「ラグナロク、だって……!」 「うそ……ただの御伽噺じゃ……」 「それじゃ、戦争……?」 「遂に……」 刹那にして、動揺が喧騒を纏って伝染する。講堂内を満たしていくさざめきを、今度は誰も止めようとはしなかった。 動揺するのは想像の範囲内、ということか。ひとしきり揺らしておいた方が得策だとでもいうのだろうか。 いや、それにしても――。 「ねえ、ヨシ」 「ヨシって言うな。なンだよ」 背をちょんと突付いて振り向かせた善は、あまり驚いてはいないようだった。 「あのさ、質問があるんだけど」 前置きに善は少し考えて、もしかして、と眉をひそめた。 「『ラグナロクって、何?』ってか?」 「すごい。どうして分かったんだい?」 「いや……お前なあ……まじかよ」 「何が?」 どうしてそんなに呆れた顔をしているのだろう。きょとんと首を傾げた真白に、善は心底呆れたように、深々とため息をついた。 「な、なんだい。ヨシも知らないの?」 「知ってるよ馬鹿! むしろ知らない方がどうかしてる。お前、創世記、知らないのか?」 「…………興味なくて」 「じゃあ、ドラマでも漫画でも演劇でもいい、『四華闘紀』は?」 「し、しか……? ごめん、分からない」 「…………あのなあ……。じゃ、じゃあ、御伽噺の『ミハシラ物語』は? 知ってるよな」 ああ、と真白は手を叩いた。 「それは聞いたことがある。確か四人の神様がそれぞれの国のために戦って……ん? ミハシラ?」 「そう、それだ。それが現実の話で、これから、いや、昨日のあれから、その戦いが始まってるんだって話だよ」 「え、いや……でも」 しかしそれは、ただの御伽噺だ。愛国心を育てるために誰かが作ったフィクションだ。だってそうだろう、現実に神様がいて、炎やら氷やらを操って戦うなんて、そんなのあるはずが――。 ――炎? 「静粛に。これから、恐れ多くも我らがミハシラ様から、生徒諸君、そして国民全体に、お言葉を賜る。姿勢を正して静聴するように。……では、ミハシラ様」 再度の注意喚起に壇上を見る。学院長は舞台袖に会釈すると、その場をすっと退いた。 そして、濃紅の幕から姿を現したのは―― 「クっ……!」 「こんにちは……じゃなくて、おはようかな。ボクが、秋のミハシラの、クレナイです。よろしくねー」 ――下ろしたてのような白。絡みつく茨をそのまま縫い付けたような緻密な金の装飾。それらに負けず彩りを放つ真紅の髪。 そして、ビイドロを思わせる透明な、碧眼。 屈託ない笑みでひらひらと手を振る”神”は、確かに、クレナイと、そう名乗った。 「ちょ、ヨシ、ヨシ!」 「なンだよ、うるさいな! 静かにしろよ」 「いやだってあれ! うそ、クレナイがミハシラって!」 「昨日お前が言ってた、助けてくれた人だろ? つうかミハシラ様を呼び捨てにすンなよ」 「え……えええ?」 声を潜めて話したが、しんと静まり返った中では目立ってしまう。しかし周りの目を気にする余裕はなく、真白は戸惑いの表情で、壇上の恩人を見上げた。 クレナイが、御伽噺に出てくる、いわゆる神様だと。到底信じられない。 だけど――あのとき、彼が炎を出したのを、確かに目撃している。そして何より、彼自身が、「ミハシラ」だと名乗っている。 もはや疑いようもない。でも。疑問符と一緒に逆接ばかりが浮かんでくる。 本当に――本当に、君がミハシラなのか? 混乱した頭でただその顔を見つめる。 と、 「あ……」 ふと、クレナイと目が合った。ニコリ、彼は破顔する。 彼は確かに、昨日の彼だ。そう確信する。漸く、脳が理解までに至り、納得に一歩踏み出した。 クレナイはすっと真白から視線を外し、一通り人々を見回した後、顔をしかめた。 「……えー……っと。ね、学院長さん。あと何話したらいい?」 「は……できれば、国民に激励を頂きたく存じます」 「激励? あー、そーゆーの苦手なんだよなー……コホン。ええと、さっき学院長さんが言ったように、ラグナロクが始まってしまいました。ラグナロク、については、各自調べてくださいね。……うーん。ボクも、というか、ボクが頑張らないといけないんですけど、この通り、ちょっと頼りない感じでして。あはは。いやでも、これはどうしようもない問題でね、ボクとしては年齢相応に、付け髭でもつけて今日のこの会に臨もうかと思ったんですけど、学院長さんに止められちゃって」 「……ごほん。ミハシラ様?」 「おっとっと。まあ数百年以上も生きててこんななので、温かい目で見守ってください。……でも、命は粗末にしないでくださいね。以上……こんな感じでいい?」 「……ありがとうございました」 ――間違いなく、クレナイだった。人を引き込む明るさも、場を和ませる雰囲気も、ノリの軽さも、紛れも無く彼だった。 生徒もマスコミも、そして教師も、皆唖然としている。恐らく、想像していたミハシラ像との相違に戸惑っているのだろう。ラグナロクとかミハシラとか、ぼんやりとした知識しかない真白でさえ、まさかと思ったくらいだ。善の言うように常識であるならば彼らの衝撃は如何ほどのものか、想像に難くない。まさか、あれだけ年若い見た目で、話し方も軽くて、話が途中で脱線して、時折学院長に確認を求めるような神様がどこにいよう。目の前にいるのである。 