翌日、一二〇〇。
 遂に、夏との戦いの火蓋が切って落とされた。
 境空で睨み合っていた両軍が、一瞬を挟んで火を噴きだす。そこここで爆発が起こり、緊迫した大気を震わせた。
 ――――戦力差は歴然。元より夏に比べれば機械技術に長けた国、戦闘機の数や戦略からして一線を画している。とはいえ、型にはまっていない分、夏の奇想天外なドッグファイトが秋側を惑わせた。
 それでも、この空戦においては全員が勝利を確信している。それは――――、
「……っなんだ、敵の砲弾は! 威力が桁違いだぞ!」
「それだけじゃない、スピードも全然……っうわあああ!」
 秋のミハシラは、炎を司る。遍く爆炎は、秋の国の味方だった。
 神の加護を受けた兵たちが、機械を繰って善戦する。確実に敵の数を減らしていくその下で――――三機の航空機が、音もなく滑空していた。
 一機の戦闘機を先頭に、その左右後方を追従する輸送機が二機。輸送機は言わずもがな、先陣を切る戦闘機「紅蓮」でさえ、基本的には実戦向きではない。精々護衛、囮が関の山というところだ。だがそんな機体でさえ、クレナイの力を以てすれば、夏の戦闘機一機くらいは軽く撃墜せしめる。
 だが彼らの任務は、敵空軍の壊滅ではない。敵の目をかいくぐり、懐に忍び込むことである。
 真白とクレナイは、左の輸送機に乗っていた。
「――っ!」
 すぐそばを、燃え上がり黒くなった機体が墜落していく。思わず身をすくめる真白の隣で、クレナイが小さく何事かを呟いた。
「え?」
「いや、今の、夏のだなあって」
「……そうだったのか」
 だったら、ということはない。確かに相手は憎むべき敵、仇、だけど――。
「だから言ったのに」
「……え?」
 ふるっとクレナイはこちらを見もせず首を振る。だけど、言葉も思いも、真白の耳に届いていた。
 ――昨日、クレナイは真白に命令した。「自分の命だけを守れ」、と。そして、真白がその命令を全うするための努力を惜しまなかった。
 真白が今回の計画――クレナイが夏の国に忍び込み、ミハシラを討つという作戦に同行すると正式に決定してからも、真白が秋に残るという選択肢を提案し続けた。軍や教師たちが何を言っても、ミハシラには押し通せるだけの”力”がある。実際、「戦争」を知る者、「ミハシラ」を知る者としての説得力が篭った言葉で、決定が覆りつつあった。だが、それすら無に帰したのは、他ならぬ真白自身だった。
 いつまでもお飾りではいられない。
 足手まといだと切り捨てられたくない。
 自分の身くらい自分の力だけで「守り」通せると証明したい。
 ――たとえ死んだとしても、何か一つ、彼の役に立ちたい。
 そんな、真白には無いと思っていたプライドにも似た思いが、真白の死に対する恐怖を凌駕したのである。
 とはいえ――いざ目前にすると、どうにも足が震えてくる。
 隣の彼はといえば、涼しい顔で窓の外を眺めていた。
「キミは……恐く、ないの?」
 思わず、疑問が口をついて出ていた。クレナイはすげなく、ない、と答える。
「死ぬのも――――殺すのも?」
「それを恐がってたら、ミハシラなんか務まらないでしょ」
「ミハシラとしてじゃなくて、クレナイ自身は、どうなんだい」
「――――」
 それまで他所を向いていた蒼い瞳が、不意に真白を映す。その深青の海に沈んだかのように、呼吸が止まった。
 ――破顔、一笑。ふわっと浮かべられた笑みは、
「わかんないや」
 どこか、
「!」
「うあっ!」
 出し抜けに機体が大きく揺れ、座席から飛び出しそうになるのをシートベルトが食い止める。慌てて前方、操縦席を窺うと、他の二機から通信がひっきりなしに入っていて、操縦士も何事かを叫ぶように応答していた。
 一体何が起こったのか。まさか敵軍に見つかったのか。不安を胸の前で握り締める真白に構わず、クレナイが冷静に問うた。
「なに?」
「い、いや、それが……、ば、化け物が」
「化け物?」
 要領を得ない答えに、クレナイが身を乗り出したとき――ふっと、前面ウィンドウに影が落ちる。その後すぐ、また振動が襲い掛かった。今度はもっと大きい。
 ひときわ激しく揺れた刹那、真白は信じられないものを見た。
「羽の生えた――――、ヘビ?」
