「ハア? ミハシラ様を見失ったァ?」
 素っ頓狂な声を上げた善に、真白は深いため息をついた。
「あの人、神出鬼没というか……。大体は講堂地下か部屋か食堂にいるって言ってたのに、どこにもいないんだよ。詐欺だと思わないかい?」
「や、詐欺まではいかねンじゃね? つーか、いいのかよそんなんで。守護者って、守らなくちゃいけないンだろ?」
「って言うけどね、わたしが守る必要なんかないくらい強いよ、あの人。大体、自分が指名したんだから、行き先も告げずに放り出してどこかに行く方がおかしい。無責任だ」
「……オレ、時々お前のこと本気で尊敬するよ……」
 そう言いながら呆れ顔の理由が分からない。
 あれから結局、クレナイはどこを探しても見つからず、仕方なくグラウンドへ向かった。軍人手ずからの指導で普段よりも臨場感を加味した訓練は厳しいものではあったが、平生から実戦に近い訓練をしていたためか、さほど苦しくもない。他の授業が無いことで時間を大幅に使えるから、CQCやCQBの模擬戦を何度も反復させられたくらいで、キツキツに詰まってはいないし、そもそも基礎は入っている。夕方には飛行訓練があるようだが、正午からそれまでは自由時間だ。むしろ授業があった方が、真白にとっては苦痛かもしれない。
 きっと、誰かを傷つけることを厭うような、蜜柑みたいな優しい子には、厳しいものだろう。
 これから昼食に向かうのだが、蜜柑はどこにもいなかった。先に行ってしまったのかもしれない。仕方ないから、というのも失礼だけれど、善と蘇芳と共に行くことにした。彼らもクレナイの話を聞きたがっているのだから、お互い様だ。
「そういえば二人は、昨日クレナイには会わなかったのかい」
「会う前にあんたが追い払ったんやろー。ヨッシーは?」
「ヨッシー言うな。オレもまだ。どうせ昨日はいっぱいだろうから、今日会いに行こうと思ってたンだよ」
「今日もいっぱいだと思うけどね」
「せやな」
「……つうか。真白、お前、ミハシラ様のことを呼び捨てにするなんて不敬だぞ」
 言われて慌てて口を押さえるが、無意味にも程がある。
「仕方ないじゃないか。あの人がそう呼べと言うんだから」
「ミハシラ様があ? おいおい、だからってなあ」
 本人に対し敬語も敬称もつけないのだから、他人との会話で自然つけないのは致し方ないのではなかろうか。とはいえ、これが同級生で、比較的気心の知れた二人でよかったと思う。もし教師や軍人に聞かれようものなら、どうなることか分かったものではない。
 ……軍事会議で、言っていない、はずだ。不安になってきた。
「……まあ、以後は気をつける」
「ほんまやで。せっかく平凡クラスの六組から守護者様が出て大出世やのに、不敬罪で首切られたら、なんやえらいこっちゃやがな」
「出世したの?」
「心情的にな。勿論、妬まれとるけど」
「バッ……スオー、お前本人に言うなよな!」
「ヨッシー、スオーって言うなって何度も言っとるやろ。ポケットに入りそうなモンスターみたいやん」
「うっせえお互い様だよ! ヨシならまだしも、ヨッシーって、オレは卵産まねえぞ」
「知っとるわ。産んだら怖いわ、ホラーや、グロや」
「グロは酷くねぇ?」
 どんどんと話が転がる。真白は、しかしそれを聞いていなかった。
 妬まれている。六組が。
 的外れにも程がある。そしてそれを真白が気に病む必要はない。全部クレナイのせいだ。
 だというのに――気を遣わせているのは、真白だ。
 こんなにおかしな話があるだろうか。クレナイが真白を選んだせいで真白が妬まれ、六組が妬まれる。そのくせクラスメートに気を遣わせていると気に病むのは真白なのだ。
 ――きっと。言えば、彼は申し訳なさそうに眉を下げて、謝罪を述べるだろう。だからといって何も変わらない。結局、それを分かっていて口にした自分の意地の悪さに嫌気が差すだけだ。
 ああ全く。なんて不合理だろう。
「おい、聞いてンのか真白!」
「えっ?」
 唐突に蚊帳の中に引っ張り込まれて、ハッと我に返る。見れば、蘇芳と善が顔を並べてこちらを見ていた。
「な、何? 何か言ったのかい」
「……マジで聞いてなかったンだな」
「ご、ごめん。考え事してて。あはは……」
 白々しい。全く白々しく笑ってしまうが、嘘は言ってない。
「まあええわ。あれや、わいらをミハシラ様に引き合わせてくれへんかなーって、ささやかなお願いや」
 な? と両手を合わせてカワイコぶる蘇芳だが、全く可愛くない。むしろ逆効果だ。思わず引いた真白と善に、しかし蘇芳はめげない。というか確信犯かもしれない。
「まあ、いいけど……クレナイ次第だよ? 冷たくあしらわれちゃうことも……あるし」
 思い出すのは昨夜の蜜柑。彼女の様子を見れば、ミハシラ物語のことが相当好きだったのだろうと分かる。
