それから二日後のこと。
 夏の国から、宣戦布告がなされた。
 会戦は明日、一二〇〇。境空での空戦から始まる。既に双方配備は済み、規定時刻まで睨みあいが続く。
 夏が得手とするのは陸上での白兵戦。空戦は精々牽制、時間稼ぎに過ぎない。こちらの国に恐らく入り込ませているであろうスパイによる破壊工作、それから自国の戦力を侵入させるか或いは自国に侵入を許すかして、一気に討ち取るのが常道であろう。
 敵を自国に侵入させてしまっては一巻の終わりだ。だから、あえて相手の誘いに乗る。秋の国とて戦いに備え、全国に軍を配備しているのだ。少数のスパイ程度なら、被害もそう大きくはなるまい。
 国内の爆弾にかかずらっているよりも、ミハシラが電光石火で相手国に侵入し、未然に自国の侵入を防ぐ。それが、本日昼のブリーフィングで決定した作戦の概要である。
 或いはこれが冬のミハシラであれば愚考であろうし、夏のミハシラであっても悪手であろう。しかし火を司る秋のミハシラなら――この身ならば。
 機械での戦は、最良のカードである。
「とはいえ、そう簡単にはいかないだろうなあ」
『――……』
「あの国自体が戦闘のプロフェッショナルだから、ボク程度の抑止力が上手く効くかどうか」
 純白のシーツが皺無くセットされたベッドに寝転がり、寝るともなくゴロゴロしていたクレナイが、虚空に向かい呟く。否――花晶と話しているのだ。
 アキは寡黙で、扱いにくい相手ではあるのだが、その実彼乃至彼女にも情というものがあると、クレナイは理解していた。
 彼の沈黙も、存外気に入っている。とはいえ、時には会話を成立させてくれてもよいものだが、とため息をつきたくなる時もある。
 今とてそれ。大抵は、言葉が見つからないのだろうと当たりをつけて諦める。
「彼女からの返書も一切無いし……ちゃんと読んでるのかなあ。届いてるはずなんだけど」
『…………』
「ねー、アキはどう思う?」
 こうして話しかけでもしなければ、滅多に声を掛けてこないのだ。
『……知らぬ』
「どーでもいいならそう言えばいいのに」
『汝次第』
 それはそうだけど、と天井に向かい唇を尖らせた宿主に、アキは、ただし、と言葉の穂を継いだ。
『…………』
「……アキ?」
『……汝は、いずれを選択する』
「はあ?」
 それぎり、アキは口を閉ざし、何も言わなくなった。
 クレナイにしてみれば、珍しくアキが長々と話すかと思いきや、脈絡の無い質問を投げかけられて、意図も不明なまま終わりなのだから、戸惑うのも当然といえば当然である。
 もっとも――今に始まったことではない、とクレナイは頭を振り振り、立ち上がった。気にしても答えはどこからも出ない。忘れた方がましである。
 時刻は午後七時。今頃学生たちは訓練の途中だろうから、腹具合としては少し早いが、食堂が空いている今のうちに夕食をとるべきか。
「んーっ……」
 固まった関節をほぐしつつ、これからの予定を精査する。食事をして、明日に備えて少し体でも動かそうか。いつもどおり書庫に行こうか。あるいは――
「…………まあ、いいか」
 会えばそれで、会わねばそれまで。行き当たりばったりを掲げて、一路食堂へ向かった。
 ――夕日の差し込む校舎はいやに静かだ。それも当たり前、学生たちはグラウンドか体育館で訓練をしているし、であるからには教師もいない。
 あるのはただ、生死。生への欲望と死への反抗、そんな残留概念だけではない。生けるものの強い軌跡と、死んでいったものの残した死跡が、襲撃で綻び始めた学び舎のそこかしこに見られる。
 たかが数日で色褪せることなく、赤光に浮き立たされる死、消去、喪失。
 かつて共に生きていた友のそれらに見て見ぬふりをして、学生たちは、教師たちは、ただ輝かしい勝利だけを目指している。
 それが、クレナイには、なんとも哀れであり――
「……っ」
 本能より深く根ざした何かが警鐘を鳴らす。苦しみさえ伴う情動に、鼓動が乱れる。半ば無意識に、心なしか歩を速めて、逃げるように角を曲がった。
「、わっ」
「おっと」