 三機の間を縫い、進行を妨害するように飛び回る何か。それはてらてらと光る巨体をくねらせ、金色の双眸でこちらを見た。
「――――ニーズヘッグ!」
「ニーズ、ヘッグ?」
 古代、国々ができる前。三女神に海から追いやられ、今も中空を飛んでいるという凶獣。
 それが、今、目の前にいる。
 実在したのかという驚愕と、思いもかけない敵の出現で呆然とする真白の視線を受けてか否か、ニーズヘッグは明らかな敵意を込めて、雄たけびを上げた。
 耳をつんざき、脳髄を掻き回す不快音。ドッと汗が溢れ出し、震えが全身に回る。
「くそっ。なんでよりによってこんなときに!」
 操縦士が毒づき、何とかかわしていこうと操縦桿を繰る。しかし、その長い尻尾や大きな羽が、絶妙に進路を塞いで、立ち往生してしまう。
 このままでは時が徒に過ぎる。空戦はこちらが制するだろうが、夏の戦士がどこからか自国に侵入してしまえば、一巻の終わりだ。そうなる前に、夏の目が空戦に向いている間に、あちらの国へ潜入しなければならないのに。
 その焦りと、それから、未知への恐怖がない交ぜになって募る。空気が赤くなって喉にへばりついたみたいに呼吸が苦しくなる。
 そんな中で、卒然、クレナイがハッチを開放した。空気が急速に循環し、体ごと外へ持っていかれそうになる。
「ク、クレナイ! 飛行中にハッチを開けるなんて、」
「ああ、ごめん! すぐ閉めるから!」
 風の音で叫ばざるを得ない。怒鳴り返すや否や、クレナイは外へ飛び出していった。
「え――ちょ、ちょっとクレナイ!」
 追いかけた目の前でハッチが閉まる。それを開けようとして、操縦士の悲鳴が真白を正気に戻した。
 見れば、機体の前面、アクリルガラスを挟んだ向こう側に、クレナイの背がある。前頭部に立っているのだ。
 クレナイは肩越しにこちらへウインクを寄越すと、虚空から生じた炎を槍に変え、ニーズヘッグに飛び掛かった。
 目の前で炎が舞う、散る。音速を超えた連撃を受け、ニーズヘッグがよろめく。しかしその巨体は退くことなく、両者は拮抗しているように見えた。
 ――初めて見るミハシラとしての戦いに、踊る炎に、息も忘れ、見入っていた。
 これが神。人を超越したもの。
 非現実が、目の前で現実に成り代わっている。
 ニーズへッグの爪を避け、一瞬で距離を取ったクレナイが、無数の炎弾を一斉掃射する。間断ない攻めにじりじりと押され、遂に羽の付け根に一発を食らってぐらついたニーズヘッグに、すかさず叫んだ。
「《螺旋の軸成す烈火の城メングラッド》!」
 詞をきっかけに、ニーズヘッグを火焔の衣が包む。暴力的な熱に暴れる巨体が赤炎に触れてじりじりと焼けていく。
 一瞬、クレナイの目がこちらを見た。
「――、今の内に!」
「、あ、ああ!」
 即座に意図を理解した真白が操縦士の背を押す。三機はもだえるニーズヘッグの横を一気にすり抜けた。あっという間に引き離し、炎の繭が見えなくなる。
「……クレナイは……」
 どうしたのだろう。窓を覗き込む真白の目の前を、不意に赤が横切った。
「え……ええっ」
 ガラスを隔てた向こう側で、先ほどまで化け物と戦っていた張本人が、眩い笑顔で手を振っている。何かを言っているようだが、聞こえなかった。
 そういえば何も思わず見ていたけれど、空中でニーズヘッグと戦ったということは、クレナイは空を飛べるということだ。こうして並走していてもおかしくはない。
 おかしくはないが、分かっていても不気味だ。
「もう、あの化け物はいないか?」
「あ、はい。姿も見えないです」
「そうか。……時間が惜しい。速度を上げるぞ」
 空がより一層速く流れる。もう夏の領域に入ったのか、周囲は夕空を抜け、青に染まっていた。
「……」
 間に合いますように。秋の国民が徒に死ぬ事がありませんように。
 祈るような気持ちで、真白はぐっと拳を握り締めた。


 ――――夏の国、沿岸。
 事前の調査で、人気がなく、見つかりにくい場所を着陸地点に定めていた。しかし、今そこには夏の戦士が数人、空を睨むように立っている。
「あれは……」
「我が国のスパイだ」
 言うとおり、戦士たちはこちらを見咎めるどころか、より安定した場所へ誘導してくれる。