 彼女に頼まれて会わせたのだけれど、後悔の念もある。断っていれば、あのような思いはせずに済んだのかもしれない。
 反面、結局同じことだとも思う自分がいて、嫌になる。
 二人は、案の定、首を捻った。
「冷たく? 集会のときは、そんな人には見えへんかったけどなあ。明るーい人やったやん」
「そうだけど……わたしもそう思うんだけど」
「そない複雑な人なん?」
「それはもう」
 こくこくと何度も頷く。複雑。それこそまさにふさわしい。抽象的でいて的確に彼を表す言葉だ。
 食堂には、当然人がたくさんいた。先ほど訓練を終えた生徒たちだ。だが学院なだけあって、食堂も充分に広い。席はあった。
 券売機は、勿論、大行列だ。
 廊下まで続く行列の最後尾に並ぶ。昨日クレナイの部屋の前に並んでいた人たちは、昨日も今日も並んでご苦労なことだ。無論、皮肉である。
「あー、並ぶのだりー」
「せやったら並ばんでええで。食えへんだけや」
「なー、購買でパン買わねー?」
「パンだとすぐにお腹が空くよ。ちゃんと食べないと、夕方の訓練には持たないと思う」
「わいはカツ丼食うって決めてん。今」
「うううー……」
 並ぶのが面倒という気持ちは十二分に分かるが、こればっかりはどうしようもない。近接戦闘訓練ばかりだったため、かなり空腹だ。
 それにしても、普段はこれほど行列ができないのだが、今日はとみに多い。軍の人たちでもいるのだろうか。
 朝はあれほどの静けさだったというのに、調理員も大変だ。他人事よろしく感想を投げる。
 そんな真白の肩が、背後から叩かれた。
「?」
 誰かと振り向いた途端、
「あはっ引っ掛かったー」
 ぐにぃ、と、頬に指が食い込む。いや、動作からすれば、待ち構えていた指に真白が不用意にも頬を押し付けてしまったという方が正しい。
 そんな子供だましで嬉しそうに笑うのは、クレナイだった。
「……何してるんだい」
「え? 邪気のないかわいーいイタズラ?」
「可愛いかは別にして、邪気がないことは確かだけれど……」
 やられている方はそう楽しくもない。
 相変わらず読めない笑顔に呆れる真白の背後で、叫び声が上がった。
「み、ミハシラ様……!」
「ほ、本物や……」
 善と蘇芳が唖然とした顔でクレナイを見ている。そういえば会いたいと言っていた矢先だった。前に並んでいた人たちも皆、同じような顔をしている。
 これで依頼達成だろうか。
「真白ちゃん真白ちゃん。キミ、こんな戦場に行く気?」
 戦場とはオーバーな。ただの食堂だ。人が多いだけで。
「お腹が空いたんだ。混んでいるからといって、食べないわけにはいかない」
「はー……物好き。ボクだったら、入らずに食べる方法を模索するなあ。そんなわけで、おいでよ」
「は?」
 何がそんなわけなのだ。論理が成立していない。そんな反論をする間もなく、クレナイは真白の腕を掴んで、食堂とは別の方向へ歩き出す。
「ちょ、ちょっと、どこに行くの?」
「ボクの部屋。一人で食べるのって、案外寂しくてさー。アキは無口だから」
「クレナイの部屋で何を食べるのさ。……料理できるの?」
「あー……簡単なものならね。でも作ってないよ。届けてもらうの。ミハシラ特権ー」
 たまたまボクに見つかって真白ちゃんは運がいいね、などと笑うクレナイにずるずると引きずられていく。拒否権は無いらしい。見れば、善も蘇芳も、案の定呆然と見送っていた。
 何がなんだかよく分からないが、ろくに挨拶もせぬまま二人を置いていくのは不義理だろう。それに、これはこれでチャンスじゃなかろうか。
「クレナイ! あの二人は、一緒じゃダメかい?」
「うん? どの二人?」
「あれあれ、最後尾の男子二人。友達で……クレナイと会いたいって言ってたんだよ」
「会ったじゃない。今」
「そうじゃなくて……こう、お話とかさ」
「ふーん……いいよ。そこの二人もおいでー!」
 呼びかけられた二人は、それが自分たちだと気付いていない。真白が名前を呼んで手招きすれば、暫く顔を見合わせたあと、慌てて走ってきた。
「いやー、友達いたんだねえ、真白ちゃん。ボクちょっと嬉しいよ」
「少ないとは言ったけど、いないとは言ってない。嬉しいものかい?」
「うん、嬉しい。ま、それが男の子って辺り、真白ちゃんらしいよねー」
「……ほっといてくれ」
 少なくとも、その友達の前で話す話題ではない。
 廊下で学生に擦れ違う度に歓声が上がり、クレナイは笑顔だけを投げかけ通り過ぎる。声は掛けないし、掛けられても笑うだけだ。
 ――一緒に食事をしようと思い立つ程度には、気にかけられているのだろうか。しかし、誘う相手がわたししかいなかったとも考えられるし、その方が信じやすい。見つからなかったら、結局一人で食べていたのだろう。
