自室に戻ると、そこには先客がいた。 「あれ――蜜柑さん。もう大丈夫なのかい?」 「う、うん。真白ちゃんも、無事でよかった……」 先客というよりは、本来的にはこの部屋の住人だった。趣味のいい椅子に腰掛けてたおやかに微笑む姿は、まだどこかやつれているようだったが、目覚めてよかった。教室にはいなかったから、さっきまで保健室にいたのだろうか。本調子、というわけではないようだ。 真白はベッドの下にしまっていた大きな旅行カバンを引きずり出しながら、蜜柑に話しかけた。 「これからのこと、聞いた?」 「うん……保健室の先生が教えてくれた。ラグナロクが……始まるって」 「……蜜柑さん、ラグナロクとかミハシラとか、知ってた?」 蜜柑は、きょとんとして首を傾げた。 「え? う、うん、勿論」 「そ……そっか、そうだよね。勿論、か……」 やはり自分が知らなさすぎただけらしい。結局ラグナロクについては自分で調べてくれと、ミハシラ自身に言われたのだった。明日、図書館は開くだろうか。本を借りて勉強しなくてはならない。 「わ、私、御伽噺とか神話とか好き、なんだ。だから、ラグナロクは……怖いけど、ミハシラ様には会ってみたいな」 「そっか、集会には行ってないんだっけ。部屋に行けば会えると思うよ。河合先生もいいって言ってたしね」 「ほ、ホント? 行ってみようかな……。真白ちゃん、一緒に、行ってくれない……?」 「ああ、いいよ、そのつもりだから。ちょっと待っててくれるかな……。……神話かあ……全っ然興味なかったからなあ……」 善には、「興味あってもなくても常識だ」と言われそうだ。 寮に持ち込んでいる荷物は少ない。服や趣味の物以外の生活用品は、全て学院から支給されるからだ。服にしても、学院内における生活では制服が絶対だから数が少ない。特段趣味もない。さほど時間も掛からずに、荷物をまとめられてしまった。 「……真白ちゃん、何してるの?」 疑問の形を取っているけれど、その表情には不安が差している。どじな部分があっても聡明な彼女のこと、真白の一連の動作を見るだけで、既に答えは弾き出しているのだろう。 その表情に罪悪感を覚えるが、しかし、どうしようもなかった。 「部屋を、移ることになったんだ」 「そ……そんな、急に? どうして」 「それはー……」 ――ホームルームが終わり人がいなくなった教室で、真白は河合に一枚のプリントと、徽章を渡された。 徽章は、秋の国の紋章――秋の守護者であることを表すものらしい。常に身に着けておかなければいけない。 そしてプリントには、守護者としてのこれからのことが書いてあった。 「まず、部屋の移動だね。学習棟と学生寮は遠いからさ、ミハシラ様の部屋近くに移動だよ。本来なら同室が望ましいけど、さすがに女の子じゃそうもいかなくてさー。その辺り、おカタイ偉いさんも分かってるんだなあ、意外だよ。そーれーかーらー、基本的にはミハシラ様と行動を共にしてもらう。ラグナロクの最中でなければただの世話役なんだから、そういう仕事も勿論あるよ。身支度とかかな? 必要ないと思うけどねー。あーでも、君は学生でもあるから、戦闘訓練には参加。加えて特別訓練もあるな。大変だねー。あと色々書いてあるけど、読んどいて。僕らじゃなくって、ミハシラ様とちゃーんと話して決めた方がいいと思うよ。じゃ、用事はこれだけ。お疲れー」 簡単にかいつまめば、河合の言うとおりのことが書いてある。 よって今、荷物をまとめて、部屋を去るところなのだった。 蜜柑には、何故だか、友達が多くない。同室ということからの縁であるが、彼女が自分に懐いてくれているのは分かっている。ショックを隠せない様子に、誰が悪いわけではないけれど、胸が痛んだ。 けれど、守護者になった、ということを、正直に話すのは躊躇われた。蜜柑は嫉妬心を抱いたり僻んだりするような人ではないと思うけれど、正直、反応が予測できなかった。 「……こればっかりは、上からの命令だから」 そう、誤魔化すことしかできなかった。 「そろそろ行こうか……あ、ねえ蜜柑さん。ラグナロクとかミハシラについての本とか、持ってない?」 「え……あ、あるけど……色々」 「借りてもいいかな? できるだけ詳しくて……簡単なの。ちゃんと返すからさ」 その要求に、顔を曇らせていた蜜柑は、くすりと笑った。 