 夏の国は、万年青空で、白熱の太陽が照り輝く暑い土地だ。青々と緑が茂るが、その地面に草は少なく、砂塵が常に舞っているため国民は皆、民族衣装である防砂ケープを全身に巻いている。顔は、ほとんど鼻と目しか見えない。
 白を基調にしたそれは、正体を隠すにはもってこいと言える。
 機体から降りると、彼らは一列に並んで一斉に敬礼した。
「お待ちしておりました。第十五部隊、三田です」
「状況は」
「は。未だ夏のミハシラは国を出ていない様子。守護者も同様です」
「兵の数は」
「かなりの数……三分の二ほどが残っています。侵入は予想されていたものと思われます」
「それこそ想定の範囲内だ。構わん、決行する」
 戦闘機「紅蓮」を操っていた壮年の男が、キビキビと指示を出す。必勝の言葉を最後に、それぞれクレナイに一礼して戦地へと散っていった。
 秋から連れて来た部隊は三つ。先に侵入していた兵が先導し、撹乱した後、三部隊が一斉に襲撃する。次いで混乱を煽るようにクレナイが追撃。これが作戦だ。
 だが――、
「あ、ちょっとそこの君」
 クレナイが、変装した兵の一人を呼び止める。姿勢を正して言葉を待つ彼に、クレナイは人懐っこい笑みを見せた。
「君は、ここを見張ってて」
「は、」
「クレナイ?」
 意図が分からず見上げると、だって、と傍の機体を仰いだ。
「これ、このまま置いといたらまずいでしょ。見つかったら処分されちゃうし、そしたら君たち帰れないよ」
「……しかし」
 それはもっともだ。だがだからこそのこの隠し場所であるし、事前の作戦ではクレナイの力で巧妙に隠匿する手はずだった。
 それを抜きにしても、たった一人で守れるのだろうか。クレナイもそれは考えていたらしく、本当は二人くらい置いておきたいけど、と苦笑した。
「一応、決めたとおり結界は張っておくし、ミハシラが来ない限りはキミたちでも対処できると思うよ」
「し、しかし自分は……、ミハシラ様、『キミたち』、というのは……?」
「え? 決まってるじゃない。この子も残るんだよ」
 この子、と真白の肩に手が置かれる。一瞬意味が分からず数秒、理解した途端、ザッと血が下がった。
 ――ことごとく。彼は、遠ざけようとするのだ。真白を、戦場から。
 命が無為に失われる、無頼の墓場から。
「――っクレナイ、わたしは」
「任せたよ、真白ちゃん」
 反論さえ、許されない。
 嗚呼、ずるい。「任せ」られては、ここに留まるしかないではないか。
 ぐっと唇を噛んで俯く。その頭を軽く撫でて、クレナイは術式を残して駆けていった。
 結局、何も変わらない。どれだけ足掻いて、わがままを通したって、カードは彼の一存の下に伏せられる。
 ここまで来られただけでも御の字。役目を担うことができただけで喜びとするべき。――乾いた自慰も虚ろな音に過ぎない。
「…………」
 一緒に残ることになった青年も、本当なら戦場で一華咲かせたいだろうに、そんなことはおくびにも出さず直立不動で結界の向こうを見据えている。
 ――これが軍だ。戦争だ。それぞれがそれぞれの分を弁え役目を全うしなければ、生じたわずかな綻びから簡単に瓦解する。
 下位者は下位者の仕事を。上位者の仕事は上位者に。
 やはり、真白には守護者なんて重過ぎたのだ。分不相応だったのだ。ならば、クレナイの言うとおり、彼の温情に従って、弱者らしく隠遁していた方が――
(いやだ)
 雑念、だ。
 風が吹く。木々がざわめく。自然物の声以外何も聞こえず、何も起こらない。あの森の向こうが戦場だなどと、俄には想像しがたい。
 思索に落ちて、どれだけ経ったろう。きっと、数十分も経っていない。けれど、真白にはまるで一時間以上も過ぎたかのように感じられた。
「……守護者殿」
「、はい」
 それは隣の青年の声だった。まさか話しかけられるとは思っていなかったから、空耳かと勘違いして反応が遅れる。
 彼は、先ほど見たときから少しも視線を動かさず、言葉を紡いだ。
「自分は、第十五部隊所属、梶だ。君は……まだ学生だったな」
「は、はい。ですが、訓練は一通り受けておりますし、射撃の腕には自信があります。足を引っ張る事はありません」
「それは結構だが」
 防砂ケープに隠された梶の目が、ちらとだけ真白を映した。