 善と蘇芳をちらと振り返ると、二人ともどこかぼんやりと歩いていた。憧れのミハシラ様に誘われて夢見心地なのだろうか。
「そういえばクレナイ、今までどこにいたの? 講堂からさっさと出て行って、姿も見えないから焦ったよ」
「どうして?」
 どうしてとは。彼は真白が守護者であるということを忘れているのだろうか。
 ……要するに、必要ないということなのだろう。
 沈みかけた心を、無理矢理引っ張り上げる。
「……食堂か部屋にいるって言ってたのに、いないから。用事があったときに困る」
「あれ、書庫って言わなかったっけ?」
「書庫?」
 書庫といえば、学習棟の四階を丸々使った図書館の奥、一般生徒が入れない部屋だ。重要な書物がたくさん収められていると聞く。
 そういえば、書庫も所在地の候補に上がっていたような覚えが、無くも無い。首を捻る真白に、クレナイは苦笑した。
「意外と本が好きなんだね」
「意外とって、失礼だなあ。まあ、知識を得るのは嫌いではないよ」
 肩をすくめて、クレナイは適当にはぐらかす。
 クレナイの部屋前の廊下まで来ると、さすがに人はいない。部屋に入り、クレナイが勧めるまま二人がソファに並んで腰掛けた。その向かいに座ったクレナイは、きっちり隣を空けている。
「……わたしはそこかい?」
「2:2で公平でしょ。嫌?」
「嫌ではないよ。お茶を淹れるね」
「含みのある言い方だなー。今度はほうじ茶で! キミたちもそれでいい?」
 クレナイに笑いかけられ、二人が声も無くガクガクと頷くのを見て、棚からほうじ茶のパックを取り出す。どうしてこの棚は、茶からコーヒーから何から充実しているのだろう。ミハシラへの敬意かクレナイの趣味か、どちらか判じ難い。正道を行って茶葉や豆ではなく、ティーバッグやインスタントである辺り、やはりクレナイの個人的な物かもしれない。
「皆、何食べたい?」
 唐突の質問に、三者揃ってきょとんとする。クレナイはにこにこと待っていて、意図を話す気はないようだった。
「……じゃあ、オムライスで」
「あ、わいは、カツ丼が……」
「お、オレ、オレは……えーと、えーっと」
「何でもいいんだよ? 困るのはボクじゃないから」
「え? え……っと、じゃあ、カレーライスがいいっす!」
「はは、元気だなあ」
 楽しそうに笑って、クレナイは部屋に置いてあったレトロな電話機を取り上げた。ただのインテリアかと思っていたが、使えるらしい。当たり前かと自分にツッコミを入れつつ、真白は沸かした湯をマグカップに注いだ。さすがに湯呑みは置いていなかった。
「はい、お茶。ティーバッグだけど」
「ありがとー。……そうそう、デリバリー。ダメ? ふふ、良かった。ごめんねー忙しいのに。さすがにあの中に突っ込む勇気は無くてさ。多分食堂にも迷惑だと思って。じゃ、待ってます」
 受話器を戻したクレナイに、真白はもしかしてと声を掛けた。
「食堂の人に料理を届けさせるつもり?」
「うん。言ったでしょ、届けてもらうって。罪悪感あるけど、ミハシラってこーゆーときはいいもんだって思うよ。さすがに面と向かって嫌だって言ってくる人は……そうそういないから」
「そこでどうしてわたしを見るのかな。何かを断った記憶はないけれど」
「言いそうなんだよ。期待してる」
「期待なの……?」
「ふふ。まあでも、ボクがあんな大盛況の食堂に行ったらそりゃーもうすったもんだでしょ。食堂に迷惑だと思ってね」
 それも一理。全くの考え無しではないらしい。だが食堂を心配する前に、守護者のことを気にかけて欲しい。偉い人にはそれ相応の対応をしてほしいのだ。
 などと言っても無駄だと分かっている。つくづく、世の中の執事や従者、という人が実際にいるのかはさておいて、そういう人たちは大変だ。
「さて、それで……」
 ずず、とほうじ茶を啜って、クレナイは対面の二人に向かい合った。
「何かボクに用事?」
「あ、えっと……」
 急に水を向けられて、蘇芳と善はびくつく。この二人はムードメーカーともいうべき存在で、こんな風にカチコチに固まっている姿は新鮮でもあった。
 先に解凍したのは蘇芳だった。
「と、特に用事いうんは無いんですけど……あ、握手とか、してもらえませんやろか」
「握手?」
 今度はクレナイがきょとんとした。握手なんかしてどうするのか、と言いたげだ。
 アイドルじゃあるまいし、と真白は呆れた。もっとも、一般人にはさして違いもないのだろう。
 クレナイは、んー、と首を傾げてから右手を出し、途中で左手に替えた。
「左手でよければ」
「あ、ありがとうございます! ほれ、ヨッシー」
「あ、ああ、えっと、じゃあ失礼して……お手を拝借……」
「あほ、それはちゃうやろ!」
 相当混乱しているらしい。目の前で漫才を始める二人を、クレナイはにこにこと見ている。