「詳しくて簡単って、結構、難しいね」 「あ、あはは……ごめん」 「ううん、大丈夫。この辺りが……いいかな。はい」 「ありがとう」 貸してくれたのは、文庫本が二冊と、ハードカバーのものが一冊。前者は『創世記』と『四華闘記』、後者は『図解・ミハシラ物語』だった。図解本はありがたい。丁寧にカバンに入れて、一緒に部屋を出た。 「確か、学習棟の一階だったはずだよ」 「学習棟、なの? でも、結構、ボロボロだって聞いたけど……」 「……言われてみれば確かに。でもまあ、一番奥だって言ってたから、大丈夫なんじゃないかな。ミハシラの……ミハシラ様の部屋なんだから、厳重に守ってるだろうし」 ついついミハシラと呼び捨ててしまうけれど、人前では敬称を付けたほうがいいのだろう。研究者ならばともかくただの学生だから、不敬罪だとか言われたら言い返せない。 同様に、クレナイにも敬称を付けたり、敬語を使ったりしないといけないのだろう。 「…………」 正直、面倒だった。せめてクレナイが、敬語を使いたくなるような厳格な雰囲気の持ち主だったらよかったのに。むしろ、「敬語とか堅苦しいからやめてよ!」とか言われそうだ。 「あー……目に浮かぶ」 「え?」 「いや、独り言」 思えば、昨日もこうして、二人で寮を出て学習棟に向かった。同じ道筋を辿っているのに、状況は全く違う。 たった一日を境に、この世界は平和を捨ててしまった。 襲撃は主に学習棟だったが、寮や塀にも少なからず破損がある。あちこちに残骸があって、まさに別世界のようだった。 「ねえ、真白ちゃん。真白ちゃんは、ミハシラ様に会ったことがある?」 「ああ、まあ、一応ね。集会にも来たし」 「そうなんだ……私、集会のときはまだ寝てたから……。どんな人だった?」 「どんな、って――」 会えば分かる、なんてすげなく言い返すのも可哀想だ。とはいえ、たとえば何を訊きたいのか分からない。ホームルームのときのように、その性状を知りたいのか、はたまた容姿か。両方だとしたら、説明が面倒だった。 「……私たちのこと、守ってくれるのかなあ」 「あ……」 ミハシラは、国の、国民の未来を担う。国民はミハシラがラグナロクを勝ち抜けるようサポートする。そんなことは抜きにして、結局個人感情に立ち返ってみれば、死ぬか生きるか、それが根幹だった。 勝利するか否かは、全てミハシラにかかっている。言ってしまえばミハシラは武器であり心臓だ。相手の心臓であるミハシラを貫けるのは、武器たるミハシラだけ。 自分たちの生死は、当然の如く、ミハシラ次第なのだった。 守る、という言い方は少々語弊がある。だけれど結局はそういうことだ。「生きられる」のは「守られた」ということで、「死ぬ」のは「守られなかった」と、当人にしてみれば同義なのだ。 性状とか、容姿とか。そんなものを差し置いて、何よりも大事なのは、生死だった。 「……守って、くれるよ」 そう、心から信じている。 誰が何と言っても、キミを守ると言ってくれたあの力強い笑みを、死んでもいいなんて言って欲しくないと言ったあの瞳を、真白は、信じている。 だからこそ。そんな彼だからこそ、役に立ちたいと思ったのだから。 「そう、かな」 「そうだよ。命は粗末にするなって、言ってたしさ。優しい人だもん」 そう。優しい。 優しすぎて、遠い。 「……そっか。よかった……」 心底安心したように微笑む蜜柑に、沈む心が温まって思わず頬が緩む。 彼女が……心優しい彼女が、死ぬことも、ましてその手を汚すこともなければいい。なんて難しい願いだろうと、自分でも思う。だけれど、願わずにはいられなかった。 学習棟の一階に至る。その最奥、常から暗く人も寄り付かない廊下を行くと、そこにミハシラの部屋がある。 ……はずなのだが、今は、その部屋が見えない。 「人、いっぱいだね……」 「大人気だね。アイドルの出待ちみたいだ」 「……行ったことあるの?」 「えっないない、ないよ。物のたとえというか……ただの思いつきっていうか」 それにしたって、人が多すぎやしないか。廊下から溢れんばかりだ。近づけもしない。 確か、守護者としてあてがわれた部屋も、この廊下の奥にあるはずだ。これでは蜜柑をクレナイに会わせるどころか、部屋に入ることも、引いては寝ることもできないではないか。迷惑極まりない……と思うのは、創世記すらろくに読んだことのない弊害だろう。 