そんな場の雰囲気にクレナイは面白そうに笑んで、再び舞台の中心に立った学院長の脇に下がった。 「皆、誠心誠意、ミハシラ様のお力となるように。ミハシラ様は、我ら秋の国民のために戦って下さる。我らも、命を懸けてお仕えしなくてはならない」 「いや、だから、命は懸けないでって」 「本日から、世界規模での戦争が始まる。否、昨日から始まっている。我らは出鼻を挫かれたが、勝敗はまだ決していない。国民が一体となり、ミハシラ様の道を妨げるものを排除せねばならない」 「…………」 厳粛に紡がれる言。いつしか講堂は緊迫と、そして戦意に張り詰めていた。 真白は正直戸惑っていた。戦争。戦争といえば想起するのは「死」だ。 誰だって死にたくない。殺すことも、簡単に言うけれど、想像さえ易くない。 ――だけれども、既に戦は始まっている。 どうしようもなく、逃れようもなく。始められてしまっている。それを昨日、真白たち学院の人間はまざまざと見せ付けられた。 ならば。「生きる」ために戦うしかないのなら。 この手に、武器を握るべきなのか。 周囲を見回す。誰もが決意を終わらせたのか、ただ前を見つめている。 もはやミハシラの人間性など眼中に無い。国民は、ミハシラという概念だけを見つめていた。 自分たちを「守る」存在を。 「秋の国民よ! ミハシラ様のため、国のため、そして我ら自身の繁栄と安寧のため、死力を尽くし、戦おうではないか!」 学院長の喊声に、一瞬の静寂。それから、おおおお、と応の声が講堂に満ちる。それは、自分自身だけでなく、お互いを鼓舞するものだった。 死への恐怖。殺への畏怖。それは上から分厚い絵の具で塗り潰される。 死なない。そう思わなければ、戦えなどしない。 死なないからこそ、戦う。とんでもない矛盾は、しかしこの現状で立つ唯一の”理屈”だ。 ――戦争が始まる。 ラグナロクの仕組みは、よく分かっていない。後で調べないといけない。 だが、今の真白には、一つの事実だけでよかった。 沙那の、同級生の仇を討つ。 ただ、それだけで、いい。その思いだけを胸に、真白は皆と声を合わせ、腕を振り上げた。 「…………」 その様子を、一人、クレナイだけが、冷めた目で見ていた。 カツン。杖の音が響く。高まった戦意はそのままに、再三やってきた静謐は熱に満ちている。 学院長はぐるりと生徒全体を見回し、それからクレナイに目配せした。 「……代々、ミハシラ様が目覚められた折には、日々のお世話や仕事の補佐をし申し上げる世話役――守護者をつけることとなっている。今回の場合それは、ミハシラ様の御身を守護する、重大な役が主眼となる。その守護者を、生徒諸君から選びたいと思う」 波のように生まれ消える騒。その潮騒は不安でなく期待から成っていた。それだけ、ミハシラの守護者というのが、名誉ある役目なのだろう。生徒の中でも優秀な成績を修める者は、自分が選ばれるのではと目を輝かせているようだった。 しかし、真白に言わせれば、それだけ死に近くなるということだ。ミハシラは確かに強い。それは真白自身が保証する。しかし、他国のミハシラもまた強いはずだ。言ってしまえば、剣でなく盾。ラグナロクにおける守護者に求められることといえば、それだ。 クレナイは――きっと、盾にしようとはしないだろう。だが、周りはどうだろう。学院長は、枢密院は。きっと命に代えてもお守りしろとでも言うに違いない。そんなのは、正直真っ平ごめんだった。 もっとも、罷り間違っても自分が選ばれることはない。真白はほとんど他人事のように事の成り行きを見守っていた。 「な、なあ、誰が選ばれるのかな」 善が興奮した表情で話しかけてくる。対する真白はといえば、冷め切っていた。 「さあね。トップクラスの優等生だと思うよ」 「だよなー……くそっ俺ももうちょい頭よかったらなー!」 「……キミは、そんなに死にたいのかい?」 思わず、疑問が口をついて出ていた。善は、目を丸くして、 「はあ? バッカ、死にたくないから戦うンだろ?」 「でも、ミハシラの……ミハシラ様、の近くにいるってことは、より危険に近くなるってことだよ」 「……それでも、ミハシラ様のために死ねるンなら、いいかなあ」 度し難い。どうしてそこまで、ミハシラに陶酔できるのだろう。誰かのために死ねる、だなんて、真白にはどうにも賛成しかねる考えだった。 それが、家族や、恋人だというならともかく。相手は、結局のところ、赤の他人だ。 そんな思考が表情に出ていたらしい。善は分かりやすく顔をしかめた。 「……お前は、ラグナロクとかミハシラ様について全っ然知らないから、分からないンだ。勉強したら、お前も変わるよ」 「……だといいけどね」 皮肉を零しつつ、周りを見渡す。 きっと――周りにいる皆、善と同じ考えなのだろう。目の輝きを見れば分かる。 それは、心酔、洗脳とでも言うのではないだろうか。 ただの御伽噺に、それだけの魔力があるとでもいうのか。 ――沙那は。もし沙那が生きていたら、どう思うのだろう。やはり、彼らと同じなのだろうか。 「守護者は、最優秀クラスの一組の中でも、特に成績のよい者から――」 「あー、それなんだけどね学院長」 学院長の言を遮ったのは、静観していたクレナイだった。ミハシラの直々の言葉とあって、全ての視線がそちらへ集まる。クレナイは少し居心地悪そうに苦笑した。 