 事実、彼がどのように思っているのか分からないから、真白は気が気ではなかった。いつ昨夜のように冷たい言葉を吐き出すか、はらはらと見守っていた。
 笑顔を見る限り楽しんでいそうだ、というのは早計だ。それはたった二日間で痛いほど分かっていた。
「二人は仲が良いんだねえ」
「え……そ、そうすか? ありがとうございます……」
「いいなあ、そーゆーの。ボクも友達欲しいよー」
「い、いはらへんのです?」
「うん。いると思う?」
 また返事に困ることを訊く。頷いていいものやら、判断つきかねるだろう。無邪気に問うたクレナイに、蘇芳は、少しだけ困ったように眉間にしわを寄せた。
「……ミハシラ様は、明るいお人やから、きっとぎょうさんいはるもんやと思てましたけど……いはらへんのも、納得しますわ」
「ちょ、スオー! お前はまた……!」
「だってヨッシー、考えてみいや。クレナイ様と考えるんちゃうで。ミハシラ様に、対等な友達ができると思うか? 壮絶な運命と、人智を遥かに超えた力を持つ人やで。そんなん……なかなか、難しいもんやで。ミハシラ様と対等に付き合える人っていうんは」
 そこで蘇芳は、クレナイに目を戻した。
「そういうことですよね、ミハシラ様」
 クレナイは肯定も否定もしなかった。
「賢いね、キミは」
「……恐れ入ります」
 蘇芳は、戸惑ったように一つ瞬いて、頭を下げた。
 絶対的強者のミハシラ。そのミハシラと対等に肩を並べるなんてのはどだい無理な話だ。それこそ、他国のミハシラでもなければ。
 立場も。背負うものも。生の長ささえ。何もかも見えぬ彼方へかけ離れた存在を友と呼ぶなど、一体誰が為しえよう。それこそまったく自尊心を持ち合わせていないか、適当にそれと折り合いをつけられる器用な者だけだ。
 そして何より。友が欲しいと言うクレナイが、本当に欲しいと思っているのかさえ、真白には疑わしい。
「け、けど」
 難しい顔で唸っていた善が、ぼそぼそと喋りだした。
「友達って、対等なもんすかね」
「……ヨッシー?」
「たとえ相手が自分より数段すごい相手で、それでも、一緒にいて楽しいって、遊ぶときに誘おうかって頭に浮かぶなら、もう友達じゃないすか? そりゃ、まあ、尊敬したり、ちょっと嫉妬したりはあるかもだけど。力とか立場とか、社会の中での対等が、友達かそうじゃないかの基準なんて、おかしいと……オレは、思うンですけど」
 そこで善は、真白を見た。
「こいつが守護者になって、立場的にはオレたちよりも上なんでしょうけど、でも、オレはこいつのこと、友達だと思ってます。それと一緒じゃないっすか?」
 善のまっすぐな言葉に、胸が、じわりと暖かくなる。
 確かに、友達は少ない。親友さえも、真白を置いて死んでしまった。守護者に選ばれて、それまで同じ学び舎で過ごしていた仲間から、妬まれるようになってしまった。
 それでも、友達だと、はっきり断言してくれる友達がいる。
「……真白ちゃん、いい友達持ったねえ」
「…………」
 何も返せない。口を開こうものなら、泣いてしまいそうだった。
 もしかしたら、沙那を失ったことに、己の生死を問う状況になったことに、耳を塞いでも聞こえる陰口に、次元のレベルで隔絶したクレナイとの距離に、思ったよりも疲れていたのかもしれない。酷く揺さぶられていた。
 クレナイは、それを感じ取ったのか、ふっと苦笑して真白の頭をぽんぽんと撫でた。
「そうかもね」
 だけど、やはり。彼は彼自身を変える気などないのだ。
「うーん、お腹空いたなあ。まだかなー」
「お、オレも腹減ったっす! なあスオー」
「……おう」
 蘇芳は、どこかつまらなさそうな顔で頷いた。
 ほどなくして、ドアがノックされる。調理員の一人が、古式ゆかしい岡持から料理を取り出してテーブルに並べ、退出する。
 よく言えば小奇麗、有り体に言えば殺風景な室内に、料理の色が溶け出して温かみを帯びた華やかさを得る。四人はそれぞれ手を合わせ、食事を始めた。
「ンーっ美味い! カレー美味い! 空腹にしみるーっ」
「ヨシ、食事の時くらい落ち着いたらどうだい」
「ンンっ! ミハシラ様、その唐揚げ美味そーっすね……」
「あはは、欲しい?」
「くれるンすか!」
「あーげない」
「ええーっ!」
 口いっぱいに頬張りながら騒ぐ善をからかうクレナイは、心底楽しそうだった。これ見よがしに唐揚げにぱくついて、恨みがましい目で見る善に、あははと楽しそうな笑い声を上げた。
 善は、良くも悪くも人好きだ。少しでも気が合うと思った人には、立場の垣根を越えて親しげにすりよる。それを図々しいと取る人もいるようだが、大抵は好意的に見られるようだ。かく言う真白とて、彼の親しみやすさに幾分助けられている。