ここまで生徒が押し寄せてくるのも、致し方ないこと。ミハシラという存在がいかに尊敬されているかは、これまでで本当に、嫌と言うほど、分かっている。 とはいえ――ため息をつくくらいは、許してほしい。 「長いこと、待ちぼうけになりそうだね」 「うん……真白ちゃん、ごめんね? 付き合わせちゃって……」 「いや、大丈夫。わたしもここに来る予定だったからさ」 それにしてもこの長蛇、いつになったらどいてくれるやら。クレナイが何か言ってくれは……しないだろう。あちらからもこちらが見えないだろうし、そもそも、自分に会いに来た生徒を無下に帰すような人ではない。 「……お、真白やん。何してんの?」 列の最後尾にいた男子生徒がこちらに気付き、話しかけてくる。確か、蘇芳といったか。善と仲がいい男子の一人で、クラスメートだ。真白も時々話すことがある。どこの地方の生まれか知らないが、不思議な訛りが特徴的だ。 「いや、あっちに用があってね」 「お、早速お仕事か? ええなー、守護者様は。ミハシラ様にいつでも会えるんやろ」 「会えるというか、会わなくてはいけないというか。あと、別に仕事ではないよ。これからの部屋があっちなんだ」 「そうか。まあでも、こら通さなあかんな。おいお前らー、守護者様がお通りやぞー!」 「様って……」 そこまで大層なものではない。 蘇芳の一言で、前方にずらりと並んだ頭という頭が軒並みこちらを向く。一拍置いて、海を割るようにザアッと道が開けられた。圧巻だ。 「ほら真白、行って来いや」 「あ……えっと、ありがとう」 「どーいたしまして。ジュース一本で堪忍したるわ」 「それ何だかわたしが悪いことしたみたいだなあ。行こう、蜜柑さん」 「う、うん……」 これは、いわば花道か。祝われているわけでもないのに通る花道は、なかなか、いやかなり、気まずいものだと初めて知った。 蜜柑は守護者ではないわけだが、ちゃんとついてきているだろうか。軽く振り向けば、 「…………?」 背中に寄り添うようにして、ついてきていた。しかし、どこか浮かない顔をしている。 どうかしたのだろうか。気になるが、ここで訊くべきではないと思い直し、前を向く。 廊下の突き当たりに一つ部屋がある。そこが、守護者の部屋だ。角を左に曲がった行き止まりにあるのがクレナイの部屋。ドアは、開放されていて、長蛇は中へと続いている。握手会でもしているのだろうか。 「とりあえず、一度部屋に入ってもいいかな。荷物置きたいし」 「うん……」 やはりどこか憂鬱そうな蜜柑を連れ、あてがわれた部屋に入る。 「うわ……」 部屋は、無駄に広かった。 壁も、床も、調度品も白。それらには細かな金色の装飾が上品にあしらわれていて、どこか、クレナイが着ていた服を思わせる。ベッドも大きくてふかふかしていそうだし、カーテンもカーペットも、何もかも清潔な高級感を持っている。いかにも、場違い、だった。 「……似合わないよなあ、こういうの」 ぼやきつつ、カバンをテーブルに置く。広げるのは、後でもいいだろう。今はとにかく、蜜柑をクレナイの所へ連れて行くのが先決だ。守護者特権で順番抜かしくらいできるだろう。 「それじゃ蜜柑さん――」 「あの、真白ちゃん」 行こうか、と続けるはずだった言葉は、意を決したように口を開いた蜜柑に遮られる。普段人の言葉を遮ることはしないのに、と驚く真白を置き去りにして、蜜柑は続けた。 「しゅ、守護者って……何か、訊いてもいい?」 「……あー、えっと……」 言いづらくてはぐらかしていた。もはや誤魔化すわけにもいかない。 「まあ、世話役、みたいなものかなあ」 「お世話、するの? ミハシラ様を?」 「うん……多分」 そういうことを、学院長も河合も言っていたはず。 蜜柑は、うーん、と考え込むように口元に手を添えた。 「でも……守護者っていうからには、お守りするんじゃないのかな」 「まあ、それが主眼らしいけど、正直クレナイの、……クレナイ様の方が強いからね。所詮わたしに求められてるのは、いざって時の盾、らしいよ」 「そんなの……!」 盾、という言葉に珍しく声を荒げた蜜柑だったが、すぐに口を閉ざしてしまった。 彼女も分かっているのだろう。戦いの場において、守る側が守られる側よりも弱い場合、そうするしかないということに。 