「君は、なぜ守護者になったんだ」
「なぜ」
 それは、選ばれたから。拒否権など初めから無かった。
 ――いや、そうではない。彼の意図はそこにはない。
 ならば、果たして、自分の答えとは。
 数秒、漸う口を開く。
「お役に……立ちたいと、思ったから、です。クレナイ、様の」
 それは本心だった。
 ……だのに。そのはずなのに、どこか、乾いた音を立てて、地面に落ちた。
 梶は、そうか、と息をついて、
「ミハシラは、ミハシラの気配を常に感じ取っているという」
 唐突に、そんなことを言う。
「そ、そうなんですか」
「クレナイ様が向かわれた以上、敵のミハシラがここに来ることはないだろう」
「……でしょうね」
「この場所は我々が選びに選んだ場所。そこにクレナイ様の結界が加われば、この機体が見つかることはない。もっとも、見張りをつけておくことは賛成だ。しかし、見つかれば一人でも二人でも同じ事だろう」
 彼は何を言いたいのだろう。意図を汲み取れず見上げる真白に、梶は淡々と続けた。
「むしろ、この国独自の服装をしていない君がいた方が、怪しまれる」
「あ……」
 漸く、分かった。この青年は、真白の前に道を示しているのだ。
 行くか、留まるか。
 クレナイが真実機体の防衛をさせようとしたのではなく、その心は真白の身の安全を願ったのだと分かっている。その上で、なお真白の背を押しているのだ。
「わたしは……」
 足手まといになりたくない。
 自分の身くらい自分で守れると、彼の役に立つ資格があると証明したい。
 ――こんなところで、立ち止まりたくない。
「……ありがとう、ございます」
 深々と頭を下げる。梶は、小さく首を振って、また直立不動に戻った。
 貰ったのは、勇気だ。クレナイの意志に背く、勇気。
 真白はもう一度頭を下げて、駆け出した。
 結界から踏み出した刹那、木々の向こうで爆炎が立ち上った。
「……っ」
 早く。速く。疾く。
 戦場へ。クレナイの元へ。
 何かに縋るように、銀色に輝く銃をホルスターから取り出して握り締めた。
 ――軍用機の隠し場所は、彼らの言うとおりうってつけの地点だった。周囲を取り囲む森は存外に深く、日が入らないため暗い。白黒の絵画のような森は、全くと言っていいほど人の手が入っておらず、潜入していた兵たちが目印をつけておいてくれなければ忽ちに迷ってしまうだろう。
 もっとも、だからこそ夏が警戒する可能性もある。白兵戦に長けた国民であるから、ゲリラ戦を想起してもいいだろう。しかしその気配はない。
 簡単な話だ。この広大且つ混迷な森をフィールドにできるほど、秋との空戦に余裕がないのである。
 恐らく、初めからゲリラは想定していなかったに相違ない。目印が放置されていることが何よりの証拠だった。
 それほどに夏は、空戦を厳しいものと予想し、陸戦に余裕を見ているのである。
 また、ラグナロクは畢竟、ミハシラ同士の戦いだ。いくらゲリラを仕掛けようと、ミハシラには通用しないし――――何を置いても、秋のミハシラの性質を考えれば、森の中で戦うのは得策ではなかった。
 何度か隆起した木の根に足を取られつつ、森を抜けると、町があった。
 見慣れた秋のそれとはまるで様相を違えている。足下は砂土で、建物は総じて低く、四角い土の箱に穴を開けただけの簡素な造りをしている。泥を固めて造ったようにしか見えない。秋のように見栄えや装飾に一向こだわっておらず、家から家へ洗濯物が連なり、風にはためく。
 人気は、ない。家の中に閉じこもっているのだろうか。平生ならば、家々とは異なり個人個人の意匠を凝らした布を身に纏う人々が見られただろう。
 実際に地に立って初めて、あの防砂ケープがいかに実用的であったかを知る。
(暑い……)
 日光の勢いがまず違う。白くギラギラと照り輝いて、肌を容赦なく突き刺してくる。あまりにも攻撃的な熱に目がくらむほどだ。
 それだけではない。夏は風の国と言われるが、その風が、微温い。しかも細かな砂塵を巻き上げる。奥歯を噛み締めれば砂の感触がした。
 この国には、年に一度、梅雨と呼ばれる約一ヶ月間の雨期があると聞くが、今の状況からはとても想像がつかない。