 曲がった先にいた誰かと正面から衝突する。勢いを殺しきれず、突き飛ばす形になってしまった相手を慌てて抱きとめた。大丈夫か、と言いかけたところで、見覚えのあるその怜悧な顔に目が止まる。
「これはこれは、ミハシラ殿。ご丁寧に、どうも」
「キミは……ええと、遅刻してきた人だよね、会議に」
「ははは。これはまた随分な覚え方をされてしまった」
 寝起きのような気だるそうな表情で、その女性は笹緒と名乗る。笹緒は不意にクレナイの双眸をじっと見つめて、ふむ、と一つ頷いた。
「やはりな」
「え?」
「いや、気になさるな。こちらの事情ゆえ」
「はあ……まあ、いいけど。それより、そろそろ解放させてもらってもいいのかな」
「む。これは失礼した。殿方の腕に寄り掛かるなど滅多にあることではないゆえ、少々名残を惜しんでしまいました」
 変な人だ。それが、クレナイが彼女に抱いた第二印象であった。
 笹緒は背中を支えていたクレナイの腕から起き上がり、数歩分後退する。そうして徐に白衣からタバコを取り出し、火をつけないままくわえた。
 双方歩き出さない。クレナイには、何となくだが、彼女が何かを話し出すような予感があったからだ。
「それにしても、何やら懊悩がおありか」
「――――」
 相変わらず気だるそうに、しかし鋭く虚を突かれ、思わず黙る。刹那、表情が抜け落ちるのが自分でも分かった。それから、ふ、といつもどおりの笑みを浮かべてみせた。
「明日のことが少し、ね」
「ほう? ミハシラ様でも緊張されると」
「そりゃーね、ボクだってラグナロクは初めてだもん。国民の皆の大事な命も掛かってるし」
「これは失礼。お優しいのですな」
 ――いつもならば、ありがとうの一言で済ませた応えだろう。だが、知らず口が声を発していた。
「それは、どうかな」
 それはきっと、
「と、言いますと」
 彼女のその反応が、真実クレナイが求めたものであって、
「当たり前の感情じゃない? それが一体、博愛か利己かそれとも別の何かに根ざすものであったとしても」
 同時に、業腹であったからだろう。
「さて――では、貴方のそれの根源には何があるので?」
「……さあ。何だろうね。もしかしたら、ボクはすっかりこの国の神にでもなったつもりなのかもしれないな」
「神ではないですか」
「違うよ。……違う」
 強く首を振るクレナイに、笹緒はすっと片目を眇めて――「これから町に下りるのですが、ご一緒に、如何かな」と感情の読めない笑みで言った。
 ――思えば、今回、学院の外に出たのは初めてだ。
 それも道理だ。ラグナロクが始まっている以上、ミハシラが町に下りてすることなど何も無い。少なくとも、国家の考えでは、だが。
 もっともクレナイとしても、興味はあれ、そこまで強いものでもなかった。今は戦時。かつて、国内での戦争が頻発していた時代に見てきたものと同じように、閑散として、いかにも悲壮な雰囲気が漂う町に下りても、気が滅入るだけだ。そう、思っていたのだが――。
「戦時中とは思えない繁盛ぶりでしょう」
「うん……なんていうか、楽しくなる場所だね」
 それなりに賑わっている商店街を眺めて、クレナイはほうと息をついた。
 左右に連なる店。扱う品物は様々で、護身用と思われるナイフや小銃があれば、青果店があり、書店やカフェにアクセサリーショップと、極彩色にも程がある。およそ”戦争”という重苦しく凝った二文字とは何の関係もない、そこはある種異世界のようでもあった。
 金属は兵器の鋳造のため徴収される。食物は持久戦に備えて節約・備蓄される。国民の意識を統制するために、娯楽は排除され、町で流れる音といえばラジオからの「臣民の心得」やら「戦勝宣言」やら面白みも何も無い洗脳のメロディばかり。そんな戦争の無機質さと異様さと、滑稽な熱気が、ここにはまるで無かった。
 人々の足音や声が織り成す喧騒が、軽快なミュージックのようだ。
「こんなに陽気でいいのかな。資源は節約しないとじゃない?」
「蓄えはあるのでしょう。我らがミハシラ殿に敗北はないという信頼の証でもあるのでは?」
「……重いなあ、それ」