「でも……そんなの、やだよ……」 「蜜柑さん?」 「だって、それって、……真白ちゃんが一番危険だってことじゃない? 盾、なんて……私……!」 必死に言い募る彼女の目は、今にも洪水を起こしそうなほどに揺れている。それを見たら、何も言えなくなってしまった。 「ねえ、真白ちゃん。辞退は、できないのかな?」 「それは……無理だよ。それにわたしが辞めても、誰か他の人がやらなきゃいけないことだ」 「でも、真白ちゃんは危険じゃなくなるでしょ? それなら、」 「蜜柑さん。そこから先は、言っちゃダメだよ」 その人が無事ならたとえ誰がその憂き目に遭ったとしても。それは、まこと人間らしい思考だろう。だけど、決して、言ってはいけない言葉だ。 否定するつもりはない。もし真白とて、沙那や、蜜柑が自分の立場だとしたら、同じことを考えただろう。けれど、それは胸に秘めておくべき感情だ。外に放ってはいけない強い言葉だ。 きっと、いつか――いや言ったすぐ後にでも、後悔する。自分にはこんな部分があったのかと嫌悪する。それが優しい蜜柑なら尚更のことだ。 そしてそれが、自身に向かう内はいいけれど――いずれ、外部にも牙を剥きかねない、荒々しさをも持つものだから。 彼女の目を強く見据えて、首を横に振る。蜜柑はすぐに目を逸らして、俯いた。 すすり泣く声が聞こえる。――泣かせてしまった。非が何処にあれ、涙というのは、罪悪感を否応なしに喚起する。 「……大丈夫だよ、まだ死ぬって決まったわけじゃないし。クレナイだって、盾なんかにするつもりはないって言ってたから」 「……ホント……?」 「うん。ほら、会いに行こう? 元々そのために来たんだからさ」 背を優しくさすって促せば、蜜柑は漸く顔を上げて、涙を拭いながら、涙で真っ赤な顔を綻ばせた。 「友達にこんなに思われて、わたしは幸せだなあ」 「私も、真白ちゃんが友達で、幸せだよ?」 「あ、あはは……照れるな……」 この様子を見たら、沙那はきっと顔をしかめるのだろう。二人を仲直りさせられなかったことが心残りだ。 部屋を出ると、やはり廊下ではまだ生徒が大勢犇いていた。なんとなく人数が増えた気さえする。これではクレナイとて気詰まりだろう。 「ごめん、ちょっと通してくれるかな……失礼」 謝りつつ人ごみを抜ける。開放されたままのドアから、するりとクレナイの部屋に滑り込んだ。 「……ふう。あれ、蜜柑さん?」 「…………ま、真白ちゃーん……」 「あっ埋もれてる……」 なんとなくそんな気はしていたが、案の定、人ごみをするする抜けていくのは苦手らしい。部屋の直前でこんがらがっていた彼女を引っ張り出すと、綺麗な髪が幾分乱れていた。 「あーあ」 「えへへ……ありがとう」 改めて部屋を見てみると、内装自体は先ほどの部屋とほぼ同じだった。ただ、一回りか二回りくらい大きい。とはいえ何人もの生徒が、伝説のミハシラと会うために入り込んでいるから、これくらいがちょうどいいようにも思えた。 「……あれ、真白ちゃん?」 緊張してガチガチに固まった男子生徒の応対をしていたクレナイが、ふと視線を動かして真白たちに気が付いた。真白は、片手を上げようとして――小さく会釈する。いけない、ついラフな対応をしてしまう。二人のときならいざ知らず、周りに多くの生徒がいるときにそれはまずい。 クレナイはひらひらと手を振って、目の前の生徒に視線を戻す。それからまた、真白を見た。 「…………?」 なんだろう、何か用だろうか。もしかして、今は構ってられないから後にしてくれ、だろうか。それなら仕方がない。蜜柑には悪いが、並んでもらうことにしよう。 「あっ待って待って真白ちゃん!」 蜜柑を促して部屋を出ようとすると、大声で呼び止められた。振り向くと、ちょいちょいと手招きする動作の後、両手を合わせた。何のハンドサインなのだろう。 「蜜柑さん、悪いけど、ちょっとここで待っててくれるかな」 「う、うん」 小走りで駆け寄ると、クレナイは幾分疲れた笑みを見せた。 「やあ真白ちゃん、来てくれると思ってたよ」 「は、……はあ……。何か御用ですか?」 「う、うわあ。真白ちゃんが敬語使ってる……」 失礼な。敬語くらい使える。確かに、初対面のときも敬語を使わなかった気がするが、それは、不審者だと思ったからだ。 などとはさすがに言えず、ただ黙る。