 よくもまあこんなところに住めるものだ――――他国を知って自国のありがたみが身に沁みる。
 いまだ遠くはあるが、砂と共に風に乗って、戦闘音が聞こえてくる。
 早く行かなければ。
 行って――――何をする。
「……その時だ」
 状況に応じて、できることをする。見もしない内に行動を採択しても、何の役にも立つまい。まして、真白にはこれが初めての戦場なのだ。
 足音を潜めて町へ下り、吊るされた洗濯物の中から、先ほど見たばかりの衣装を抜き去り、家屋の陰で手早く身に纏う。ただの一枚布かと思いきや、要所要所を折り縫い付けてあったため、簡単に着ることができた。
 これで、傍から見ればただの夏の住人だ。
 甕に溜められた水で身なりを確認し、真白はまた戦場へ向かって駆け出した。

 *

 ――炎が、烈風に断ち切られる。
「はああっ!」
 飛散した火の粉の間を擦り抜け、夏のミハシラが風の剣――《夜切り裂く風ヘメラ・ソード》を腕に携え真正面から突進してくる。
 文字通り風となった彼を前に、しかしクレナイは小さく口の端を上げてみせただけだった。
「っ!」
 それを視認することなく、夏のミハシラは唐突に方向を上空へ変え、クレナイから離れていく。その後を無数の小さな炎弾が、際限なく増えながら竜巻のように追いかけていく。
 火は全てクレナイの支配下にある。それが小さく破散しようと、火である限りは、クレナイの意志によって集散するのだ。
 夏のミハシラは、上空へ五メートルほど上がったところで止まり、自身から嵐とも紛うほどの風圧を発する。押しつぶされた火は全て消え去り、塵となって屋根に立つクレナイに降り注いだ。
 訪れる、無音。
 空で、神が睨み合う。
 ――この表現は、厳密には正しくない。
 夏のミハシラの目を見ることは、叶わないのだ。
 彼自身が身に纏わせる風に散る銀髪の向こう、顔の上半分は包帯で覆われていて、鼻と口しか見えない。
 全体的にまだ若さを通り越し幼さを感じさせる体躯――基本的にミハシラは、身体的負荷の面から若いうちに選ばれるため、それも道理である――を、夏のものにしては布の量が少ない衣服で包んでいる。それは決して露出が多いということではなく、胸や腹、腰は黄金に輝く鎧と鎖帷子で覆われていて、戦闘民族らしい装いと言えた。
 目元の包帯以上に異様なのは、彼の周囲をゆっくりと旋回する、菱形の石だ。全長は、彼の足より少し短いくらいだろうか。あれも何かの武器乃至は装置の一種であり、彼の力によって稼動していることは明々白々ではあるものの、一体どれだけの機動力があるのか。
 本人自身はまだ若く――クレナイにしてみれば赤子に等しく幼い――戦闘技術も荒削りではあるが、迂闊に油断できない要素の一つである。 
 そんなことを、しかし特段深刻に考えることはなく事実の確認としておいて、クレナイはにこやかな笑みを上空の彼に向けてみせた。
「こんにちは」
「…………」
「挨拶もなしにいきなり襲い掛かるなんて、ちょっと乱暴じゃないかなあ。ボクだったからよかったものの、他の人なら死んでたかもよ?」
「…………」
 返ってくるのは、無音。話す気がそもそもないのか、表情の変化も窺えず、身じろぎ一つない。クレナイは小さく聞こえないように嘆息した。
「ボクはクレナイ。知ってると思うけど、秋のミハシラです。キミは? なんていうの?」
「――――……」
 わずかに、薄い唇が震えた刹那。
「……今、お話中なんだけどなあ」
 無造作に払った槍が、音も無く襲い掛かってきた大斧を、その持ち主たる女――夏の守護者ごと弾き飛ばす。尋常ではない腕力に守護者は目を瞠りつつ、空中で体勢を整え、二つ先の屋根に降り立った。
「いくらなんでも、無粋じゃない?」
「……チッ」
 妖艶な美貌を歪ませ舌を打つ。その悔悟はしかし自身の攻撃を弾かれたことに対してではない。
 元より、人間の攻撃がミハシラに通用するなどと思ってはならない。彼女は所詮陽動、その目的は、ミハシラが不意を突き得る隙を作り出すことにあった。
 しかし。クレナイの目は、片時もミハシラから外れなかった。
 二人の強者による、常人相手ならば必勝であったろう戦略は、いとも容易く崩されたのである。