「まあ、これからの戦況次第でしょうな。浮かれていられるのも今の内、緒戦だからこそです」
「ふうん。行き当たりばったりだね」
「武器は鉄や鉛、火薬ではなく、貴方ですから」
「上手く扱えるといいね」
 辛辣な言葉を吐きながらも、風貌を隠すパーカーのフードからきょろきょろと目を覗かせるクレナイの足取りは徐々に軽くなっていく、その口元は知らず緩んでいた。
「あ、ねえ、あれ何?」
「あれは……カメラです。写真が撮れる」
「簡潔な説明ありがとう。でも、ボクが知ってるのよりだいぶ小さいね。なんていうか、どっちかっていうと、小型爆弾みたいだよ」
「そんな形容は初めて聞いたな……ちなみに貴方が知っているというのは、布を被せるアレですか」
「そうそう。これ、どういう仕組みになってるの? こんな小さいのに、風景を焼き付けられるなんて」
「その辺はカメラ屋に訊いてください。専門外だ」
「キミって理系の教授だよね?」
「それとこれとは全くいささかもこれっぽっちも何の関係も無いので誤解なきように。餅は餅屋、カメラはカメラ屋。教授に訊くもんじゃありませんよ」
「ふーん……」
 笹緒の不平を適当に聞き流し、クレナイは陳列されたカメラを一つ手に取った。色んな角度からためつすがめつ、押せそうなところや取れそうなところを片っ端から押したり引っ張ったりしている。奇天烈な会話をしていた二人の様子を見ていた店主が、不安そうな顔をしている。適当な返事すら適当に流した笹緒も、さすがに見かねて、カメラを取り上げた。
「あー」
「壊さんでくださいよ、売り物なんですから。そうだな……一枚撮ったら気が済むでしょう」
「えっいいの?」
「ただしそんな高いもんは買いませんよ、使い道ないんで。このインスタントで充分です。店主、これよろしく」
「カメラのインスタント……?」
 インスタントカメラを購入した笹緒は、言葉の意味が分からず首を傾げるクレナイにレンズを向ける。使い方が分かっていなくても、意図は伝わったのだろう。クレナイは何故か直立し、呼吸ごと動きを止めた。
「はい、ちーず」
「わっ?」
「あ、フラッシュ焚いちった」
「な、何今の。光ったよね。っていうか、動いても大丈夫なの?」
「大丈夫なんですよ、これがね、何でかね」
「うわあ、説明するのが面倒だって思いっきり顔に書いてあるー」
 突然の白光に目をぱちぱちとしばたたかせるクレナイに、笹緒はカメラを差し出す。反射的に受け取ってから、クレナイは意図を窺うようにその怜悧な相貌を見た。
「それで好きなもん撮ってくださいよ。そこのボタン押せば撮れます」
「でも」
「別に安物ですしね。ああ、残り枚数はそこに書いてあるとおり。現像するときはここに来ればやってもらえます」
「ん……なんか、下手な事すると大変そうだし、ボクには無理だよ」
「精密機械じゃあるまいし、そんなに構えることはないが……、まあ、真白に訊いてくださいよ、貴方の守護者なんでしょう」
「あー……」
 面倒くさそうに提案する笹緒に、クレナイは目を泳がせた。そしてすぐに、そうするね、と笑みを浮かべる。
 最近、真白とろくに話していない。藤原氏の元から戻ってきた彼女が酷く沈鬱な面持ちだったが、事情を話そうとはしなかったので、自分とのことで何か言われたのだろうと思った。それで、距離を置く事にしたのだ。
 彼女が、謂れも無い中傷を受ける必要はない。責めを受けるべきは自分だ。
 それに――これで彼女が自分に積極的に関わろうとしなくなるなら、それはそれで良いことと言えた。
 何もしなくていい。死ぬ必要はない。隠れていればいい。
 生きていれば、それでいい。
 仮に彼女が、友人の仇をこの手でと思っているにしても――それならそれで、あえて自分に関わる必要もないのだ。兵である以上、その機会はいずれやって来る。逃がすか逃がさないかの違いに過ぎない。
 さてこのカメラ、如何したものか。手の中でもてあそびつつ、先に立って歩き出した笹緒に続く。
 次に立ち止まったのは、アクセサリーショップだった。いや、一口にアクセサリーというには、棚に並ぶそれらはクレナイの知るものとは異なっていた。