それだけで不満を汲んだらしい、クレナイは、ごめんごめんと悪びれずに笑った。 「いやー……さすがのボクも、百人立て続けに相手するとさ……」 こそっと耳打ちされた言葉に合点がいく。これからまだ百は優に控えていると思うと気が滅入って仕方ないのだろう。 とはいえ、それくらい自分で言ってほしいものだ。ちらと黒目だけで訴えれば、お願い、と拝まれてしまった。 「……あの、皆さん。誠に申し訳ないのですが、ミハシラ様は少々お疲れのご様子。また日を改めてお越しいただけませんか?」 それほど長くはないのに何度か噛みそうになったが、なんとか言い切った。 生徒たちは不満の声を漏らしていたが、ミハシラの意思とあれば従わないわけにもいかない。不承不承ながら、ぞろぞろと帰っていく。 「皆ごめんねー。また明日、……時間帯を工夫して、来てくれると嬉しいな」 クレナイも甲斐甲斐しく、入り口に立って見送っている。あそこまでされては、去らないという選択をとれるはずもなかった。 ほどなくして、廊下はすっかり元の静けさを取り戻した。 「……はあー。廊下にまだあんなにいたんだ……」 「ここまで来るのが大変でした」 「だろうねー。あのまま全員に会ってたら、ボク確実に途中で落ちてたよ」 「……そんなお疲れのところ申し訳ないんですが、あと一人だけ、お願いできませんか?」 「え?」 ドアにしがみつくようにして、廊下にかつての混雑ぶりを想起していたクレナイがくるりと振り返る。その青い双眸が一度真白を捉えて、すぐにその後ろの蜜柑に向いた。 「あっ……あの、あの、私……」 「あーキミ!」 「えっ?」 顔を真っ赤にしてどもる蜜柑に、クレナイは顔を輝かせてぽんと手を打つ。どうやら蜜柑のことを覚えているらしい。きょとんとする蜜柑に、彼が抱えて校舎から連れ出してくれたことを説明しようとした矢先、 「…………どっかで会ったことあるんだけどなー?」 「え……」 腕を組んで首を捻るものだから、大げさに肩を滑らせてしまった。 「……いや、あの……教室で、わたしと一緒にいた子です。気を失っていて、クレナイ様が抱えて下さった」 「あー……あ? あ、ああ、うん、覚えてる覚えてる。大丈夫」 「……本当に覚えてます?」 「やだな、ちゃんと覚えてるよ。ていうか真白ちゃん、敬語はやめてくれないかな。なんか、肩凝っちゃいそう」 「はあ……」 本当の本当に覚えているのだろうか。反応を見る限り怪しいが、本人が覚えていると言うのだからいいだろう。追及するのも可哀想だ。 背後で置いてけぼりになっていた蜜柑を押し出し、クレナイと対面させる。蜜柑はすぐに顔を伏せてしまった。相変わらず人見知りだ。 「あはは、嫌われちゃった?」 「そっ、そんなこと、ないです! わ、私、ずっと、ミハシラ様にお会いしたいって思ってて!」 「うーん、そっか。あ、そこ座って。今お茶淹れるから」 「い、いえ、わたしが淹れますから」 「敬語」 「あ……い、淹れるから、クレナイも座っててくれ」 「ふふ。じゃ、お願い」 部屋の隅に設けられた小さなキッチンで湯を沸かす。本格的に料理をすることは想定されていないサイズだが、それにしても綺麗だ。ほとんどインテリアといっても過言ではない。だが設備は最新型だ。火が出ない、真っ平らのコンロである。水道はお湯まで出てくるし、浄水器は後から付けるタイプではなく元から浄水済みだ。断言しよう、絶対、使うところを間違えている。 ちらと二人を窺えば、テーブルを挟んで二つのソファに向かい合い、無言で座っている。 蜜柑は、緊張で頭の中が真っ白。クレナイは、ガチガチに固まった蜜柑に気兼ねしてか、声を掛けあぐねている。といったところだろうか。クレナイのことだからすぐに蜜柑の緊張も解いてしまうだろうと思っていたのだけれど、意外だ。 「あの、二人とも。お茶……緑茶でいい? コーヒーとか紅茶にする?」 「あー……面倒じゃなければ、コーヒーがいいな」 「分かった。蜜柑さんは?」 返事がない。余程緊張しているらしい。 「……彼女、いつも何飲んでるの?」 「さ、さあ……部屋では、紅茶かなあ?」 「じゃあ、紅茶で……いいんじゃないかな」 クレナイもかなり困っているようだ。早く淹れて、助太刀に行かないと。 とはいえ、まさかお湯がこちらの都合でいつもより早く沸いてくれるということはない。