夕焼けに、彼の彩の無い髪が染まっていた。 目前に広がって雪を吸い込む、大きな大きな水溜り。それをかつての人は海と呼んだ。海であろうが何であろうが、地に生きる者にとって異界であることに違いはない。そこに広がるは死。死の向こう側の世界。 白い白い部屋の窓の向こう――ここではない、どこか。 果たして、シロの目にはそれはどう映るのか。盲いた彼にとっては至極どうでもいいことで、どうにも知りようのないことだ。 「綺麗だね」 けれど、居直る静寂にいたたまれずに、そんなことを口にする。すると彼は、元より動かす必要のない目を動かさずに、そう? と応えた。 「うん。水面がオレンジ色で、波がキラキラしてる」 「は、稚拙な描写」 「む、……ふん。どーせわたしは幼稚ですよ」 「そんなことは言ってないよ。描写が稚拙だと言った。君の脳には自動翻訳機でもついてるわけ?」 相変わらずの憎まれ口。これこそは彼の平生、常住坐臥。じゃあシロならどう言うの、なんて、言えるはずもなく。だからとて他に勝つ術もなく。結局はいつもわたしの負けなのだ。 ――雪の似合う季節を過ぎた頃、 初めて見た町の外は、広くて。 大きくて遠い空の下、矮小に過ぎる自身を見失わないでいられたのは、目の前のこの小さな背中のおかげ。ひらひらひら、どこまでも舞い続ける雪と同じ色の髪は景色に溶けて、神父を思わせる黒衣は景色に浮いて。 ギイギイと、自転車という今にも瓦解してしまいそうな乗り物に跨って風を切る。盲目の彼がこんな不安定な乗り物で海という未知に辿り着けるのか、それ以前にどういう原理でこの乗り物に乗れているのか、進めているのか、様々が不安に満ちていた。 ――だけれども。ふらふらと覚束ない乗り心地も。不安を掻き立てる軋む音も。刃のような風が頬を切り裂く感覚も、誰かの黒い背にしがみつく温かさも、交互に刻んで絶え間ない心音も。 いつか、どこかで、記憶に在って。 安堵と。恐怖と。喜びと。悲しみと。愛しさと――憎らしさとが、わたしの頬を濡らしてやまないのだ。 「……ね、」 「なに」 呼べば応える。そんな些細にもわたしのものではない雫が視界をぼかして、ぎゅっと目を瞑った。どうしたの。まるで興味のなさそうな問いに、なんでもないと首を振る。ああ――どうしてか、こんな何気ないやりとりにもデジャヴか、否か。なんだか無性に腹が立って、思いきり背に頭突きをかませば、痛いと苦言を呈された。 「痛いもんなの。頭突きってのは」 「なに泣いてんの」 「――っばか! デリカシー皆無! 見てもないくせに」 「声で分かるよ馬鹿。生憎デリカシーの安売りはしてなくてさ」 「意味わかんない、信じらんないっ。大体なにこれ、今にも壊れそうじゃん! 壊れて怪我したらシロのせいだからね」 「怪我を避けようと自衛本能を働かせてもまともに動けない君の残念な運動神経のせいでしょ。これすなわち、君のせい」 「……っ」 八つ当たりに、真剣な毒で返されては、何も言えない。むうと頬を膨らませて、ぐりぐりと頭でシロの背を掘削した。 「痛い痛い痛い。あのねえ、オレは今君のためにこうして自転車を久しぶりに、実に久しぶりに漕いであげてるんですけど?」 「別に頼んでないもん」 「かっわいくないの。海に行きたいって言ったのはカナでしょ」 「言った、けど。つれてってとは言ってない」 「……あーもう、なんだってこんな……」 「何、文句あんの」 「べっつに。ほら、もう二度と見られない景色なんだから、泣かずに見ておいたら」 二度と見られない。そんなの分からないじゃん、とは、言えなかった。 恐らくは。わたしではなく、わたし≠ェ既に知っていたのだろう。 「……ね、シロ。シロはさ、来世って、信じる?」 そうして、わたし≠ェ口を開く。だけど確かにわたしの意志だった。 そんな突拍子もない言に、彼はただ一言、 「カナは?」 「わたしは……あったら、いいなって」 願望でしか言えないのは。 「ふうん」 無いと識っているからで。 「あるんじゃない?」 そんな、放り投げるような、どうでもいいと言いたげな答えに、どれほど救われ打ちのめされたことか。 ――生憎。わたしはわたし≠ニ違って、この世界をなんとも思っていないから。 