1 大した意味はなかった。物を落とせば拾う、喉が渇けば潤す。そんな当然であるべき一連の発生から行動そして結果への流れと同じように、手負いの小鳥が屋根に蹲っていれば拾って世話をするのが常道というものであろう。可哀相だとかいう感傷あるいは感動、ましてや神への善行の提示などという打算でもなく、状況からの自然な帰結。であるからしてかの者が去った後、寂寞や満足や不満などというものを感じようはずもないのである。 「寂しくなったな」 とはいえそれは己に限ったことなのか、目の前の男はそう言う。否、普段どうしてか意識的に見ないその表情は言葉と裏腹に楽しげで、嘯くにしてももう少しやりようというものがとあえて別の箇所に待ったを入れたくなる。かといって入れるわけでもなく、私は彼の指がそれこそ寂しげに愛しげに撫ぜる籠に目を移し、嘆息した。ついで、はてと首を傾げる。 果たして今のは何に対してのため息か。彼の白々しさか、あるいは。否、まさか、もしかして? すぐにどうでもよくなって――実際はどうでもよいことにして――私はつまらない作業を再開した。 ふわふわり。舞って舞う那由多の玉はどこまでも往ける空の色。何物にも染まるのに自身を失わない、不変でありながら七変の。 まるで私とは違うその輝きに羨望すら。 「お前も、寂しいんだろう?」 だというのに。全くこの男は。見て見ぬふりをした見て見ぬふりをしてよいものに見て見ぬふりをさせてくれない、ほんに嫌な男である。軽く睨めばふとからかうような笑みしか返ってこない。柳に風暖簾に腕押し糠に釘。彼を表す言葉は幾多にも。しかしながらその性状を正確に捉えるのに言葉はあまりに力不足。 言うなれば。彼はこのシャボン玉のような。七色でありながら一色の。 「――シャボン玉は、こうして消えてしまうけれど。あの子は、どこまでも飛んでいって、私のことなんて忘れて生きていく」 あの小鳥の羽は、蝋ではないから。白日に飛翔しても、墜ちることなくどこか遠い国へたどり着く。 この真っ白な真っ白な真っ白な世界に私を置き去りにして。 「それが――あまりにも」 「つらいのなら」私の声を引き継いだのか遮ったのか、男は微笑みを翡翠色のカーテンに隠した。「出て行けばいいじゃないか」 「それができたら、こんなところにいない。ここを出て行ったら、私は死んでしまう」 「きっと」 それは、生まれたときからの私の運命。白い部屋で白いベッドで白い衣で眠り目覚め眠る。くるくるくる。繰り返し繰り返す無味無臭の。 「死は、ここではないどこか別の世界なんだろうな」 その一連を、男は眩しい微笑みで食い破って。 私を、窓の外へといざなうのだ。 言うなれば。私はこのシャボン玉のような。刹那でありながら永久で、結局のところ刹那でしかない、触れれば弾ける泡沫の。 2 たと踵が地を蹴れば、緩やかながら風が流れ出した。 「……ね、」 「なんだ?」 呼べば応ふ。こんな些細にも一際高く叫ぶ心臓を、眼前の温かな背ごと抱きしめた。どうした。優しい問いに何にもと首を振る。いつも、いつものことだ。想いを告げたとて、縮まらぬこの距離を一体彼は何と思う。傷つけるなら傷つこう。思い切り背に額を押し付ければ、痛いと苦言を呈された。 「……痛いもんなの。愛ってのは」 「重いものではなく?」 「そ。痛いの。心臓にグサグサ刺さって、肺より先に壊れちゃいそう」 無言。ジョーダン、と笑みを含んだ言葉の湿度といったら。タチが悪いと呟く彼の言は、いやまったく至極もっとも。幾許と確かには知らないが、どうやら先は覚束なく。ふふという儚い嬌笑は、ペダルの軋みに押し流された。 「……来世ってさ、信じる?」 そんな突拍子もない言に、彼はちらとだけこちらに目を向けた。 万物に等しく訪れる死の向こう側。繰り返し繰り返す肉体と魂の輪舞。果てしなく穢れた現世に落ちる罪人の。 たといそうだとして、アタシはそれでも、この世がいとおしい。 「……信じる」 そう、囁くように答える彼の表情は、見えない。 ――いとおしいと言うに、世界は、アタシを早々に捨て去ってしまいたいらしい。 そんな世界を、やはり、憎まずにはいられない。 せめて。せめて刈り取るならば、まだ物の分からぬ時分に行なってほしかった。 でなければ、こんな惨めな思いはしなかったろうに。 「来世でさ、会えるかな」 「会えるさ、きっと」 「そう? そう思う?」 その場しのぎのお為ごかし。都合のいいでまかせ。そうだとしたって嬉しいものは嬉しい。 まるで。会いたいと、言ってくれているかのような。 ああ――どうしたって縮まらぬこの距離を、来世にはもっと、 「だったら、早く来世に行きたいなあ」 「……そうだな」 キイ、と。軋む音。途絶える風。ふわりと広がるアタシの髪。 こちらを振り向いた彼は、とても、とても優しく微笑んでいた。 