じりじりと待つ間、背後の沈黙が痛かった。 「……インスタントだけど」 「わ、ありがとー。大丈夫だよ、ボク庶民派だから」 「それは……よかった」 そしてやはり、蜜柑の反応はない。大丈夫だろうか。座ったまま気絶は、さすがにしていないだろうが、心配だ。 「……蜜柑さん?」 「はうっ」 肩に手を置いただけで、数センチ飛び上がった。 「紅茶、パックだけど、良かったら飲んで」 「あ、あ、ありがとう……」 「どういたしまして」 どちらのソファに座ったものか暫く悩んで、結局、蜜柑の方に座った。こっちの方が蜜柑が心強いだろうと思ったのだ。 口火を切ったのは、クレナイだった。 「それで……キミのお名前は?」 「へ、……え、ええと、蜜柑……です」 「そう。蜜柑ちゃん。おいし……可愛い名前だね」 「い、いいえそんなっ」 今、美味しそうな名前って言おうとした。思わず見つめると、そ知らぬ顔をされてしまった。蜜柑が気付かなかったからいいものの、失礼極まりない。 ミカンは確か、完全に輸入に頼った高級品だったはず。ということは、もう食べられないのか。一度だけ、何かの機会で食べたことがある。味は酸っぱい、としか覚えていないが、それでも少し寂しい。 そしてまた、静寂が落ちる。さすがのクレナイも、コーヒーを啜りつつ、困り果てた様子で、ちらちらと蜜柑を窺っている。 ここは、自分の出番だろう。努めて優しく話しかける。 「蜜柑さん。何か、言うこととか、ある?」 「あ……えっと、その……」 暫くもごもごと言いあぐねた後、意を決したかのように、蜜柑はきっと顔を上げた。 「あの、お、お訊きしたいことがあるんです!」 「う、うん、何?」 急に声を大きくした蜜柑にクレナイは驚いたようだったが、これぞ好機と、姿勢を正した。 「その……い、色々、あるんです」 「答えられることなら、いいよ」 「……ひ、一つ目、なんですけど……ミハシラ様は、元々は普通の、私たちと同じ、人間でいらしたんですよね? それで……どうして、ミハシラになることを決意されたんですか?」 「……うーん、そこ来ちゃうかあ」 それは、真白も気になっていたことだ。蜜柑と一緒になって身を乗り出す。 クレナイは背もたれに背を預けると、そうだなあ、と首を傾けた。 「キミなら、ミハシラになれと言われたら、どうする?」 「わ……分かりません。迷う、とは思います……」 「そっか。ボクは、……迷わなかったな」 「どうして?」 思わず口を挟んでしまったが、蜜柑も訊きたいようだった。クレナイはちょっとだけ苦笑すると、コーヒーを一口、口に含んだ。 「ボクと、キミたちとは違う。キミたちのように、真面目に勉強して、難関の学院に入って、将来有望と言われるような幼少時代じゃなかった。それでは、答えにならない?」 つまり、彼は、特別に憧れて、特別を選んでしまったと、そういうことだろうか。 そんな風には――思えない。千年という歳月が、彼自身を成長させたのだろうか。 「今は、その選択を、どのように思われてますか?」 「あはは、なんだかインタビューみたいだね。そうだなあ……後悔は、してない……かな。あの時こちらを選んだからこそ、今があるしね。悪いことばかりでも、なかったから」 「……そう、ですか」 蜜柑は神妙に頷いて、少ししてから、また質問した。 「じゃあ、えっと、二つ目……です。ミハシラ様は、他の国のミハシラに、お会いしたことはありますか?」 「ボクは……無い、かな。いや……夏のミハシラには会ったことがある。だけどそれは先代だよ」 「先代? ミハシラに先代も当代もあるのかい?」 「まあ、花晶自体には無いけどね。ミハシラだって、不老ではあるけれど不死じゃない。致命傷を負えば死ぬ。その時は、新たな器を選ぶんだ。原因は、知らないけど、夏のミハシラはもう別の人に変わってるはずだよ」 「へえ……」 てっきり、不死なのかと思っていた。けれど確かに、不死であれば殺し合うという前提自体成り立たないし、守護者も必要ない。 「そうですか……どのような方なのか、興味があったんですけれど」 「ん……器じゃなくて、花晶の人格なら答えてあげられなくもないけど……」 「本当ですか! ぜひ、お聞きしたい、です」 花晶に人格というものがあるのか。真白にはまずそこからである。