「そういえば、キミの名前も訊いてなかったね。今度は教えてくれるのかな」
 濃紺の帽子の下、底知れない戦闘力の未だ一部しか見せていないクレナイは、無邪気に笑う。
 それが一層、場を緊張に包んだ。
「……」
 守護者はミハシラを一瞥し、何も語らない。主が無言を貫く以上、口を開くことはないということか。
 随分と忠義に篤い、とクレナイは内心自嘲した。
「――――……アオイ」
 その時。ミハシラが、ぽつりと呟いた。それが彼の名であると認識するまでに半秒かかる。
「アオイ。アオイくんね。そういえば昔の女優にいたなあ、そんな名前の人。綺麗な悪役顔ってたまにいるよね、キミの守護者も結構そんなタイプじゃない」
「…………」
「……今のは児戯だから聞き流してくれていいんだけど、お兄さん寂しいなあ。もしかしなくてもキミの名前ってそこから来てるのかなあなんて思ったりして。こうハンカチの端を噛んで――――、もしかして知らない?」
「…………」
「うーわー……ジェネレーションギャップ。年齢を感じるなあ。さしずめキミは梅雨初め、だものね」
「っ」
 今度の揶揄は通じたらしい、アオイと名乗ったミハシラは、包帯の上からでも分かるほど不快を走らせた。
 (やっぱり)
 幼い。顔を物理的に隠さなければ、隠してもなお、奥底を秘められないほどに。
 ――そう分かれば分かるほど、クレナイの心は暗く重くなる。
 しかし。それを表に出すほど、それに振り回されるほどに、クレナイは子どもではなかった。
「で、キミは?」
「必要が?」
「ボクにはね」
 守護者は鼻白んだものの、主に倣ってか、千鶴、と答えた。
「千鶴ちゃん。よろしくね」
「まるで少女に戻ったかのようだわ」
「あはは。ボクにとっては少女どころか赤子以前だけどね。でも、それを抜きにしてもまだまだ若いじゃない」
「ありがとう。世辞として受け取っておくわ」
「いやいや、本心さ。その若さでその強さ。いやあ、さすがは夏だよね。付け焼刃のお遊びじゃあ底が知れてるよ」
「――……戯れはその辺にしろ」
 少年から大人への過渡期、その中途で停滞した高いとも低いともつかぬ声音が大気を揺らして波立たせる。発したのはアオイだ。
 彼はその体に、風を集め始めていた。周囲を浮遊する輝石が、淡く明滅している。
「言葉は既に不要だろう」
 その言を聞いた刹那、クレナイの青の双眸に、光が翻った。
 昏く、鋭く、苛烈な光だ。
「……キミは、そう思うの? この戦いの意味を知って、国民の心を知って、尚」
「――――意味が分からない」
 吐き捨てた、それが合図だった。
 輝石が三つ、刹那に飛来する。屋根に突き刺さってから光の軌跡が走る、それよりも先に、二人のミハシラは既に数合打ち合っていた。
「――!」
「それ、便利だね。でも邪魔だな」
 目視不可能の剣戟。その中にあって、クレナイは炎弾を自在に操り輝石を撃ち落としていく。しかしそれは四つの輝石で妨害を図るアオイも同じ事だった。
 人智を超えた戦いに、介入の余地はないと踏んだのか、千鶴は距離を保ったまま地上に目を向ける。
 風の剣と炎の槍のぶつかり合いが衝撃波を生む。波は刃となり、辺りを切り裂き地面や壁を深く抉っていく。砂が舞い、礫が飛ぶ。いっそ災害だ。
 人の感覚で確認できるのは、その災害と、互いの命を削りあう音だけ。発生源に目を向けても、赤と緑が入り交じり絡み合う軌跡の螺旋しか見えなかった。
 果たして何十、百合目か、二人は一際強く打ち交わして距離をとる。
 間は三メートル。しかしミハシラにとって、その程度は瞬きもない。
 ただ、無の構えのアオイと。
 対して、笑みすら浮かべてみせるクレナイと。
 双方――まだ、本気すら見せていない。
「――――お前」
 不意にアオイが口を開いた。
「何を、悲しんでいる」
 刹那、クレナイから表情という表情全てが抜け落ちる。
 しかしそれも瞬きに消え、応えたのは彼の心から発した純粋な問いだった。
「キミは、悲しくないの」
 ――考え方の相違。思想の温度差。それ以前の淵瀬を感じる。
 彼とは、哀しいかな、相容れそうもない。
『諦念』
「……いいや」
 不意に頭蓋に響くアキの声に、首を横に振る。そうして、ひたとアオイの目がある場所を見据えた。