 ネックレスやブレスレットやピアス、イヤリング。如何に古い人間とはいえ、それくらいは知っているし、大抵が金属で出来ているものとも知っている。けれどクレナイの前にあるのは、色とりどりの紐を編んだ、どこかに結びつけるのだろうということしか知れない帯状の何かだった。
「おや。ミサンガに興味がおありで?」
「みさんが?」
「ご存知ないか。まあ、一種のアクセサリーです。大体、手首や足首につける。学生には人気ですね。男性がつけることもあります」
「ふうん? まあ、チタンやプラスチックで出来てるのよりは、素朴でいいのかもね」
 一本手にとって見る。それは紐だけでなく、ビーズを編みこんであった。下手にきらびやかなものを買うより手ごろだし、どこかにぶつけて傷つけてしまうこともなさそうだ。持っていたそれを戻して、特段興味もなく眺めているクレナイに、笹緒はそっけなく言葉を添えた。
「ある種、願掛けのようなものでもあります」
「願掛け」
「ミサンガが切れると願いが叶う、と」
「ロマンチックだね。花占いと同レベルの安っぽい気休めだけど」
「まあそう言わんでやってくださいよ。人間、何かしら希望がなければ生きていけぬ脆い存在なもので」
 それから笹緒は、クレナイを次々と色んな商店にいざなう。何を買うでもない。店員と話すでもない。ただただ巡る。そのうちに、クレナイにも彼女の意図するところが読めてきた。
「ねえ、笹緒さん?」
「なにか」
「ボク、そろそろ飽きたな」
「……では、ここらでお開きにしますか」
 言いつつ、笹緒は白衣を翻して、学院とは反対の方向へと歩いていく。クレナイは黙ってついていき、やがて一本の路地へと入った。
「ここは?」
「なに、ちょっとした通り道です。猫でも知らない」
「……いるけどね、そこに」
 ポリバケツの上で呑気に欠伸する猫の傍らを通り抜け、次第次第に細くうねっていく路地を歩く。すっかり喧騒は遠ざかり、名残を惜しむように振り向くクレナイを、笹緒が急かす。
 何匹もの野良猫との邂逅の末、路地を抜けた先は、
「……住宅街?」
 打って変わって静かな風景だった。質素な造りの家々が軒を連ね、時折生活の音が響いてくる以外、静寂が辺りを支配していた。
 平生を過ごす学院のそれとは違う。微かな物音も貫きそうな静けさではなく、人間が自らの発する音を吸収していく閑かさ。それは決して居心地の悪いものではなく、しかし尚一層の孤独を自覚させるものだった。
 すらりと伸びた白衣の背を見つめるクレナイに、笹緒はふと立ち止まって、少しだけタバコの先を動かした。火をつけてやると、美味そうに煙を吸って、さて、と吐き出した。
「これらは、貴方の言う、守りたいものの一部だ」
 唐突に、過ぎた。前置きなく放り投げられた言葉に、クレナイは寸の間思考が止まり、一回半めぐらせる。
「……素直に頷きがたい言い方だね、それ」
「なんとなく、ね。貴方の言には、二層以上ある気がして」
「…………二層?」
 紫煙を絡めた返事に、クレナイは僅かに訝しむように眉根を寄せた。
 守りたいと思う気持ちに嘘偽りはない。守りたいからこそ、武器を手に立っている。その意志が、二つ重なってできたものだと言う。
 その言葉の意味を、クレナイは判じ得なかった。
 クレナイ自身が”それ”に気付いていないとは思っていなかった笹緒は、おや、と目をしばたたかせた。
「ふむ。私の目も衰えたかな」
「…………どういう意味だったのか、訊いてもいいのかな」
「いや、なに。貴方の『守りたい』とは何に端を発する言葉なのかとね、――――」
 ふ、と、言葉を途切れさせた笹緒の黒目が空を射抜く。対するクレナイは、先ほど通ってきた路地に意識の針を向けていた。
 そして、どちらからともなく、鋭い視線を収めた。
「ボクの純粋な感情から、とは?」
「その感情とは、直截なものでいいのでしょうか」
「……ただ理解できないだけだよ。自分であれ他人であれ、命を失うことを恐れないことが。その理由を説明するとなると、心理学とか社会学とか難しい事になりそうだし、ボクには無理なんだけど」