とはいえ口に出したら馬鹿には、されないと思うけれど、クレナイに苦笑されそうだから、やめておいた。いかにも知ってましたという風を装っておこう。 二重人格、のようなものなのだろうか。ぼんやりと想像するけれど、二重人格でも、そういう人に会ったこともない真白には、いまいち分からなかった。 「まずアキ……ああ、花晶たちのことは、国と同じ名前で呼んでるんだけど、アキは無口だな。たまに喋ったかと思うと言葉少なだし、聞き返しても答えてくれないし、よく馬鹿にされるし。いまいち何考えてるか分からないんだよねー」 「は、はあ……」 クレナイの口ぶりだと、上手くやれていないような気がする。大丈夫なのだろうか。 「で、ここからはアキからの又聞きなんだけど。ええっと……フユは、…………高飛車なお姫様タイプだってさ」 無口という割には想像しやすい情報を提供してくれる。もしかして、クレナイが分かりやすく言い換えてくれているのだろうか。 「ナツは…………難しい言葉使わないでよ……うーん、真面目、かな? 堅物らしいよ」 「それでは、春の花晶は、どういう……?」 「ハル、は……あれ? アキ? おーい…………黙っちゃった。ごめんね、情報源が口を閉ざしちゃったから、分からないや」 「あ、いえ、大丈夫です」 そう言って蜜柑は笑うけれど、正直、気になる。あと一人くらい教えてくれてもいいだろうに。アキというのは、気難しい御仁のようだ。 「じゃあ……最後、なんですけど」 「はいはい、なんでしょう」 「……どうして、真白ちゃんを、守護者に選んだんですか?」 思わず蜜柑を見る。彼女の横顔は、いつもの臆病な色は残っていたけれど、真剣に、クレナイを見据えていた。 クレナイはちらと真白を一瞥して、蜜柑の視線を受け止める。それから暫く、無言でじっと見つめた。そうして漸う、にっこりと、破顔した。 「ふうん。キミは、そういう人なんだ。……何か、ご不満?」 「……クレナイ?」 その言い方が、どこか棘があるように思えて、つい名を呼ぶ。けれどクレナイは、微笑んだまま蜜柑から目を逸らさない。蜜柑も、くっと唇を噛んで、見返した。 「……はい」 「そう。それは――いや、ここはキミの顔を立てて、よしておこうか。そうだなあ……どんな理由があればキミは納得するのかな?」 「…………」 「きっとどんな理由でも、真白ちゃんである限り、納得しないんだろうね。それなら、この質問に意味はないんじゃない?」 「あ、あります。だって、納得するしないじゃなくて、私は知りたいんです」 「キミが質問する意味じゃない。ボクが、キミの、その質問に、答える意味がない。伝わらなかったかな?」 「……っ」 そんな突き放す言い方はあんまりだ。真白は見かねて立ち上がった。 「ちょっとクレナイ、急にどうしてそんなに喧嘩腰なんだい? 蜜柑さんは、わたしのことを心配して、」 「真白ちゃん。質問しているのは彼女で、それに答か黙何れかを以て応えるのはボクだよ。キミが口を挟む余地はどこにもない、あってはならない。違う?」 言い返せない。ぐ、と言葉に詰まった真白にクレナイは目も向けず、ただ蜜柑を見つめる。蜜柑は、暫しの間の後、遂に耐え切れずに目を逸らした。 「ねえ蜜柑ちゃん。ボクからも質問してもいいかな」 「……はい」 「キミは、ミハシラのために命をも捨てようと思う?」 その問いに、蜜柑は少し考えて、首を横に振った。そっか、とクレナイは笑う。 「もしボクが、真白ちゃんより先にキミと出会って話していたら、キミを選んでいたかもしれないな」 「え……?」 「でも、まあ――すぐにこっちからごめんなさいしたかもね。ボクは嫌ーな奴だからさ、鏡を見るのは嫌いなんだ」 その言葉の意味は、真白にはよく分からない。だが、蜜柑には、分かったらしい。今にも泣きそうな、だが何かをこらえるような、複雑な表情で俯いている。その様子を、クレナイはただ見ている。 真白は、何も言えなかった。言葉が見つからなかった。――感情のままに反駁しても、何の意味もない。この問答自体を理解できていないからだ。 理詰めではないくせに、完全に感情で自律することができない中途半端。いっそどちらかに偏っていれば楽なのに。 暫くの沈黙。蜜柑は徐に紅茶を飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。 「……ありがとう、ございました。