「アオイくん。許可無くキミの国に侵入したことは謝ろう。少しだけでいい、ボクの言葉に耳を傾けて欲しい」
「…………」
 アオイは何の反応も返さない。それを静聴の姿勢だと都合よく受け取っておくことにして、クレナイは真剣な表情で続けた。
「ボクは、キミを殺すために来たんじゃない」
「……」
「キミと話をするために来た。……率直に訊こう。キミは、この戦いを、ラグナロクを、どう思う」
 曖昧で、抽象的に過ぎる問いだ。しかし、ミハシラならば、これだけで通じる。むしろ、お互いを思っての曖昧さだと言える。
 しかし、
「…………」
 アオイは、応えなく。ただ、眉間に皺を刻んだだけだった。
 焦りが――否、苛立ちが、クレナイの腹の内を引っ掻く。無意識に槍を強く、音がするほどの力で握り締めていた。
「分からない? それとも、何とも思わないのかな」
「…………」
「……言葉は不要だと言ったね。ボクはそうは思わない。言葉は相手を知るための手段であり、自分を知るための鏡だ。後戻りできない運命を、未来さきを変える手段が、無いように見えたってどこかにあるかもしれない。それは、誰かの言葉にあるのかもしれない。ボクはそれを探してる。キミにも協力してほしいんだ」
「………………」
 沈黙が、足元を不安定にする。ふわふわと覚束ない固有感覚が脳髄を引っ掻いて、視界が端から狭窄していく。
「ただ楽譜どおりに旋律を奏でるだけなら誰でもできる、でも、アオイくん。ボクらは選ばれたけど、選びもしたはずだ。それがたとえあってないような選択肢でも、確かに選んだんだ。そこに矜持はないの?」
 それは、或いは。自分自身への、問いなのかもしれない。
 焦りが、苛立ちが、悲しみが、悔しさが、唇を乾かして舌を空転させる。
「教えてくれ、アオイくん」
 予感があった。
 これが、最後の言葉だ。
「キミは……どうして、今、此処にいる」
 それぎり、沈黙が、辺りを支配した。
 クレナイは、ただアオイだけを見据え。アオイは、ただそこに佇んでいる。彼らの間に殺意はない。敵意もない。何も無い。
 交わされる思いも、言葉さえもない。
「…………くだらない」
 数秒か、数分か。応えは、その一言だけだった。
「……そう」
 不思議と、落胆は無かった。戦うことにのみ志向するための目隠しを見たときから、既にこの結果を予想していたのかもしれない。
 分からない。何も分からなかった。彼が理解しているのか否かさえ判然としない。
 ただ、今は敵でしかないということだけは、明白だ。
 ならば。道を遮るというのなら。
 叩き伏せて――――言葉を引き出すまで。
 クレナイは目を一度閉じ、思索を全て斬り捨てた。
 静寂。徐々に深くなるそれに反比例して、辺りに烈風が渦巻き、その中に火花が交じる。
 やがて暴風、炎嵐になるそれは、彼らが通力を極限まで高めている証だ。
 次こそ、彼らはその力を遺憾なく発揮する。本物の、神と、神との闘争が始まる。
 二つの通力が、破裂寸前にまで高まったとき、
「――――、アオイ様っ!」
 千鶴の、珍しく憔悴しきった声が飛ぶ。悲痛さえ交じるそれが耳に届くより前に、二人は異変に気が付いていた。
 だが、その彼らも、収束していた力も相手の存在も忘れるほど、それに驚愕していた。
 ――――山、だ。
 否、よく見てみればそれは恣意的なフォルムを持っている。頭に腕、胴と人の形を模した金属の人形だ。
 ただ、尋常でなく、巨大だ。その場にいる者からは、それの上半身しか窺い知ることしか出来ず、その下が人間らしく足なのか、はたまた別の何かに似せているのか想像もつかない。できないほど、常識を超えている。
「機械、人形……――――っ冬か!」
 クレナイが呻くように呟いたそのとき、機械人形がゆっくりとその手を伸ばした。アオイとクレナイは即座に空中へ飛び上がり、その極大な指から逃れる。大きければ大きいほど動きが遅くなる。ことスピードに関しては、ミハシラの敵ではない。
 しかし、遅いといっても、それはほぼ錯覚に等しいものだ。その速さが異常ではないという前提付きで、大きいということは、視界に入る時間が長いということ。すなわち、実際の速度がどうあれ、長く視覚に認められればそれを遅いと感じる。