「守護者って、必要かなあ。ボク、今までも守護者つけるの断ってきたんだよね。正直、不要じゃない?」 「しかし、そういう決まりごとです。それに、いざというときにミハシラ様をお守りするには、常にお傍近くに控える者がいなくてはいけません」 「決まり、ね……。けど、その守護者がボクより強いならともかく、そんな人がいるようには思えないな。むしろボクがその子を守るようになるんじゃ、本末転倒だよ」 ごもっとも。やはりクレナイはそう考えるだろう、真白は密かに頷く。 しかし学院長は、それもやはりというべきか、想像通りの言葉を発した。 「それについては、返す言葉もございません。しかし……貴方様の剣となることだけが、守る術ではありません」 「……ふうん?」 「盾、としての有用性は、彼らの目を見れば、お分かりいただけるでしょう」 その言葉を聞いて――慄く目は、真白には、見つけられなかった。 クレナイは、しかし生徒たちを確認することはなく、 「……成程ね」 全てを了解していたであろうに、それで初めて得心したかのように頷いた。 「ならさ」 「はい」 「せめてボクに選ばせてくれない? 守る云々はともかく、傍にいるんじゃ、気が合う子じゃないとね」 「……仰せのままに」 少し渋い顔をした学院長だが、逆らう気はないのだろう。彼の生徒たちは遍く「盾」としての有用性はあるらしいから、誰であろうと構わない、ということだ。恭しく礼をし、手に持っていた分厚い冊子を手渡した。名簿だろう。きっと生徒全員の顔と名前、成績などが載っているに違いない。 あんなものを見ても、気が合うかどうか分からないだろうに。呆れた目で見守る中、クレナイは受け取った冊子にろくに目も通さず閉じて生徒たちを見た。ほとんどの生徒たちが、自分を選んでもらおうと背筋を伸ばし彼を見つめる。 熱心なことだ。目の前でぴんと張られた善の背にちょっかいでもかけてやりたくなる。 「うーん……じゃあねー……」 早く選んでくれないだろうか。正直もう寮に帰りたい。ラグナロクについて調べて、それから、沙那の仇を討つために特訓しないといけないのだ。昨日みたいに、怯えて守ってもらうだけじゃいけない。 それじゃ、大切なものを、守れない。 「よしっ。じゃあ、あの子にする!」 明朗な声に、やっと決まったかと顔を上げれば―― 「え……」 パチリ、と。クレナイの綺麗な蒼の双眸と、かち合った。 「えー……っと? 真白ちゃん? だっけ。あの子あの子、銀髪の、ほら、あそこにいる」 「し、しかし、その者は六組の」 「なぁに? ボクの決定を覆すわけ?」 「っいえ、そのようなことは。……ほれ、そこの君。早くこちらへ」 「……はあ? え、ええっと」 一体、何が、どうなっているのか。混乱の極みにある真白の頭を、善がぱしっとひっぱたいた。 「痛っ」 「は、早く行けよぉ! 別に、悔しくなんか、ないンだからなあ!」 「な、何泣いてるんだいヨシ」 「ヨシって言うな馬鹿ああぁ」 お決まりの文句を言いながらも、善はよよと泣き崩れてしまった。対応に困る真白を、壇上では学院長が呼んでいる。教師陣も早く行けと言わんばかりに見てくるし、生徒たちに至っては、 「なんで、六組が……」 「凡人のくせに……」 いわれもない僻みを囁く。理由ならこちらが訊きたい、そんなにやりたいなら代わってやる、と言いたいのだが、 「え、守護者の子も紹介するの? うわー、めんど……いや何でもない。真白ちゃーん、悪いけど、こっち来てくれるかなー?」 この事態を引き起こした渦中の人物から大声で名前を呼ばれては、逃げるわけにもいかなかった。 つまり、守護者に選ばれた、ということだ。何故か、などと考えたところで分からない。平々凡々な頭脳ではミハシラ様の崇高なお考えを推し量ることなどできるはずもない。辞退は――できないか。ともかくも、クレナイに直に申し立てるしかないのだろう。 とりあえず、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかなかった。こういう、皆の注目を集めるようなことには慣れていない。無駄だと知りつつも、なるべく体を縮め、足早に舞台へと向かった。 壇上に上がった真白に、クレナイは、 「あはは、ごめんねー真白ちゃん。まさかこんなことになるとは思わなくてさ」 と、全く申し訳なくなさそうに笑った。無性に蹴飛ばしたい衝動に駆られる。しかし、できない。できるわけがない。むしろ、どう言葉を返していいのかさえ、分からなくなってしまった。 「……いや……ええと、その」 「そこの。真白といったか。こちらへ」 「あ、は、はい」 学院長に手招きされ、マイクが置かれた台の前へと立つ。 ここからは、講堂全体がよく見渡せる。嫉妬と羨望の目で見上げる生徒たちも、厳しくも優しい目で見つめる教師たちも、シャッターを切るマスコミも、否応なしに一望できた。 あのカメラは、もしかして、生中継だろうか。故郷の皆が見ているかもしれない。いやそれ以前に、十中八九全国中継だろう。今、全国民に姿を晒していると思うと、恥ずかしくて頭が沸騰しそうだった。 「彼女が、ミハシラ様に直々に選ばれ、守護者となりました。これ以上の名誉はありますまい。さ、何か一言」 「え、わ、わたしが?」 「君以外に誰が言う。