「いいや――」笹緒はふるっと小さく首を振り、微かに口端を上げてみせた。「充分ですよ。……すみませんな、色々と失礼なことを」
「アハハ、気にしないで。キミくらい正直で直接的な方が好きだよ」
「これは光栄だ。河合に自慢しよう」
 クレナイがフードを取り、その赤毛を日に晒す。
「ちなみに、なんて?」
 笹緒はタバコを握りつぶし、コキコキと首を鳴らした。
「ミハシラ殿に褒められた、正直は美徳だ、と――ね!」
 卒然、二人は走り出す。閑静な住宅街を、音もなく疾走し、まっすぐに――目的に適した場所へ向かう。
 その二人を追う、黒い影が、六つ。およそ考えられないようなスピードで、入り組んだ路地や家々の屋根を駆けていく。
「意外に、足速いんだね」
「デスクワークだから、なまってはいるが、これでも運動は――」
 T字路に差し掛かったところを、クレナイが先行して突き当たりの壁の前に跪く。その背を踏み台にして、笹緒が壁に飛び乗った。
 上から差し出された手に苦笑だけを乗せ、クレナイは助走もなく一跳びでその隣に到達する。二人で異色の笑みを交し合い、同時につま先を離した。
 屋根から屋根へと飛び移っていく。靴の下で人々が平和に幸せに過ごしているのだと思うと、早々に辿り着かなければと気が逸る。が、それは得策ではない。努めて一定のスピードを保つ。
「得意ではあるんだが、さすがに、あなたほど人外じみてはいませんね」
「アハハ、一応人外に分類されるしねー」
「しかし、運動能力も向上するもので?」
「んー、通力を応用すればね。もっともボクはほとんど、」
 進む先には、大きな空白。次の屋根まで、さすがに飛び越せる距離ではない。
 一度地面に下りて、と考える笹緒の腰を前触れなく抱き寄せ、クレナイは強く屋根を蹴り飛ばした。
「――――――《神いざなう紅炎の階ビフレスト》」
 それは合言葉。全身に満ちる赤の力を、花晶の記憶に照らし、自らの思うままに具現するトリガー――――!
 寄る辺をなくしたクレナイの足の下で、炎の通力が爆発し、その体を前へと押し出す。音速を超えた推進は、あっという間に二人を次の足場へといざなった。
 足を付けるや否や、クレナイはすぐに次へと跳躍する。「走る」というインターバルを無くした分、速度は先と比べるまでもなく向上した。
 ちら、と笹緒は背後を見やる。追ってくる影は、随分と遠ざかっていた。
「なんて言うのかな、昔取った杵柄? ま、さっきのはそれこそ能力だけど」
「これも、ですか」
「これはちょっとズルしてる」
 悪戯っぽくクレナイは笑う。
「しかし、随分引き離していますが、よろしいので?」
「大丈夫、ちゃんと追ってきてるから。ここで見せ付けておいた方がいい――それに、誘き寄せてるってはっきり感づかれちゃうのもね」
「……なるほど」
 黙然と頷いた笹緒は、自らもクレナイの腰に手を回して安定を図る。クレナイは一瞬苦笑を翻し、また一段階ギアを上げた。



 破裂音が響くのとほぼ同時に、狙い通りの位置に穴が開く。
 心臓を射抜かれた人型の板が倒れ伏すのを見届けて、真白は銃口を下げた。
 射撃台の向こう側には同じように急所を一発の弾丸で射抜かれた人型がいくつも倒れている。全て真白が撃ったものだ。
「――――……」
 真白の運動能力は、学院の中でも良い方だ。座学が少々弱いだけで、戦闘機や兵器の扱いもそこそこ上手い。
 中でも得意なのは、銃器の扱いだ。特に心得があったわけではないが、恐らくは才能と呼べるものであり、上手く扱えれば好きにもなる。興味のないことはからきしダメな真白は、好きなことはとことん極めるタイプの人種なのだ。
 圧倒的に強いクレナイの役に立つには、これしかない。そう思い定めた真白は、守護者になってから一層自主訓練に励むようになった。
 傍らに置いてあった水筒から、一口、水を含む。ついでに時計を見やると、針は午後十時前を指していた。
 食事はまだとっていない。今なら、食堂の席も一つ二つは空いているだろう。空腹を自覚した途端、思い出したように腹の虫が鳴いた。現金な自分の腹に苦笑を翻し、真白は数分で片付けを終らせ、学院地下の射撃場を後にした。
