軍用機たちが何処からか集まり、その援護をし始めた。
 さすがは機械大国、無尽蔵に機械兵器が湧き出てくる。
「…………待ってるだけじゃ、ダメなんだ」
 また、足を引っ張るかもしれない。
 今度こそ見限られるかもしれない。
 だが、
「友達を助けるのは、当たり前だ」
 ポーチには、簡易保存食料と、一丁の拳銃、弾丸のケースが数箱入っていた。
 グリップを握る。妙にしっくりと手に馴染んだ。
 一つ頭を振り、絹布が外れないようマフラーのように巻きつけ、真白は駆け出した。




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