守護者としての意気込みを語りなさい」 「は、はあ……」 そんなもの、これっぽっちもない。 こういうことは、本当に、苦手なのに。どうしてこんなところに立って、フラッシュを焚かれているのだろう。お前のせいだとクレナイに目を向ければ、 「がんばれー」 そんな呑気かつ無責任な応援を、清々しい笑顔で送ってくれた。 決めた。後でこれでもかと責めてやる。 真白は腹を括って、深呼吸した。 「正直、何故わたしが選ばれたのかは、分かりませんが……ミハシラ様を、精一杯、お守りする所存です。頑張り、ます」 口からでまかせ、というのではないけれど――実感が湧かないということ以上に、たとえば今前に座っている彼らのように、使命感などというものは、欠片も持ち合わせてはいない。 一拍置いて、教師たちから拍手が起こる。それが講堂中に広がり、はちきれんばかりになった。 早く舞台から降りたい。そんな一心で、生徒たちを見ることもできず、ひたすら台を凝視する。そんな真白の肩を、ぽんと叩く手があった。 「あ……クレ、ナイ」 舞台の端の方にいたクレナイが、いつの間にかすぐ傍に来ていた。周りのことを忘れ、普通に名を呼び捨ててしまった真白に、クレナイは小さく口端を上げて片目をつぶった。 「学院長さん、まだ何かしなきゃいけないことある?」 「いいえ、ミハシラ様のお手を煩わせるようなことは何もありません」 「そう。じゃあもう帰っていい? この子とも少し話したいし」 「……分かりました。諸君、ミハシラ様はお疲れのため、辞去される。盛大な拍手を以てお見送りするように。……それでは、ミハシラ様、どうぞ。君も行きなさい」 「じゃあねー」 「あ……は、はい」 すたすたと何の気負いなく歩き出したクレナイに慌てて従い、舞台袖に入る。そこには講堂の裏口があるのだ。 「真白ちゃん、こっち」 てっきり裏口から出るものだと思っていた真白は、クレナイが手招きする方が全く違う方向なのに首を傾げた。 「そっちに行ったら戻ってしまうよ」 「いいのいいの、秘密の抜け道ー」 先まで二人がいた舞台を、中幕で挟んだ後ろ側は、ただの壁しかない。こんなところにいってどうするのか。問おうとした真白を、唇に人差し指を立てて制し、クレナイは、壁のちょうど中央辺りに手を当てた。 刹那、クレナイの掌から光が溢れる。それは幾筋もの軌跡となり、一つの紋章を描き出した。 「わ……」 光の紋章が完成した途端、壁に真四角の亀裂が走り、何もないはずの向こう側に開いた。 隠し扉だ。唖然とする真白を促し、クレナイは中へ入っていく。 続いて中に入った途端、鼓膜を圧迫するほどだった拍手の音が、掻き消えたように聞こえなくなった。 「すごいでしょ、これ。学院ができた頃からあるんだよ」 「え、でも、学院の創立は、千年以上も前だよね。そんな昔から、こんな技術が?」 「技術、かあ。これはほとんど人智を超えたものだよ。ミハシラの力があって初めて成り立つ。……というか、この施設有りき、と言った方がいいかもね」 「……ここが最初にあって、それからここを囲むように学院を作った、ということ?」 「そうそう。それ以前から、国の事業として特権階級に限り英才教育は行われてきたんだけど、こんな風に機関として成立したのはその頃。ボクが――生まれた後かな」 「クレナイが? でも、ミハシラって、要するに神様みたいなものだろう? ミハシラが国を作るんじゃないの?」 「……今はそんな風に教えてるの?」 「あ、いや……わたしは御伽噺しか知らないし、それも曖昧だから、わたしが間違ってるのかも」 「うーん、まだ目覚めて二日だから教育内容を調べてないんだけど、実際のところは違うんだよ。ま、追々ね」 中は暗い。十メートルほどの長く細い廊下の向こうに淡い光が見えるが、それ以外の光源はない。迷いなく進んでいくクレナイからなるべく離れないようにして続いた。 「……クレナイ」 「うん?」 「本当に、キミが、ミハシラなの?」 「あはは、信じられない?」 「……うん、正直。でも、納得できる部分も、ある」 暗闇の中、クレナイが苦笑したのが分かった。 「間違いなく、ボクがミハシラだよ。残念ながら、ね」 「……残念?」 それ以上クレナイは口を開かず、真白もそうするのがいいように思えて、黙々と足を動かす。 ほどなくして、開けた場所に出た。 「……ここは……?」 「目覚めの間――ミハシラが眠り、目覚める場所だよ」 部屋自体は六角形で、横にまっすぐ半分に区切った向こう側は、澄んだ水が湛えられている。風もないのにたぷたぷと揺れる波が、部屋を照らす燈の光を反射し、壁や天井に不思議な揺らめきを与えていた。 だが、どこか、聖池自体が淡い光を放っているように思えるのは、気のせいだろうか。 引かれるようにして、クレナイから離れて池に近づく。水が綺麗だからか、底が意外に浅いのが容易に見て取れた。 「この池、浅いけど広いね。なんだか、何かあるはずのものが無いみたいな、奇妙な空間というか……」 「――ふむ」 感心したような声を漏らし、クレナイは真白の隣に立った。 「真白ちゃんって、意外に感覚が鋭いんだね」 「……意外ってなんだい」 「あはは、そこは流してほしいなあ。この池には――そうだ、真白ちゃん、初めて会った場所覚えてる?」 「……校舎の横の、蓮池?」 