 パラパラと、学院を出て寮へ向かう生徒が見える。その中には、見知った顔もちらほらいて、
「…………」
 言葉を交わすことなくすれ違う。
 あれ以来、蜜柑とも、蘇芳ともまともに話していない。蘇芳とは、真白の方が気まずくて声を掛けづらいのだ。もとより、間に善がいなければ積極的に会話する方ではなかったから、言ってしまえば平生に戻ったということなのかもしれない。けれど、蜜柑には、避けられている気がする。
 いやに眩しい夕日から目を背け、密かにため息をついたとき、ここ数日で聞きなれた声が、耳に飛び込んできた。
「はー、それにしても、キミって意外と強いんだね! びっくりしたよ」
「これでもここの首席卒業者なもので。私こそ、貴方の強さがここまでとは思いませんでしたよ」
「じゃあなかったらボクの存在意義の崩壊でしょ。ん? これ前にも言ったかな」
「私は初耳ですな。それもまた真理ではあろうが、自身で言うべきものではありますまい」
「領分をわきまえるのは大事だって持論なんだけど、ありがと」
 クレナイと、笹緒だ。いつもどおりけだるげな笹緒は、いつにも増してくたびれているようにも見える。相変わらず快活なクレナイとの対比のせいだろうか。
 珍しい組み合わせに、真白は思わず立ち止まった。少なくとも、今までに二人でいるところを見たことがない。それもそのはず、教員のほとんどは自分の研究にしか興味がない人種だから、あえて話しかけることもないし、双方のスケジュールとしてもその機会がない。そういう意味での稀有に、真白は言葉を失くした。
 けれど、何より。黄昏の光に照らされて談笑する二人の姿は、酷くしっくりと来ていた。
 この情動を何と示そう。まるで一つの絵画のような。決して届かぬ別世界のような。真白は素直に、感動していた。
 日時も行き先も忘れて見入っていると、視線を感じたらしく首を巡らせたクレナイと、目が合ってしまった。その瞬間に、彼我共に現実という同次元に足を着けた。
「あ、真白ちゃん。訓練終わったのー?」
「……あ、うん」
 ぱたぱたと駆け寄ってくるクレナイは、さっきまでの神々しさや耽美さとはかけはなれている。その後にゆっくりと続く笹緒も同様で、全身から倦怠感を漂わせていた。
 よく見ると、クレナイの格好は平生と異なっている。金属の腕を悠々と覆い隠す、だぼっとしたパーカーと、末広がりのジーパン。どこにでも売っている、それこそ普通の人間の格好だ。燃えたつ赤毛をフードで隠してしまえば、あっという間に市井に溶け込んでしまうだろう。
 だからこその絵画性だったのかもしれない。いつもの格好だったら彼だけが夕闇に浮き上がってしまう。
 自分の格好をしげしげと眺められて、クレナイは何か変だろうかと首を傾げる。笹緒はその隣で、すん、と鼻を動かした。
「……地下で銃の訓練でもしていたか?」
「えっ。わ、わかりますか」
「火薬の匂いがね」
 すんすんと鼻腔を開閉する笹緒に、さすが化学教師、とクレナイが野次を飛ばす。それだけでもないさと笹緒は肩をすくめてみせた。
「真白は銃の扱いが上手いからな」
「知ってた、んですか」
「定期試験で毎度百ポイント近く取るような生徒は、君くらいだからな。名前だけは知っていた」
「へえー。すごいじゃん、真白ちゃん」
「……あ、えと……」
 褒められ慣れていないのも問題だ。二の句が継げなくて俯いた真白の頭に、クレナイの柔らかい手がぽんと置かれる。
「頼もしいよ」
「……それは、よかった」
 すうっと、こそばゆかった喜びが頭から冷めていく。――頼りになどされていない、それは彼から再三示されていること。
 嘘。嘘だ。蘇芳の言葉が頭蓋に響く。
 確かめるようにクレナイの目を覗く。その蒼の瞳は、あの聖池のように透き通っていて――何も見えなかった。
 けれど。だから、なんだというのだろう。そんなのは、今更だった。誰の目を見たって、真白には、何も見えはしなかったのだ。
 なら。同じだ、今までと。
「……わたしは、わたしなりにクレナイの役に立つから」
「え?」