失礼します」 「うん、バイバイ」 「あ、蜜柑さん、送るよ」 「大丈夫……またね、真白ちゃん」 儚げな笑みを残して、蜜柑は出て行く。その背が、廊下を曲がって見えなくなっても、真白は暫く部屋の入り口に立ち尽くしていた。 「自覚あるんだ。無いよりはましか……あっても直す気が無いのか。それはそれで嫌だなあ」 独白に振り向くと、クレナイは何事もなかったかのような顔をしてコーヒーを飲んでいる。 「……クレナイ。さっきはどうして、あんなことを言ったんだい?」 「ん? あんなことって?」 「質問に答える意味がないとか、すぐにごめんなさいしたかも、とか。彼女に失礼だよ」 するとクレナイは、ぐるりと目を回して、呆れたようにため息をついた。 「失礼、ねえ……」 「蜜柑さんは、守護者になったら危険だからって、わたしのことを気遣ってくれたんだ。それなのに……酷いよ、あんな言い方」 「真白ちゃんさあ、騙されやすそうとか馬鹿正直とか、言われたことない?」 「っそ、それは、関係ないだろう」 「あるよ……なんでかなあ、真白ちゃんは賢いはずなのに鈍感だなあ。それ、命取りだよ?」 「……ワケの分からないことばかり言わないでくれ」 「それはボクの台詞」 全くもって、彼の言いたいことが分からない。どういうことか説明してほしいと言い募ろうとした真白を遮るようにクレナイは立ち上がり背を向ける。その手には、マグカップが二つ握られている。 「あ、洗い物ならわたしが」 「いいよ、これくらいできる。箸より重い物を持ったことがございませんの、なんて箱入りじゃあるまいし、身の回りのことは自分でするよ」 「……でもそれじゃあ、わたしの仕事がないよ」 彼の剣にも、盾にもなれず、世話役としての責務さえ果たせないとあっては、さすがに居た堪れない。しかしクレナイは、肩越しにちょっとだけ振り向いて、苦笑した。 「それでいいんじゃない?」 「あ…………」 水音が会話を断絶する。それ以上は何も聞かないというかのようで、真白は口を噤んだ。 ――そうじゃなくて。確かに面倒は嫌いだけれど、それはこんな風に、何もするなと取り上げられることを望んでいるのではなくて。 部屋を見回す。元より物が少ない部屋だというのもあるけれど、テーブルも、ベッドも、人がいた痕跡というのが見当たらないほどに整然としている。椅子にマントが掛けてあるくらいで、それも無造作ながら適当ではなく、初めからそこにあったかのように自然だ。 本当に、何もできない。まともに話し相手にだってなれない。――だったら、守護者じゃない方が幾分ましだ。 否定されても、役に立ってみせる。数時間前はあったはずの雄々しい気概が、水を掛けられたかのようにしぼんでいく。 「……あのさ真白ちゃん」 不意に声を掛けられて、いつの間にか下を向いていた顔を上げる。クレナイはキッチンに寄りかかり、洗い終わったマグカップを拭いつつ言った。 「愛情の反対は無関心。その通りだと思う。だけどじゃあ、憎しみの反対は全体何なんだって思ったことはない?」 「……急に、何?」 「……その答えは、今でも分からないけれどね。そう、キミがもし、心底憎い相手がいて、けれどそれを感づかれたくないとき、どんな表情をする?」 質問の意図がよく分からない。けれど何かしら答えないことには、それを教えてくれることもないだろう。真白は目を閉じて想像してみた。 ――目の前には、沙那を殺した、あの刺客。だけど自分は、彼には憎しみを感づかれてはならない。そんなとき、 「…………笑う、かな」 クレナイは、その答えに満足したのか否か、小さく口の端を持ち上げた。 「そうだね、ボクもそうするかも。けれど笑顔というのは、それだけじゃない。たとえば怪我をして、たとえば何かを失って、傍にいる誰かを心配させまいとするとき、人は笑うものだ。笑顔が隠すのはね、憎悪もだけれど、一番は痛苦だよ。それから恐怖もあるのかな? まあ、恐怖の高まりのあまり笑い出してしまうこともあるようだけれど……」 「ねえ、それが一体何なんだい? そろそろ教えてくれてもいいだろう」 「……じゃあね、真白ちゃん。臆病が隠すものは、何か分かる?」 ふと、クレナイはドアへと目をやった。その唇が、皮肉な笑みを形作る。 「凶暴性だよ」 カチャン。乾いたカップを置く音が、虚ろに響いた。 |