「そうそう。あの池は、ここを模したものでさ。ここには、それはもう巨大な蓮があったんだよ。妙にすかすかしてるのはそのせい」 「巨大な蓮?」 巨大、と言うからには、この池をまるごと覆うくらいはあったのだろうか。そんなものがこの世に、なんてのは、考えたところで無駄だと分かっている。何せ隣に、現実離れが形を成したような男がいるのだ。 「その蓮はどこにいったの?」 「消えちゃった」 「消えた? そんなに簡単になくなるものなのかい」 「まさか。役目を終えたから、蓮自身が消えることを選んだんだよ」 よく分からない。そんな思いがそのまま表情に出ていたのだろう。クレナイは可笑しそうに笑った。 「さて――真白ちゃん、あんまり知らないんだよね? ボクらや、ラグナロクのこと」 「……恥ずかしながら」 「まあー……何言ってるんだか全然分かりません、って顔してたの、キミくらいだもんねえ」 「み、見てたの?」 そんなに顔に出ていたとは。今更ながら、恥ずかしい。 「そりゃあ。知ってる子はキミだけだもん」 「……もしかして、だから、わたしを守護者に選んだの?」 「あ、そうだね、それも話さないとだめか……んー。先にミハシラについて話してからでいい? その方が分かりやすいと思うよ」 そう言われれば、返す言葉もない。真白が頷くのを見て、クレナイは、ごめんね、と眉を下げた。 「――創世神話は、知ってるかな」 ゆらゆら揺らめく水面。触れれば冷たそうだが、なぜか、何の温度も感じないようにも思える。確かめる気にはなれず、それに続く短い階に腰掛け、クレナイの問いに首を横に振った。 「原初には、濁った水たまりがあった。それは海と呼ばれるんだけどね、全ての生命の源であり、いずれ帰り着く先と言われている。その海に、小さな芽が生えた。それは瞬く間に大きくなり、世界樹となった。これは――キミもさすがに知ってるよね?」 「うん。その世界樹の三本の枝にそれぞれ、夏・秋・冬の国があるんだろう?」 「そうそう。でもそれはもう少し先の話。世界樹の頂上には、怖い怪鳥が棲んでいてね。ニーズフォルって言ったかな。世界樹を荒らすんだよ。しかも海の方には、ニーズヘッグっていう竜もいて、根っこをかじるんだ。海に住む原初の三女神は、自分たちは海を離れられないから、四人の戦士を作り出し、ニーズフォルを退治に行かせた」 クレナイは床に寝転がり、淡々と説明する。高価な服だろうに、粗雑に扱っては学院長に怒られるのではないだろうか。関係ないことをぼんやりと考える。 「途中ニーズヘッグが邪魔したりして、色々苦難はあったけど、四人はめでたくニーズフォルを倒した。四人は自分たちの故郷、海へと凱旋しようとして――帰れなかった」 「え、なんで?」 「三女神が、ニーズヘッグの退治に失敗したんだ。かろうじて生きてはいたけど、肝心のニーズヘッグは悠々としている。だから女神たちは仕方なく、ニーズヘッグを海から追い出すために、毒を撒き散らした。それが、瘴気だ。肉体を持つものは著しい損害を受ける。ニーズヘッグは海を逃れ空に舞い上がり、今も、国の下の方の空にはいるって話」 「瘴気……じゃあ、女神も危ないんじゃ?」 それは大丈夫、とクレナイは笑った。 「女神は幽体だからね。いくらなんでも、自分をも犠牲にはしないさ」 「そっか……」 「説明を続けるね。瘴気のせいで、戦士たちは海に帰れない。仕方なく、樹の上の方で生きていくことにした。とはいえ、それまで三女神の庇護の下、何の苦しみもなく生きていた戦士たちは、自分たちだけで生きていくことができなかった。樹は生長しすぎていてね、上の方まで三女神の力が及ばないんだ。結局彼らは死に、その魂は海へと帰還した。三女神は、彼らをむざむざ死なせてしまったことを悲しんだ。そうして、その魂に報いるため、新たな役目を授けたんだ」 ひょい、とクレナイは起き上がる。そうして、中空に白い手袋で覆われた掌を差し出した。 「クレナイ?」 「見て」 上向けた掌。そこに――何の前触れもなく、炎が出現した。それは瞬く間に膨れ上がり、ぱっと弾ける。 「これ、は……?」 炎の繭の中には、真紅に輝く、花があった。 菱形の花弁を四片組み合わせ、それを幾重にも重ねた花。とろりと光が流れる様は、硝子細工のように硬質に見えて、だが、息をしているかのような、生気のようなものを感じる。目には見えない、鼓動のようなものが胸を強く打って――そう、これは、畏怖だ。この花に秘められた神性に、途方もない通力に、真白は畏怖していた。 クレナイがぎゅっと拳を握れば、花は跡形もなく消えた。室内に充満していた、気道を圧迫する重圧がふっと掻き消えて、詰まっていた息を吐き出し呼吸を繰り返す。その様子に、ごめんごめん、とクレナイは申し訳なさそうに笑った。 「今のが、ミハシラの正体」 「え……?」 「三女神は、戦士たちに、樹の上の方の平安を司るという役目を与えた。だけど彼らの肉体は滅びてしまっているし、あったところで、また死んでしまう。だから、世界樹の花として、命を芽吹かせた。さっきのが、その花。そうして彼らは、火を、氷を、風を、……その全てを上手く混ぜ合わせ中和する力を司った。それが、ミハシラの本来の意味。ここまではオーケー?」 「う、うん……」 「樹の上の方は、生物が暮らしていける理想的な空間となった。