「絶対足手まといにはならない。それだけは、約束する」
 それはある種の暗示だった。自分自身に言い聞かせていた。
 クレナイからの申し出で距離を置いて、分かったことがある。確実に、紛れも無く、誰に何と言われようとも、自分はクレナイの役に立ちたい、彼の友になりたいと思っているのだと。
 求められるのを待っているのではだめだ。
 前に進まなければ。いつまでも冷淡に尻込みしていてはいけない。決めたのだ、支えると。ならば、実力で有用性を示すしかない。隣とはいかなくとも三歩後ろにはついていけると、この手で認めさせるしかないのだ。
 読めない心ならば、読もうと努力しなければ。最初からあきらめていたのでは、何にもならない。
 この前向きさは、紛れもなく真白の美徳だった。
「……真白ちゃん」
 そのひたむきな目に、クレナイは、ふっと瞳を揺らめかせた。何かを言おうと唇を動かしたとき、
「――ミハシラ殿」
 不意に笹緒が口を開いて、クレナイは声を仕舞う。窺うように向けられた視線に、笹緒は相変わらず気だるげな、感情の読めない目を夕日に細めた。
「世の中、そう単純な人間ばかりではない」
「……?」
「ところがここにいる真白というのは、何故だか異様に単純でね。それが美徳ではあるんだが……」そこで笹緒はちらっと真白に目を飛ばした。「与えられた役目には全力を尽くす。一度支えようと思った相手には何が何でも手を伸ばす。……反面、相手から不要と言われてしまえば、瞬く間にその立ち処を失くす」
 笹緒は、真白の弁護をしている。そう気が付いて、真白はいたたまれなくなった。
 自分を誰かに語られるのは気恥ずかしいものだ。だがそれ以上に、心配を掛けていたということ、今こうして手を煩わせているということが、申し訳なかった。
 黙って耳を傾けているクレナイは、ただ真摯に言葉を待っていた。
「分かりますかな。貴方に欲しいと望まれ、彼女は――大事な親友を亡くした彼女は、恩人である貴方から授けられたその役目を支えに立ち上がったのですよ。そして、貴方から突き放され、それでも尚こうして認められようと努力している。実に愛らしいではないですか」
「…………」
「私はこれでも教師の端くれでね。自分の生徒には一定の情も持つ。……せめて、貴方の心の内をもう少し素直に話されては如何かな。でなければ、納得もできますまい。ただ傷つくだけだ」
 そこで一息つき、老婆心ですが、と笹緒は口を噤んだ。
 沈黙が落ちる。ひゅう、と冷たい風が通り抜けた。
「……ボクは」
 クレナイが口を開くまで、一体どれだけ経ったろう。周りにはすっかり人がいなくなっていた。
 陰が瞳に落ちて、伏せられたクレナイの青い目は紫に見えた。
「ボクのせいで、死んで欲しくないだけだよ…………誰にも」
「わたしだって、死ぬつもりはないよ。だからこそ、こうして訓練してる」
 その瞬間。今まで見たことのない、卑屈な笑みがクレナイの口元を歪めた。
「…………あんなお遊びみたいな訓練で?」
「っ」
「相手を害する気の無い組み手。ただ機械を動かすだけの飛行訓練。意志を持って動くわけでもない的を撃つ射撃。それで戦争する? 殺し合う? 笑わせるよ。実際の戦争を知らない子どもの幼稚な理論だね。訓練が無用とは言わないよ。基礎を築くのは重要だからね。だけど有用ではないな、あれでは。今はもう基礎を学んでる状況じゃない。第一――――誰かを殺すってこと、キミたちはホントに理解してるの?」
 夕日を背に。吹きすさぶ風に髪を遊ばせ。
 陰を纏って滔々と声を紡ぐクレナイは。
 真白の知る彼とは、まるで、別人のようだった。
「キミたちは――キミはつい最近、殺し合いを目の当たりにしたよね。それで? 今のキミが、一体どれほどの訓練を積んだら、あれを生き延びられるって計算してる?」
「…………それは」