「いつだって行けるさ」 一向に渡らぬ自転車に痺れを切らして、信号が赤へと切り替わる。 3 「お前、まだ絶望しているのか? 相変わらず馬鹿だな」 そんな嘲笑を含んだ言に目だけを向ければ、案の定、あの男がいた。 短く刈り上げた黒髪。どこぞの生意気な小僧を思わせる黒衣。彼とは対照的な大人の体躯。 はて見覚えはある。知っている、自覚もある。……誰だったか。ふと考えて、名を聞いたこともないこと、興味すら無いことに思い至って、検索を中止した。 男は切れ長の目に、隠そうという意志すら見せずに呆れを翻した。 「いい加減諦めたらどうだ」 「……何の話かしら」 「白々しい。白々しすぎてもはや疎ましいほどだ」 「それはどうも」 「礼を言われる理由が見当たらないな」 「貴方に疎ましいと思わせられたなら」 「…………嫌な女だ」 心底忌々しそうに舌打ちする男に、思わず笑みを漏らす。 そう――こういう間柄だ。シロとは違う、相手を傷つける意図しか持ち合わせない毒の応酬。だからって相手への温情が無いわけではない。 遅効性の毒を少しずつ盛っていく程度には、相手に対し玩具としての執着があるということだ。 「……あの男」 それだけで、誰のことかすぐに分かる。 「あの男の背を追いかけるのは無駄だと、とっくに知っているだろう」 「――――」 そんなの。 「放っておいて頂戴」 「元よりそのつもりだ。だが――」 白。いつの間にか世界は白だ。 比喩ではない。石を敷き詰め機械で満たし、個性を塗り潰したこの世界に、もはや極彩色のあの輝きは亡い。 彼≠ニ何度か訪れたこの屋上からの景色も、味気なさすぎて、記憶にしがみつきたくなるほどに。 「あまりに哀れでな」 「……影は、追いかけることしかできないの」 「だからお前はいつまで経っても影なんだろう。いいや、」 そこで嘲笑。 「劣情を持った以上、貴様は既に影ですらない。ただのガラクタだ」 「――――っ」 くそ。 くそ、くそ、くそ。 なんだって、こんなに、動揺しているんだろう。 男はふと、目の光を和らげ、いやに優しい声を私の耳に滑り込ませた。 「なあ。貴様、一度確かめてみたらどうだ?」 いつの間にか、すぐそばに男が立っていた。 「こうして――あの男が、どんな反応をするのか。螺旋を巡る貴様たちならば、可能だろう?」 ――何故、それを。 そう問う間もなく、空は遠ざかる。 ……思えば。彼との邂逅は、この一巡りではなかったと、遅ればせて。 4 「きっと、あなたは死神なのね」 そう、ご主人様は男に言う。 雨。雨。雨。さあさあさあ。今にも掻き消えそうな。すぐにも勢いを増しそうな。そんな、鬱陶しくてたまらない雑音。 その中、黒い傘を差さずに提げる彼は、優しいように見えて何の色も無い笑みを一つ。 「いいわ。覚悟はできている。早く持っていって頂戴」 「――――いいえ」 男は首を振る。くたびれた様子で安楽椅子に体を預けるご主人様は、無言で首を傾げる。 「僕は、死神ではありません」 「では何?」 「さあ――何でしょう。自分のことなんて、自分が一番知らないものですから」 「……そう。じゃあ早く出て行ってくださる? 何の意味も持たない木偶の坊と話すほど暇ではないの」 木偶の坊。その言葉に男は瞠目して、ふふと心底楽しそうに笑う。 それができればどんなにか。その言の葉の濡れたこと。 「貴女を、安らかな国へ連れていくことは、できないのです」 「つまり?」 「つまり――木偶の坊の僕では、お教えできませんので」 「根に持っているのね」 「まさか。あまりに的確なものだから気に入ってしまいました」 雨。雨。雨。ざあざあざあ。全てを洗い流すような。全てを汚していくような。そんな、忌々しくてたまらない雑音。 その中、やはり傘を差さない彼は、爛れた土を蹴って一歩。 「ああでも」 近づけば近づくほど。幼さを残す貌が彩に濡れる。 「これは最後の、死神との競争なのです、とだけ」 「…………そう。ねえ、あなたのお名前は?」 「僕の、名前?」 「ええ。それならば教えてくれるでしょう? この邂逅の記念に、さいごの思い出に」 雨。雨。雨。雨は止む。音が消えていく。 まるで。世界が停止したような。 その真白な静寂の中。結局傘を使わなかった彼は、紳士的に一礼を。 「……蓮。三ノ輪、蓮と申します」 ――それに、応える声はない。 きょとん、と。まるで幼子のように目を丸くする男の、緩く波打ったセピア色の髪から、雫が生まれて地に落ちる。 「……参ったな。失敗しちゃった。せっかく出し抜いたってのに」 全然参った風に聞こえない口ぶりで彼は一人ごちる。それからあたしに目をやって、 「まあ、また次があるか。……キミにとっては、これが最良だったのかな、猫ちゃん」 にゃあ。 〈了〉 今気が付きましたけど、あっちこっちに猫がいますね。 戻る |