いとおしいと、ずっと共にいたいと思う人もいないから。 来世で会いたいと願う人だっていないから。 「そっか」 そんな素っ気無い返事で、会話を終わらせてしまった。 やっぱり、涙は止まらない。 「ね、なんで夕焼けが赤いのか。知ってる?」 ざあざあ、ざあざあ。返しては寄せ、寄せては返して。肌を擽る潮の香りの中、不定であって一定な波の音に耳を澄ませていたわたしは、急速に現実に引き戻されて瞬いた。 それは――確か、一番遠くに届く光が赤色だとか、なんとか。そんな話を聞いたことがある気がするけれど、自分自身理解できていないから、口に出さずに首を振る。 沈黙を肯定否定どちらにとったかは定かでなく、彼はつと笑んだ。 「黄昏は、再生。灼熱の大地に住まう巨人の放った焔で浄化され、世界は生まれ変わる」 「シロ?」 「ふふ。異教だけれどね、それくらいの知識は持ってるさ」 よく、分からない。それが沈黙によく表れていたのだろう、シロは喉の奥で咳き込むように笑った。 「要するにさ――終わりは、始まりってワケ」 ふわり。白。朱を背景に白が舞う。なんて忌まわしく美しき景。 その目に明らかなちぐはぐに、わたしは、わたし≠ヘ、世界の終わりを感じ取っていた。 それを、始まりだと彼は言う。没した大地の浮上だと言う。 「ねえ、カナ」 「ん?」 「君は、かみさまを信じるかい?」 それは、彼との出会いの言葉。わたしはあの時と同じく、ちょっと首を傾けて、否と。 「じゃあ、シロは?」 そうして、あの時とは違い、反問を。 「――オレには、かみさまなんていないからね」 「……神父のくせに?」 「神とかみさまは別物だよ。よく覚えておくといい、両者を混同してしまえばそれこそ 何が、とは訊かなかった。なんとなく、分かっていた。 こんなちゃちな、テープで継ぎ接ぎした世界なんて。 「世界と人を繋げられるのは、結局その人自身だけ――――被造物と創造主を取り違えちゃいけない」 その言葉の本当の意味は、分からなくて。だけれど問うこともできなくて。だって彼らには、創造主を知ってしまっている彼らには、被造物を持つことすらも許されない。創造主と取り違えるからこそ被造物に意味が意義があるのだということを、彼らは知ることができない。 でなければ。人に都合よく創り上がった寄る辺が、その域を超えて期待される万能機でなければ。そも寄る辺ともなり得ないのだ。 それを彼らに突きつけるのは、彼我の差を克明に提示するのは、あまりに残酷だった。 黙りこんだわたしにシロはつと微笑んで―― 「あと五分」 カウントダウンを再開して、わたしから一歩遠ざかった。 風に棘が交じり始めた。 それをすうと吸い込んで、海が近い証拠だとシロは満足げに笑った。 「海って、こんな匂いするの?」 「潮風だよ、潮風。名前くらいは知ってるでしょ」 「ああ……これが」 聞くのと嗅ぐのとではかなり違う。文字面で見た限りでは、エキゾチックでさぞ芳醇な蠱惑的な香りなのだろうと思っていたのだけれど、顔をしかめずにはいられない。鼻の中いっぱいに広がって粘膜を攻撃する、あまり好ましくない芳香である。漸く引っ込んだ涙がぶり返しそうだ。 「がっかりした?」 「ちょっと」 からかうような問いに正直に答えれば、シロはくっと喉の奥で笑った。 それにしてもこの匂い、清純な白の雪には似合わない。前髪に纏いついた雪を手で払いのければ、今度は手の甲に意地汚くしがみついた。 「もうっ」 「牛?」 「……牛ってホントにモーッって鳴くの?」 「…………まあ、ね」 そう、呆れ顔でシロが頷いた瞬間、 空に、白光が閃いた。 それは一瞬のことで、眩しさに閉じた瞼を押し上げればもう何も無い。相変わらずの雲一つ無い、雪しかない空だ。 「今の……見た?」 訊いてから、しまったと口を閉じる。だがシロは、ん、と眉を寄せて、 「あと三十分……かな」 唐突に、時を刻み始めたのだった。 「あと四分」 それが何の到来を示しているのか、茫漠とだが、分かる。終わりと始まり。神の定めた無慈悲な螺旋だ。 わたしには、夕日に向かう彼の背しか見えない。だから、正確に終焉を知覚する彼が今どんな表情をしているのか、分からない。 でも――きっと、何の感情も無いんだろうと、そう思った。 或いは、そうであってほしいのか。 