だから三女神は、新たな命を生み出し、そこに住まわせた。犬、猫、鳥、蛇、虫、その他諸々……それから人。そこには多分、未だ空を飛ぶニーズヘッグへの牽制もあったんだろうけど。色んな生物が樹の幹や枝に住まい、春夏秋冬、四つの国が作られた。ミハシラたちは、そんな生命の営みを見守っていた。……ところが。悲劇は起きた」 「悲劇?」 「ミハシラは強大な力を持っている。人々はそれを奪い合い、争い……ほとんど壊滅的になった。ミハシラは、所詮花だからね。自分たちで動くことはできないんだ。それぞれの力を”司る”だけで、行使するわけじゃない。悪用する人の手に落ち、力を使われれば、抗うことはできない。だから彼らは……肉体を得ることを選んだ」 「肉体を、得る?」 それが、もしかして、クレナイたちなのだろうか。見つめる真白に、クレナイは小さく微笑んだ。 「とはいえ、三女神にお願いして作ってもらう、わけじゃない。自分たちが信頼できる人間を、依り代にするんだ」 「依り代?」 「そう。一つの体の中で、体の元の持ち主と、ミハシラとが共存する。それが、ボクたちミハシラ。今じゃ、人も花もミハシラって呼んでたらややこしいから、人がミハシラ、花の方は、花晶って呼んでるね。花に、水晶の晶」 つまり――今の花が、ミハシラで。それがクレナイという人間の中に入って、ミハシラになる、ということか。 なら、クレナイは、元はただの人間の男の子だった、のだろう。なんだか想像がつかなかった。 「体を得た四人のミハシラは、器と協力し、争いを収めた。そして、それぞれは、今までのように世界樹に咲いて生きるのではなく、枝にできた土地に、人間たちが作った四つの国に分かれて暮らすことにした。……ミハシラは、言ったと思うけど、強い力を持っている。それを宿した人間も当然、その強い力を行使することができるし、何より、年を取ることがなくなる。不老になるんだ。そんなミハシラたちを、人々は神として崇め、国の象徴として祀った」 「じゃあ、クレナイは、そんな昔からずうっと生きてるのかい?」 「長生きでしょ」 ふふ、とクレナイは冗談めかして笑う。その笑みは無邪気で、とてもあの学院長の何倍も生を重ねた先達には思えなかった。 「この国の盛衰を、クレナイはずっと見てきたんだね」 「そうでも、ない」 そう言って足を組み替えたクレナイの口調に、真白はどこか違和感を覚えた。だがそれが何なのか掴めぬまま、クレナイは語りだした。 「如何に不老と言えど、元は人間だ。ミハシラの、尋常じゃない力によって生かされているにしても、その肉体にはいずれガタが来る。だからミハシラたちは、何度か長い――数百年単位の眠りにつくんだ。寿命をできるだけ延ばすためにね。眠るときは、ここにあった蓮華の中で眠る。目覚める時期は、一定じゃない。眠る時期もね。でも一度、何の因果か、全てのミハシラが覚醒する時がある。そのときが、ラグナロクの始まりなんだよ」 「……結局、ラグナロクとは何なんだい?」 「それは――」 不意に、言葉が途中で消える。不思議に思ってクレナイを見ると、 「……クレナイ?」 彼はじっと、こちらを見ていた。 まるで、目を通して心を見透かすかのような。その性状を推し量るかのような。 そのまっすぐな目に耐え切れなくて、真白は目を逸らしてしまった。 「……それは、自分で調べてくれるかな」 「え?」 突然の拒絶に驚いて、視線を戻す。クレナイは、困ったように眉を下げていた。 「実は――ボク、あんまり、上手に説明できる自信ないんだよね」 「……ええ?」 そんな馬鹿な。さっきまで、それに昨日だって、丁寧に説明をしてくれていたではないか。困惑する真白に、クレナイは、だってね、と人差し指を立てた。 「昨日、ボク、結界の話をキミにしたと思うけど、十全に理解できた?」 「え……と、」 「今までの話だって、概念の話じゃなく事実の話だから理解はできたと思うけど、ミハシラの力の説明のとき、あんまり表情が芳しくなかったよね」 「あ、いや、それは……その」 「それって多分、ボクの説明がいけなかったんだろうなって思うと……ラグナロクの話は難しいから、自信無くなっちゃって……」 はあ、とクレナイはうなだれる。これはつまり、理解力の無い自分がいけないのではないか。もしかして、さっきじっと見つめてたのは、本当に理解しているのかどうか量っていたのだろうか。 罪悪感、の三文字が、どんと真白の肩にのしかかった。 「そ、それは、クレナイのせいじゃないよ。ただわたしが馬鹿なだけで」 「学院に入学したんだ、そんなことあるわけないよ。それに比べてボクは、学が無いから……ごめんね真白ちゃん、こんな頼りないミハシラで」 「いやだから……分かった、自分で調べるから、そんなに落ち込まないでくれ」 「真白ちゃんは優しいね……」 俯けていた顔を小さく上げ、クレナイは弱々しい笑みを浮かべた。だがそれも、すぐにため息で消えてしまう。相当沈んでいるらしい。 困った。こういう、人の気持ちを慮るだとかそういうのは苦手なのだ。 ここは――下手に慰めるよりも、話題を変えてみよう。どうせ創世神話やラグナロクについては、自分で調べれば分かることだ。 真白は努めて明るい声を出した。 「あのさ、クレナイ。