 クレナイと気が合うかもしれない。双方人懐こさが天性のものであるという点からそう思った。だが、未だクレナイの内面を量りかねているため、そうとはっきり断ずることもできない。
 対して蘇芳は、静かなものだった。普段なら善とぎゃあぎゃあ騒いでいるのに、奇妙なまでに大人しい。
 蘇芳も勿論、親しみやすい方ではあるのだけれど、善に比べれば好き嫌いがはっきりあるようだったし、より相手を隅々まで観察する節がある。そしてたとえ相手に嫌いの判断を下しても、気の抜けた笑顔と独特な口調で曖昧な距離を保つ。言ってみれば、善は犬で、蘇芳は猫。
 もしかしたら、善よりも蘇芳の方がクレナイと似ているかもしれない。
 そんなことを考えつつ蘇芳を見ていたら、目が合ってしまった。
「? どないした」
「あ、いや、カツ丼も美味しそうだなって」
「……相変わらずやな」
 咄嗟に誤魔化しで口をついた言葉に、心底呆れられてしまった。というか、相変わらずとは、もう少し別の呆れ方もあったのではなかろうか。
 返す言葉もなく、オムライスをスプーンで崩す真白に、クレナイがふと苦笑した。
「そんなにお腹空いたの?」
「……クレナイまで。わたしはそんなに食いしん坊じゃないよ」
「うん?」
 どうして膨れているのか分からないという表情だ。今のは八つ当たりだった。真白は心の中で反省した。
「あげる」
 ひょい、と皿に唐揚げが一つ落とされる。きょとんと見上げた真白に、クレナイはにっこりと笑った。
「あーっいいなあ! オレにはくれないのに」
「あはは、意地悪したくなっちゃってさ。ああでも、唐揚げは好物だから、一個限りでおしまい」
「えー。不公平だ!」
「いやあ、キミは楽しい子だなあ」
 いじめても後腐れなくて、という小さな呟きは、聞かなかったことにしよう。
 クレナイに貰った唐揚げは、確かに美味しそうだった。ぷりぷりと柔らかそうな鶏腿肉を、こんがりきつね色の衣がしっかり包んでいる。食堂の唐揚げは、外はカリカリ中ジューシーと自身で豪語するだけあって、とかく評価が高い。善には悪いが、有り難く頂いておこう。
 ちらと善に目を向ければ、恨めしそうな目で見ていた。食べにくい。
「……ところで」
 そんな二人の様子をにこにこ見ていたクレナイはふと、話題の転換を仄めかした。
「二人は名前、何ていうの?」
「あ……」
 そういえば、紹介していなかった。
「そっちがヨシ……善で、こっちが蘇芳」
「ゼン……もしかして、善人の善? だからヨッシーなんだ」
「オレはそのあだ名、認めてないっす!」
「そっか、いい名前だねヨッシー君」
「……!」
 ニッコリと。満面の笑みで、認めてないと言ったばかりのあだ名を呼ぶクレナイに、善は絶句する。それを全く意に介さず――むしろ面白がって、クレナイはヨッシーヨッシーと連呼した。
「いいよね、あだ名で呼び合える関係ってさ。ねえヨッシー君。なにも嫌がることなんてないと思うよヨッシー君。差別用語じゃあるまいし、親しみやすくていいと思うけどなあ、ヨッシー君。ね、ヨッシー君」
 絶対に、楽しんでいる。心底面白がってからかっている。それは蘇芳も分かっているようで、問うようにそっと目で訴えられた。真白は、何も言えず、ただ目を逸らした。
 対する善は、
「……そう、ですかね。そんなもんですか」
 どこか釈然としない面持ちで、だけれど神妙に頷いた。
 こいつ、からかわれていることに気がついていない。そうだよ、と微笑むクレナイが、隣の真白でもギリギリ聞こえるくらいの声量で、つまんないと呟く。何だか善が不憫になってきた。
 今度から、善と本名を呼んでやろう。たまには。
「蘇芳君にはあだ名は無いの?」
「特には。精々、コイツがスオーって伸ばすくらいですわ」
「ふうん」
 これには食指が動かなかったらしい。あっさりと流して、クレナイは最後の唐揚げを口に放り込み、食事を終了した。
「学生さんは、まだ訓練があるんだよね」
「ああ、うん。夕方に戦闘機の飛行訓練がある」
「全校生徒分? 時間掛かりそうだな……。あーそうだ、真白ちゃん、先生から呼ばれてるよ」
「え?」
 河合だろうか。特に何かをした覚えはないから、守護者としての何かしらだろう。
 誰かと目で訊いた真白に、クレナイは、名前は分からないけど、と前置きして、
「ボクのことが大ッ嫌いな先生」
「…………うげ」
 喉の奥から、思い切り嫌悪感を表現すれば、あははとクレナイが楽しそうな笑い声を上げたのだった。

 藤原がいるのは、研究棟――ではなく、講堂だった。
 モニターや机などはそのままだが、人がごっそりいなくなっている。いるのは、藤原と、浅葱だけだった。二人で何かを話している。
 あの中に入るのには、勇気がいる。何を言われるのか……いや、大体想像はついているが、想像したくない。