 結局は変わらないと思うだろう。目に映る時間が長いのであれば避けようもある、対策の立てようもある。ここでもう一つ、しかし、だ。
 「大きい」ということを侮ってはいけない。小さいものの常識で推し量ってはいけないのだ。
 人間が十歩で進める距離を、あの人形は、僅か一秒もなく詰められる。
 それこそは、「大きい」所以。
 何より。地を行く人間にとって、その甚大な掌は、壁も同然だった。
「――、くっ……この!」
「千鶴!」
 機械人形は、ミハシラには目もくれず、千鶴を狙った。
 あまりにも大きな掌に捕らえられ、千鶴は大斧で抵抗するものの、揺るぎもしない。アオイの風刃も、堅牢な金属皮に弾かれる。
 機械人形は、ミハシラや町を攻撃することなく、千鶴を片手に捕まえたまま静止する。様子を窺っているようにも、次の行動を考えあぐねているようにも思えた。
 無数の風刃を繰り出すアオイの後ろで、クレナイは帽子のつばの下から機械人形を注意深く観察していた。
「守護者を、狙っているのか……?」
 ミハシラは、守護者をも特定できる。しかしそれには然るべき仕組みがあって、真白にはその機構を授けていない。
 が――――最初に覚醒し、早々に軍備を強化し始めた冬が、間者の一人も送り込んでいないとは、考えられない。
 この場に連れてこなかったのは幸いだが、やはり秋に置いてくるべきだったか、と舌打ちをこらえた時だった。
「クレナイ!」
「――――、ま、」
 心臓が、絶対零度に落ちた。
 ありえない。この場に、自分の名を呼び捨てる者がいるなんて。
 彼女の声がする、なんて。
 声のした方を見やるが、そこには一人の夏の住人しかいない。しかし、その人物が顔の布をずり上げれば、それは紛れも無く、輸送機の傍に置いてきたはずの真白だった。
 真白は頭の布を完全に取り去り、呆然と機械人形を見上げる。
 その金色の瞳の中で、機械人形が、彼女を見た、気がした。
「クレナイ……あれは、一体」
「っ逃げろ!」
「え……」
 まるで、時の流れが急に停滞したかのようだった。
 クレナイが足の裏で爆発を起こし、音速を超えて真白に手を伸ばす。
 ――彼の欠点を挙げるならば、守るべき人命を前にしたとき、周りを顧みず手を差し伸べてしまう事が最大であろう。今この時においても、それが仇となった。
 もっとも、この度重なる想定外、いくらミハシラとはいえ無理からぬことと言えた。
「ぐあっ!」
 機械人形から、氷の矢が発射される。それは視認できる速さを超えて疾駆して過たずクレナイに命中し、その手が真白に届くことなく墜ちる。
「クレナイっ!」
 血の気を失って駆け寄ろうとした真白の目の前に、巨影が落ちた。それは瞬く間に真白の体を包み、拘束する。
「な――――あ、え……」
 驚愕と、恐怖と。そのあまりに言葉を失してただ震える。その姿にクレナイは、刹那我を忘れた。
「っ《雷光断つレーヴァ、》」
 瞬きの間に肉薄し、火焔の大剣を振りかざす。
 しかし、
『――――《悔い改めよセブンス・ジャッジメント》』
 無数の氷塊が、機械人形の背後から雨のように降り注ぐ。その物量に、クレナイもアオイも、凌ぐことに精一杯で、各々の守護者を救い出す余裕もない。
「これ、は……中にいるのは、ミハシラか……!」
「……、く、そ……っ」
 二人は徐々に通力を高め、冬の攻撃を押していく。しかし、あちらに人質がいる以上、力を存分に発揮することはできないでいた。
 人の体は、脆弱だ。ほんの少しの熱も、小さな旋風でも、すぐに”壊れて”しまう。
 ――――守れ、ないのか。
 クレナイの中で、誰かが言う。
 否。それは紛れも無く、彼自身の言葉だった。
『――貰っていく』
 響き渡る、凛とした女声。何の感情も持たない余韻を残して、機械人形はゆっくりと浮かび上がり、離れていく。その間も氷の矢は降り続け、追うことすらできない。
「――、真白ちゃん!」
 遠ざかっていく黒き巨影に、クレナイの声が届いたか否か。
 青に紛れて見えなくなった頃、漸く、雨が止んだ。




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