どうしてわたしを守護者に選んだのか、聞いてもいいかい?」 「ああ……そっか、気になるよね」 クレナイが漸く顔をまともに上げてくれた。どうやら気持ちを切り替えてくれたらしいとほっとする。 彼は両手を背後について、重心を後ろに移した。青の双眸が天井を仰いで、幾度か瞬いた。 「うーん。名簿だけじゃ人となりが分からないし、だったら知っているキミがいいなって思ったのもある」 「も? 他にもあるのかい」 「……キミは、ミハシラやラグナロクについてあまり知らなかった。いや、それを責めるっていうんじゃないよ? でも、あの場にいた中で、それはキミくらいだったと思う。守護者を決めるときだって、諦めというよりも、どうでもいいというか、選ばれたくないっていう思いもあったでしょ?」 「そ、そんなに分かりやすかったかな」 「あはは、やっぱり。それでも選んだボクは鬼だよねー」 それにしても、舞台と真白の距離はそう短くはなかった。あんな距離でよくそこまで見えたものだ。 「ああでも、誤解はしないでほしい。君が嫌だったからとかじゃなくて……その、死ぬ危険性も高くなると思ったし、盾になれと学院長や枢密院から言われるだろうというのも予想できたから、それが嫌だと思って」 「そう! それ!」 突然クレナイが大声を上げて言を遮った。その声の大きさに思わずびくっと飛び跳ねてしまう。対するクレナイは、それには気付かない様子で、嬉しそうに笑って真白の頭を乱暴に撫でた。 「うわっちょっ」 「それだよボクが求めてたのは! いやー、さすが真白ちゃん。さすがボク!」 「ちょ、ちょっと、どういうことか分からないんだけどっ……というか、やめてくれ……!」 「あ、ああ、ごめんごめん」 漸く解放されたものの、髪がぼさぼさだ。あまり気にしないタチとはいえ、これでも一応女の子である。手櫛で整えつつ睨めば、クレナイは、ごめんってー、と両手を合わせて謝った。 「昨日から、全く……やんちゃ盛りの男子じゃないんだよ」 「そうだよね、真白ちゃんは可愛い女の子だもんね」 「かっ……」 思わぬ言葉にかあっと頬が熱くなる。そんな言葉、今まで、親と沙那以外に言われたことがない。むしろ、お前女の子だったのかくらいの返しを予想して身構えていたというのに、反則だ。 「真白ちゃん? 顔真っ赤だけど」 「なっなんでもない! 全然!」 「? ああ、もしかして褒められ慣れてない?」 この反応を見る限り、からかったというわけではないらしい。余計に恥ずかしくなるではないか。頬がこれでもかというほど熱い。 「……どうせ、犬とか猫とかに言うのとおんなじ意味合いなんだろうけどさ」 「真白ちゃん?」 「独り言。それで、求めてたってどういうこと?」 「ああ、それはね、……キミの知り合いにもいなかった? ミハシラ様のためなら命も惜しくないーって言う子」 そう言われてすぐに思いついたのは善だ。しかし、あの場の雰囲気からして、皆がそのように思っていても不思議ではない。 真白には、理解できない。だから選ばれたのだろうか。 そういうのあんまり嬉しくないんだよね、とクレナイは苦笑した。 「そんなの重いだけじゃない。正直そんな立派な男でもないし。守護者って言うからには、長い間一緒にいなきゃいけないわけでしょ? 常日頃そんな態度でいられたら、肩が凝っちゃう。それに、そういう手合いは、命大事にって言っても耳を貸さないから」 「そういえば、命は粗末にしないでって言っていたね」 「うん。……ボクはさ、おかたい貴族の出でも、軍にいたわけでもない。その辺にいた何の取り柄もない子供だった。忠誠とか、自己犠牲とか、そういうカタいのは苦手だし、それに」 「……それに?」 ふ、とクレナイの目に、淡い光が宿って揺れた。 「……生きることに執着してたから、今こうしてここにいるんだし、さ。二十にもならない若い子が、死んでもいいなんて、口にしてほしくないよ」 ――何か、重い事情があるのだろう。 それを、訊く気にはなれなかった。 「大体、急に戦争って言われて、すぐに受容できるのが分からない。皆、死にたくないって思わないのかな」 「それは……」 違う。死にたくない。 だから、戦う。 そうするしかないと、明確に、ありありと、見せ付けられている。 「それだけ、昨日のことが、衝撃的だったんだ」 「だったらなおのこと、死を忌避するんじゃないの?」 「……難しいから、分からないけれど。逃げられないって、分かってるから」 クレナイが、ふっと目を伏せる。睫毛が頬に影を落として、憂いを浮き立たせた。 「本当なら、キミたちを巻き込むべきじゃないのに」 「仕方ないよ。他の国と違って軍隊はそこまで大きくないし、兵役もないから。軍学校でもあるこの学院に入った以上、有事に戦うことを承服したようなものだ」 「キミも?」 思わず、言葉に詰まった。 それだけで全て見抜いたのか、クレナイは小さく苦笑する。 「……だけど、戦うよ。わたしも」 「死ぬのが怖いのに」 「だからだよ。何もせずにいたら、死ぬからだ。……昨日みたいに」 強く言った真白に、クレナイは言葉を失う。それから、目を伏せた。 正直、舞台に立ったときは、クレナイに直々に辞退する旨を言おうと思っていた。けれど、彼の考えを聞くと、そんな気は無くなってしまった。 決して考えなしに選んだわけではないと、分かってはいた。 