 十中八九、クレナイのことだ。あの傍若無人ぶりを何とかしろとか、守護者としての責務とか、そういうことだろう。真白にはどうにもできないというのに無理難題を押し付けてくれる。
「……真白、招請に応じ参上しました」
「来たか」
 応じたのは浅葱だった。藤原は隣で厳しい顔をこちらに向けただけだった。
「早速だが、少々質問がある。ミハシラ様のことだが」
「はあ……わたしがお答えできることは、そう多くはありませんが」
「お前は黙って質問に答えろ」
 横からぴしゃりとぶしつけな言葉が叩きつけられる。相変わらず藤原は癇に障る物言いをする。何とか表情には出さないよう我慢して、質問を促した。
「ミハシラ様は、人が死ぬのをお嫌いになる人か」
「……は。ええと、そう、ですね」
 ――ミハシラ様のためなら命も惜しくないーって言う子。そんなの重いだけじゃない。――
 ――二十にもならない若い子が、死んでもいいなんて、口にしてほしくないよ。――
 クレナイの言葉が脳内で再生される。それを口にしたときの、寂しそうな表情も、網膜に蘇る。
「命を粗末にするなと、全校生徒に仰られました。……自分のために命を捨ててくれるな、と」
「それは、偽りでなく?」
「偽りを言う利益がわたしにありますか?」
「そうではない、馬鹿め」
 藤原がこれ見よがしに鼻で嘲笑する。どういうことかと目を向けた真白に、口を皮肉気味に歪めてみせた。
「ミハシラのその言葉が、まこと本心から出たものなのかと訊いている」
「…………は」
 それは、つまり。
「国民の支持を得るための発言ではないかと、お考えで?」
 浅葱は黙然と頷く。思わず、まさか、と強く声を発した。
「クレナイ――様は、そのようなお方ではありません。心より発せられたお言葉です」
「根拠は?」
 根拠? そんなもの――あるわけが、ない。
 いや、一つあった。
「……夏の国の刺客を、逃がそうとしました」
「…………は?」
「圧倒的な力の差を見せ付けた上で、大人しく自国に帰るのであれば、殺さない、と。……結局、相手がそれを拒んだため、命を奪うことになりましたが……。それは、彼が人の死を厭う根拠にはなりませんか」
 そうでなくては、逃がすことなどありえない。むしろそれ以外の理由であのようなことを口走ったのであれば、真白が、彼を許せない。
 そんな彼だからこそ、沙那を殺した仇を逃がそうとしたその行為を、飲み下すことができたのだ。
 二人は、暫く黙っていた。驚いているようにも、言われたことを咀嚼しているようにも見えた。
 そして、漸う、
「……なるほど。この戦い……負けるやもしれぬな」
 沈鬱な表情で、そんなことを、呟いた。
 用件はそれだけだったらしい。浅葱は黙りこくり、藤原に、さっさと行け、とおざなりに手を振られた。何となく釈然としない思いを抱きながら講堂を退出すると、
「おう」
「……蘇芳?」
 壁に寄り掛かるようにして、つい先ほどまで食事を共にしていた友人がいた。
 善は、いない。クレナイもいない。一人で来たようだ。どうかしたのか、と目線で問うと、蘇芳は何故か口ごもった。
「……いや、な。ちょいと、話があんねん」
「わたしに? なんだい」
「あー、ここじゃなんやねんけど……せやなあ。ミハシラ様に絶対に聞かれへん場所がええなあ」
 そんな場所、あるのだろうか。あるとすれば女子寮だが、それは蘇芳にも立ち入れない場所だ。逆に蘇芳の部屋はというと、あえてクレナイが来ることはなさそうだが、真白がお邪魔するのが難しい。基本的に異性の寮への立ち入りは厳禁なのだ。
「……絶対に来ない、ということは無いけど、来たらすぐに分かる場所なら、心当たりがあるよ」
「ほんまか? じゃ、そこでお願いしますわ」
 一体どういう用件なのかが気になったけれど、すぐに分かることだ。
 真白はそれよりも、その蘇芳の話というのが、善にも聞かせたくない話なのだろうか、ということだった。
 真白にとって蘇芳は、確かに他と比べればまだ話をする方だった。だが、特別仲がいいというほどではない。基本的に間に善が立って、何となく巻き込まれるようにして話す関係だ。
 蘇芳単独で真白に話とは珍しい。だが、それを率直に言うのは少し憚られた。
 蘇芳の表情が、どことなく、暗かったからだ。
「そういえば、あの藤原に何言われたん?」
 前を気にして歩きながら、横目で蘇芳を窺っていると、不意に蘇芳はニヤッと笑った。真白が藤原嫌いなのを知っていて、からかっているのだ。藤原の顔を思い出すだけで、真白の眉間にしわが寄った。
「ああ、それは…………大したことじゃないよ」
 クレナイのことで、と言おうとして、口を噤む。
 ――大半の生徒は、ミハシラ様のためなら命など、という人々だ。迂闊に、クレナイの性状について話すのは控えた方がいいだろう。