「ねえ――もうすぐ、世界は終わるの?」 意味の無い問いに、誰かが聞けば馬鹿にされる質問に、シロはひょいと肩をすくめる。それだけ。それだけの答えに、わたしは問いを重ねた。 「シロ、前に言ってたよね。もしわたしだけが、自分の命で滅びかけの世界を救えたら、どうするかって。それって、本当の話?」 「……だとしたら?」 「答えは、変わらないけど。じゃあ、シロは、何者?」 知っている。否識っている。わたしではなくてわたし≠ェ。 わたし自身の役割と。彼らの存在意義を、経験を以て識っている。 彼らと同じように、本質的に傍観者たるわたしは。型を使い回された人形ではなくて、型を変えただけの同じ個体であるが故に。 だけれども。わたしは知りたかった。わたしたちが此処に、今この場にいる理由を。病室で寝起きしても、肺が壊れそうになっていても、猫と余生を謳歌していても、暴飲暴食していても、訪れなかったこんな不可思議な螺旋の隙間の必然性を。 だというのに、 「あと三分」 時を刻むだけで、記憶を刻もうとはしてくれない。 ひらひら、ひらひら。沈黙の中、白雪だけが舞う。黄昏を告げる角笛。人の手が加わっていない砂浜に落ちて成り代わる。 或いは、この世界を灼きつくそうとする焔か。 「……分かってるくせに」 そう、囁くようにシロが言ったとき、あと何分何秒残っていたのか。 ――きっと。残っていなかったからこそ。 「分かってるよ、でも、分かんない。どうしてシロは、わたしをわたし≠フ運命から逃がそうとするの? どうして――シロは、自分の運命から、解放されようとは、思わないの」 「そうだな、自分でも馬鹿だとは思うよ。何度も、何度も繰り返して、いい加減に飽き飽きしてるのに――――でも、だけど、一度くらい。一度くらいは、夢を見ていたいじゃないか。こんな 夢を見たかったのだ、と。 星の奴隷たる現実から目を背けてみたかったのだ、と。 たった一度。奇跡的にすぐにでも押せるリセットボタンに蓋をして。ほんの少し力を込めれば永遠にその現実から解き放たれるというのに、なんと無意味で不毛な願い。それでも――嗚呼一体、何が彼を壊してしまったのだろう。それこそ、分かっている、けど、分からないもの。 その責を、彼は根源に課すことなく、ただ己の故障≠ノ過ぎないと、 綺麗な、本当に綺麗な笑顔で言った。 「だからね、カナ」 その笑みに――わたしは、 「ボクは、この選択を、後悔してないよ」 他の誰でもない、日之村夏苗は、 なんだかとても、泣きたくなってしまったのでした。 「っシ――――――」 この形が間違っていると、神が言うのならばそうなのだろう。 でも。 わたしの生きるこの世界がどれほどに歪んでいても。 わたしは、わたしたちは、確かに生きていたのだから。 生きてみたいのだと。それすらも理解してくれない神とは、 本当に、くそくらえだ。 鼓膜を打つ破裂。火薬の匂い。噴き上がる音と香り。 ――そうして、夢が終わる。新しく始まる。何度も何度も繰り返した、吐き気がするほどに飽いた星の夢。 星の営みを繰り返すための夢の繰り返し。より良き世界を志向して、何度も、何度も。どこかで生じたバグのせいで、無限に連なる。 いつだって、この結末。刹那にして星が滅びる、星が望まない形。この繰り返しを終わらせるための犬であるオレたちは、まこと役立たずで。 でも、身勝手にも、繰り返すこの結末を望んでいた。 彼女は、確かに生きていたのだから。 生きてみたいはずだと、理解できたから。 特異点として、救世主としてじゃない死を。 星の一部として、星の夢の一部としての死を。 そう、望んでいたのに。どうしてこんなにも、痛いのだろう。 ……嗚呼そうか。結局同じなのだ。 彼女≠ヘ消えてしまうんだという、そんな、あたりまえ。 ――でも。違う。ボクが望んだのは、こんな、こんな惨めで無様な、あまりにも悲惨な終わり方じゃなくて。 「残念だったな、観測者――いや、劣情を持った以上、貴様はただのガラクタだ。なあ、ガラクタ。私が、憎いか?」 ねえ、もしかして。人が抱けば恋情と呼べるこの朧な焦燥は、きっと、 〈了〉 次の話で、すべてが収束し終息します。果たして皆さまはどう感じるのでしょうか。 戻る |