彼は、国民のことを、学生のことを、考えてくれている。失いたくないと思ってくれている。 その命を、守ろうとしてくれている。 ミハシラであるということが、どういうことか、正確には分からない。分かるはずもない。だけれど、守護者などとは比べられないほど重圧のかかることであろう。当然だ。国、命、未来、全てをその肩に背負うのだから。 その役を代わることも、半分こすることもできない。ならば、キミがいいと選ばれてしまったからには、その期待に応えよう。彼に寄りかかるのではなく、犠牲になるのではなく、支える存在になろう。そう思ったのだ。 ミハシラだからではない、他ならぬ彼の役に立ち、国の皆の命を守る手助けができるのなら、それは真白にとって、この上ない名誉で、誇らしいことだと思えた。 「君の言うとおり、わたしは弱い。命を捨ててもいいとは思えない。だけど、だからこそ、努力する。生きて、君の役に立てるようになるよ」 「……真白ちゃん」 「これから、よろしく」 微笑みかけた真白に、クレナイは何故か、苦しそうに瞳を揺らして、背けた。 静寂が、支配する。 この部屋は、水が音を吸収してでもいるのか、落ち着かないくらいに静かだ。もし自分一人でいたら、まるで、世界に自分だけがいるような、果てない不安に苛まれるだろう。 ここは講堂に繋がっているのに、音は全く聞こえてこない。集会はもう終わっただろうか。これからのこと、自分は何も聞いていないけれど、いいのだろうか。 「――ねえ真白ちゃん。昨日会った女の人のこと、覚えてる?」 ぽつりと。落ちるようなクレナイの声が静寂を壊す。 そう問われ、頭の中で豪炎が巻き起こる。そう――クレナイを、自分とは違うものだとはっきり感じたあのときのことだ。こくりと頷く。 クレナイの顔からは、先までの気安い笑みが消えていた。ただじっと水面を――その先にある何かを見つめている。 「あの人は、いわば、真白ちゃんと同じ立場の人間だよ」 「……どういうこと?」 「守護者――夏のミハシラの傍近くに控え守る者。夏の国は、男女関係無く国民全員が武術を学び、その腕によって地位が決まる。あの女性もかなりの手練だから選ばれたんだろうね」 確かに、彼女はどこか掴み所がないようにも思えたが、どんな所作にも隙が無かった。昨日の短い戦闘でも、見ているだけなのに一歩も動けないほど圧倒された。 次は、こちらからも仕掛けなくてはいけない。だが、あれほど強そうな女性が傍についているミハシラを倒すことなどできるのか。否――彼女から、クレナイを守ることができるのだろうか。 「……ごめん。不安にさせちゃったかな」 申し訳なさそうな声にクレナイを見れば、どこか痛みをこらえるような表情で真白を見ていた。 「怖ければ、隠れているといい。逃げたらいい。いくらボクでも、守るには限界がある。そうしてもらえると、助かるな」 「そういうわけにはいかないよ。わたしは、足手まといで、役立たずかもしれないけど、守護者なんだから。言っただろう、わたしも戦うって」 「けど、死ぬのは怖い」 何度も繰り返し繰り返されたその言葉が、今度は強く胸を叩く。 応も否も言えなかった。 「確かに、守護者に選んでしまったのはボクだけれど、ボクがキミに求めてるのは、戦うことでもボクを守ることでも、まして死ぬことでもないよ」 その、真白を気遣ってであろう言葉に、何故だか、酷く動揺した。 「……じゃあ、キミは、何を求めているの?」 その問いに、クレナイは一つ瞬いて、 「…………」 何も答えなかった。 それで、分かってしまった。 「何も、求めてない?」 「……生きててくれたら、それでいい」 ――それはつまり、何も望んでいないのと同義だということに、気付いているのだろうか。 これがたとえば、彼が恋人などというものであったら、その望みは輝かしいものだろう。でも違う。守護者を選ばなくてはいけなかったから、一番ましそうな、言うことを聞きそうな人。そんな間に合わせ。 命を捨てることを望まない。危険に飛び込むことも求めない。――その代わり、彼に対するアプローチの何物をも望まない。 「…………わたしは」 そうじゃない。そうではないのだ。 死ぬのは怖い。死にたくない。だからといって、震えて逃げる臆病者になりたくはない。 できることはする。それは自分が生きるためだから。 彼の役に立ちたい。それは紛れも無く真白自身の情動だから。 だのに――それすら取り上げようというのだ。 彼女「だけ」ができる守護者としての戦いを、させまいというのだ。 恐怖も、不安も。覚悟さえ無意味だということだ。守護者という埋めなくてはいけない枠に名前を入れるだけの、お飾りなのだから。 どうにも、釈然としなかった。 そのもやもやを、彼には、吐き出せなかった。 「そろそろ出ようか。多分、もう集会も終わってるよ。教室に戻った方がいい」 「……分かった」 「ボクの部屋は、学習棟の一階の一番奥。開かずの間って呼ばれてるんだったかな。そこにいなかったら、大体ここか食堂か……書庫にいるよ。じゃあ……学習棟までは一緒に行こっか」 そろそろこの堅苦しい服脱ぎたいしね、と肩を回すクレナイの背に続く。 聖池を振り返る。来たときよりもずっと、美しくて、触れがたくて――虚ろなものに見えた。 |