「なんや、気になるなあ。大したことかどうかは、わいが決めるて」
「……君の話が終わった後でなら、いいよ」
「ほー。ま、公平っちゃ公平かあ。けど、そう言ったからには守りや? 後になって、やっぱ無理、とかあかんで」
「分かっているよ……」
 ――真白が会談の場所に選んだのは、食堂だった。
 相変わらず混んでいる。だが、一時間ほど前に比べれば、さほどでもなかった。一つ二つは席が空いている。
 セルフの飲み物だけを持って席につくや否や、蘇芳に思い切りため息をつかれた。
「まさか、食堂たぁな……」
「すぐに分かるだろう?」
「ま、せやけども……まあええわ。別に、他人に聞かれても困る話やないし」
「そうなのかい?」
「何も知らへん有象無象にはな」
 手厳しい。蘇芳には、辛辣な言葉を平然と吐く節がある。それを本人も自覚した上で尚言っているのだから、腹黒、と言われてしまうのも詮無いことだ。
「それでやな」
 ぐいっと煎茶を呷って、蘇芳は本題を切り出した。
「あの人のことやねんけど」
「あの人?」
「赤毛のあの人や、察しぃ」
 赤毛――クレナイのことか。誰にでも適用できる代名詞で言われても困る。
 だが、あえてそのように呼ぶということは、周りに理解されては困る話、なのだろう。今更、食堂を選んだことを後悔した。
「わい、あの人のこと、どうも好きになれんわ」
「……え?」
 無表情に告げられた言葉に、紙コップを運ぶ手が止まる。
 蘇芳は真白と目も合わさぬまま、備え付けのナフキンを取り、何かを折り始めた。
「なんやろな。自分でもよう分からんのやけど……どうも、合わん。善はあの通り、頭お花畑やからな、親しみやすくてええ人や、とか思っとるんやろ」
 善のことをいつものあだ名で呼ばない。蘇芳は真剣なのだと分かった。
 分かった途端、真白の掌が汗ばみ始めた。――何故か、自分が面と向かって、好きじゃない、と言われているみたいだった。
「でも、さっき会って話したばかりじゃないか。決め付けるのは早いよ」
「感覚や。感覚で嫌いや思たらもうどうしようもあらへん。それに、それだけやない」
「それだけじゃない……?」
「……友達の話、したやろ」
「クレ……その人に、友達がいないのはもっともだって話?」
「せや。そんときに、あー無理やわ、て思た。あの人は……口先だけやねん。お前の友達に似とる」
「え?」
 友達、とは、誰のことなのか。だが聞き返す間もなく、蘇芳は言葉を継いだ。
「友達欲しいとか言うとるけど、ホンマはそないなこと思っとらへん。なるほどて言うてても、腹の底では別のこと考えとる。……まあ、それも処世術や。何でもかんでも思たこと出しとったら、それこそアホや。大体わいかてそういうタチやしな。せやけど……」
 きらり、と。蘇芳の目が、重い光を走らせた。
「あの人は、自分自身にも嘘ついとる」
「自分、にも?」
「友達欲しいんは嘘、言うたけどな、それはある意味間違っとる。多分な、友達なんかできるはずない、て思とるんやわ。いや……友達なんかおらん方がええ、やな。それは、わいがあん時言うたことと関係あるやろ」
「対等に付き合える人がいない、だったかな」
「そ。妬み僻み、比類ないわ、わいらただの人間が抱えるもんからしたらな。結局、傷つくだけやねん。あの人も、相手も」
 それだけじゃない、と思う。蘇芳の言うことにも一理あるだろう。だけど。
 クレナイと、人間と。生きる長さは段違いだ。それこそ、喪失に、別離に、傷つくだけ。
 ――恐らく。傷ついてきたのだろう、これまでの生で。
 そう思うと、クレナイの笑顔が、とても哀しくなった。
 あの時。真白が沙那の亡骸を前に呆然としていたとき。自室で悲しみに浸っていたとき。彼は、どんな思いだったのだろう。
「しゃーないと思う。そうやって自分を誤魔化さんと生きてけへんくらいの重荷なんちゃうん? わいはあの人と同じように生きてへんし、これからもできひん。せやから、理解できひんのもしゃーない。この辺りは結局感覚や。慮れるけど、理解も納得もできひん。ただ自分には正直なわいと合わへんかった、そこに誰の落ち度もない。それだけや」
「…………」
「……ま、これも全部推測やけど。なんとなーく、そうちゃうかなって思っただけやし、間違っとったらすまんな」
 蘇芳は、あっさりと深刻な雰囲気を棄てて、軽く笑った。だが、思慮深い蘇芳のことだ。自信を持っていることでなければ、こうして口に出すまい。
 だからこそ、気になったことがあった。
「それで、どうしてそれをわたしに?」
「なんでて、そらあんたが一番あの人のそばにいるからやろ。親切心や。小さな親切、大きなお世話っちゅー奴」
 まあ、と一息、蘇芳は煎茶を一気に飲み干した。