「水に入った事の無い子どもが、ベッドの上でのみ泳ぎの訓練を受けて、いざ入水した時に本当に泳げるのか。実際に問題を解いたことのない学生が、公式だけを与えられて、実際に内角を割り出すことができるのか。そりゃ勿論、時間を掛ければできるだろう。少し体を休めて、じっくり学んだことを反芻すればいい。けど、じゃあいざ戦いの場になって、そんな余裕があるのか? 答えは否だね。よほどその方面に才能があるか、イメージトレーニングをそのまま活かせるほど冷静でいられるかすれば分からないけど、果たしてそんな人がどれだけいるんだろう?」
 ――――血まみれで倒れていた、クラスメートたち。
 死を目前にして、悲鳴を上げることもできなかった人々。
 平生、授業の一環として受けていた訓練は、何の役にも立たなかった。なす術もなく殺された。
 真白だって、クレナイがいなければ死んでいた。あの太刀に切り裂かれて、沙那と一緒に冷たい死体となっただろう。
 それから数日。付け焼刃の訓練が、一体、彼らミハシラの人外の戦いにどれだけ貢献できるというのか。戦闘に特化した夏の戦士や精通した技師による冬の機械兵器に、対抗し得るのか。
 まして。ミハシラの守護者と、真白がまともに戦えるのか。
 足手まといにはなりたくない。支えたい。そんな思いを抱いたとて、現実はずっと淡白だ。クレナイは真っ向からその現実を見据え、答えを出していた。ただ、真白が、不恰好な意地でしがみつきたがったに過ぎない。
 返す言葉もなく、思考さえ白化する真白に、ふとクレナイは語調を和らげた。
「……滅多なことが無い限り、学生の皆が出兵することは無いよ。ボクがさせない。だけど、キミは違う。守護者だ。確かに、ボクが選んだ。身勝手だとは承知しているよ、でも、死ぬ可能性の方が高いんだ。ボクはミハシラだから、敵のミハシラと直接対決する。当然あっちの守護者も出てくるだろう。キミは知ってるよね、夏の守護者」
「……うん。とても……とても、強かった」
「そう。この国に、彼女と対抗できる人材がいるかどうかも怪しいところだ。つまり、二対一。正直に言わせて貰うけど、足手まといを抱えて勝ち抜けるほど、“これ”は甘くない。努力は認める、想いだって勿論。でも、キミも現実を認めてほしいな」
 どんな努力も、一朝一夕のそれでは、太刀打ちできない。
 圧倒的な、経験の差。ほんの少し前までただの学生だった真白と、彼女は、彼は、別次元だ。
「ボクは最初にキミに提示したはずだ。戦うことも、守ることも、死ぬこともキミに求めてない。隠れて、逃げて、自分の命を守ってほしい。ボクが言いたいのは、キミに求めているのはそれだけ。それがキミの信念に反するというのなら、ボクはいくらでもズルくなるよ」
 不意にクレナイが瞼を下ろす。一拍置いて再び姿を現した双眸は、冴え冴えと、蒼く光っていた。
「――これは命令だ。守護者・真白。如何なる場合も、自らの生命、身体を維持することにのみ尽力せよ。その目的に関わらない行為は一切許さない」
「っ」
 心臓を、鈍い刀で突かれるような衝撃が襲った。
 冷ややかに響き渡った声。静かなのに力を持ったそれは、大気を震わせ遥かに波及する。頭蓋を脳まで揺らした「命令」が、真白の手足を物理的に拘束したかのような錯覚に襲われた。
 放たれた玲瓏なる威圧に、足が震えだす。それは恐怖からではない。畏怖だ。もはや、立っているのがやっとだった。
 クレナイが一つ瞬くと、周囲がわっと騒がしくなる。そこで初めて、彼の声が耳鳴りを起こしたかのように、聞く者の耳に無音を強いていたのだと気が付いた。
(神は神。人間とは違う)
 それは蘇芳の言葉。
(この戦い……負けるやもしれぬな)
 それは浅葱の言葉。
(絆を結んだ相手は自分を待たずに老いて、死んでいく。なんて孤独だろうな)
 それは笹緒の言葉。
(仲良く、なりたい)
 これは、自分の、気持ち。
 抱いてはいけない、気持ちだったのだろうか。
 神相手に。人間風情が。
(死んで欲しくないだけ)
 それはきっと紛れもなく、クレナイの本心なのに。
 どうしてだろう。その切なる思いの奥底に、重く凝った何かがあるような気がしてならない。
 真白はその命令に、肯うことも、抗うことも、どうしても、できなかった。




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