「可哀想、て思うんやったら、あんたが友達になったったらええわ」
「……え?」
 その言葉、ではなく。その口調に、疑問を覚える。
 どうして、突き放すような、傷口にナイフを突き立てるような、冷酷な言い方をするのだろう。
 今まで聞いたこともない苛烈で冷淡な物言いに、あっけにとられる。そんな真白に、蘇芳は皮肉気味に口の端を歪めた。
「言うたやろ。わいはあの人のこと、好きになれんて」
「言った、けど」
「ええ加減理解せえや。貧乏くじ引かされたんやで、あんた。一番死にやすい場所に勝手に置かれたんや。仲良うなんて思いなや」
「それは、違うよ、蘇芳。彼だって言ってくれた。死なせたくない、いっそ逃げて隠れていてくれてもいいって。それに、それくらいわたしだって」
「なんや、弁護しとんのか? 三日も経たんのに、仲のよろしいこって」
「からかわないでくれ! 蘇芳、キミだって、ミハシラのために命を捨てる覚悟なんじゃないのかい? わざわざわたしに取り次ぎを願うほど、会いたがっていたのに。それなのに、貧乏くじだって? 名誉なことだとは思わないのか」
「お前。それ、本気で言うとんのか」
 刹那。温度が、一度下がった気がした。
 蘇芳の鋭い眼光に、思わずひゅっと息を呑む。一変した彼の周りの空気は、まるで肌を切り裂くようだった。
「死が名誉なんてアホらしわ。死んだら元も子もあらへん。英雄やなんやて祭り上げられても、死んだ後のことなんか関係ないわ。……正直な、数十分までお前のこと誇らしいと思っとったわ。それは隠さへん。ミハシラの傍にいてお守りするなんて、なんて栄誉やってな。けど、失望してん、あの人に」
 失望。その二文字が、真白の胸を鈍く貫いた。
「……あんたが部屋出てった後にな、少し話してん。お前のこと」
「え」
「そしたらな、あの人、何て言ったと思う? 生き残れなさそうだよね、やと。なんやそれ。生き残らせるんがあんたの役割なんちゃうんかい!」
 蘇芳が激昂を拳に込めて机に叩きつける。空になった紙コップが浮いて、倒れた。
 周囲が驚いてこちらを窺う。だが、蘇芳がぎろりと睨みを利かせれば、誰もが目を逸らし、元の喧騒が戻った。
「……わいは、繁栄とかどうとか、そんなんに興味ない。ただ、生き残りたいだけなんや。そのために戦う。死ぬなんて御免や。正直、守護者なんてこっちから願い下げや」
 それは、真白も同じだ。だけど、蘇芳の目に宿る苛烈な光に、思わず背筋が寒くなった。
「せやから、わいらを生き残らせてくれる人は素晴らしいと思った。英雄やと思った。……それが、あの体たらく。自分に嘘ついて、周りに嘘ついて。へらへらふらふらしよって。聞いたで? 夏の刺客、逃がそうとしたんやってな」
 講堂での話を聞いていたのか。瞠目する真白に、蘇芳は口の端を歪める。
「わいらにとって、あいつらは敵や。許せへん仇や。それを、逃がすやと? 馬鹿馬鹿しすぎて言葉も出えへんわ。あの人は、結局わいらのことを何とも思っとらん。口では何や言うてても、簡単に切り捨てるに違いないわ」
「それは、」
「違う、てか。お前にあの人の何が分かんねん」
「君だって同じだろう。むしろ、君こそ会ったばかりじゃないか」
「知らんかったか? わいは見限んのが早いねん。大体、お前と一緒にせんといてくれんか。『優しうしてくれたらええ人や』なんて単純な思考は生憎持っとらんねん」
「っ」
 その言葉は、何より胸に刺さった。
 それが真実だったからだ。
「……ま、何だかんだ言うても命の恩人やもんな。最上の”ええ人”や、庇いたくもなるわ。けど、いつか気付くで。所詮、神は神。人間とはちゃうんやってな」
 吐き捨てるように言って、蘇芳は音を立てて立ち上がる。真白の反論は聞かず、食堂を出て行った。
 後に残ったのは、呆然とする真白と、二つの紙コップ。
(簡単に切り捨てる)
 そんなはずはない。だってクレナイは、あんなに哀しそうな顔をしていた。命を粗末にするなと、心から言っていた。
 それを、疑いたくはない。
 ――でも。
「…………」
 真白にも。クレナイが一体何を考えているのか、全く、分からないのだ。
 何が嘘で、何が真実なのか。まるで見当がつかないのだ。
 ……何よりも。蘇芳の激烈で、それでいて冷たい目が、脳裏にこびりついている。
「どうして、上手くいかないんだろう……」
 蜜柑のことも。蘇芳のことも。クレナイの、ことも。
 守護者にさえならなければ、こんなことはなかったんだろうか。こんなに嫌な気持ちになることは、なかったのだろうか。
 その答えは、誰にも分からないものだと、知っているけれど。




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