少女は、夢を見るのが好きでした。 少女は、夢を形にするのが好きでした。 少女は、夢を形にするために、ペンをとりました。 * * * 「君が多分、一番行きたがっている場所だよ」 どこへ行くの、と。純然たる疑問でも、くるくるめくるめく不安でも、まして花散る期待でもない。億劫そうな声音にそんな煙。 嘘ではない。本当でもない。彼女の心底を覗き込むにはこの目は不自由に過ぎたし、この心は浮遊しすぎた。だけれどそう、彼の常套句を借りるのならば、オレがそうと感じた以上オレにとってはまこと真実。常ならば苛立ちさえ覚えようものを、こうしていざ自分が使う段になれば、なんとまあ便利な逃げ口上か。つくづく腹立たしい。 「……どこ? 丘とか森とか?」 「あっはは、まさか。町中にそんなもんないよ」 「そうだけど、……他に行きたいところなんて」 彼女自身が意識し得ぬ希。はてさて喜ぶか否か。――などとそんな基準、果たして何処より生まれ出でたのやら。最近己が己を判じかねる。 いずれにせよ。喜びはしないだろう。既に分かっていた。 * * * 少年は、紙を置きました。 少年は、紙に文字を連ねました。 少年は、文字を書き続けました。 * * * 「こないだね、オレの知り合いが死んだんだ」 そう。知り合い。その程度のもの。その程度のものの望に、オレはこうして振り回されている。 「友達?」 「……友達が死んだら、泣くものと相場が決まっている」 「…………まあ……そう、だね。悲しいもの」 「じゃあ違うな」 艶やかな青草。濡れた黒土。果たしてこの町の住人のどれだけが、この存在を知っているのやら。白の中にぽつんと佇む有彩色。空にはまこと可笑しく見えることだろう。一見は半紙に落とした墨汁の失敗。だけどそれこそはかつての残滓なのだと、嗚呼笑えて仕方が無い。 「こんなとこが……」 「硝子匣に入れておくのは趣味じゃなくてね。古式ゆかしく埋葬したんだよ」 名は無い。辞世の句も送辞も無い。その辺から拾ってきた石ころを、彼の存在を確かに在ったものとする標とした簡素な墓。 「これが、シロの知り合いの?」 「そう。そして目的地。君のお兄さんのお墓だ」 * * * 老女は、文字を続けられなくなりました。 老女は、文字を続けられなくする何かに気付きました。 老女は、文字を続けられなくする何かを排除しようと思いました。 * * * 「泣かないんだね」 分かっていたことを、分かっていましたと。目は口ほどにというけれど、なれば口は目ほどにも。双眸を塞がれたこの身には声音ほどに雄弁なものは無く、受信が得意ならば当然送信も赤子の手。 「……泣けないよ。わたし、この人のこと、全然知らないもん」 「ふうん。そんなもの?」 「そんなものなの」 至極どうでもいいと切り捨てて、彼女は墓標に兄に背を向ける。これも分かっていた。 ――だけれども。嗚呼哀しやと、無感動な感情くらいは、土の下の彼に向けておいてやろう。 「…………雪、邪魔だな」 「そう?」 「ねえ、これ、何なの? ただの雪じゃないんでしょ?」 はて――如何したものか。 * * * 犬は、生み出されました。 犬は、文字を留める何かを排除するために生み出されました。 犬は、文字を留める何かを排除しようとしました。 * * * 言うなればそう、火花か。 「グロが真鍮を鍛え、たくさんの月を生んだ。グロングが鉄を鍛え、たくさんの太陽を生んだ」 感覚だけで雪を掴み取る。慣れ親しんだこの無感。熱も冷もない。当然のこと、これは言ってしまえばただの記号。現実を流れ現実として生まれ現実に還るそれでなく、非現実の現実。雪と思えば雪になろう、されど、そう、この身は畢竟これと同じだから。 「たくさんの月とたくさんの太陽に照らされた大地は埃になり、天は砕けて破片になった」 「え、と……つまり、」 「世界は滅びかけ。ってこと」 「…………この雪が?」 「ふふ。信じなくていいよ。この世界にヌデォ・ムバもヤング・ヤンもいない。ああ、いや――」 たとえば。ヌデォ・ムバはオレたちで。ヤング・ヤンが彼女で。――いいや、それは夢を見すぎている。行為を正当化しすぎている。 あれ――正当だとか、不当だとか。そんなこと、考えたことも、 「……シロ?」 * * * 猫は、存在していました。 猫は、文字が留まる代償に存在していました。 猫は、文字に紛れて存在していました。 * * * より正確に言おう。ヤング・ヤンこそオレたちだ。そうして、死んだ月と太陽たちが、彼女だ。 理不尽にも。世界のために殺される。まるでそう、十字架の男のよう。 不条理にも。世界のために殺す。まるでそう、氷結地獄の男のよう。 不合理にも。世界のために――彼は何も為し得ない。世界とは彼≠フ集合体だから。言うなれば、残された一対の月と太陽。 「ねえカナ。もしさあ、君だけが、自分の命と引き換えに、滅びかけの世界を救えるとしたら、どうする?」 「何それ。馬鹿みたい」 「ちょっとした余興だよ。ね、どうする?」 事はそう簡単な話ではない。でも本当にただの余興だから、そう、ただの余興なのに。 果たして――オレは、どんな答えを待っていたのだろう。 今となっては、分かるはずも無い。 * * * 猫は、死を以て文字を救うことができました。 猫は、死を以て文字を救うことができると知りませんでした。 猫は、死を以て文字を救う前に、文字と一緒に消えました。 * * * 「馬鹿みたい」 そんな一言に、オレはやはりと思って、 「そんな簡単に救える世界なら、捨てた方がマシ」 そんな応えに、目を瞠った。 「そう思わない? 一が何億を救うって、ただの幻想だよ。設計図からして歪んでる。その、グロとグロング? の話だって、まさかそんな結末じゃないでしょ」 「……月と太陽一つずつを残して、他は死んだ」 「そう、そうあるべき。一人が首を切るだけで救える? 七日間で作ったにしてもちゃちすぎるよ。滅びかけるのも納得。どうせテープと紙の継ぎ接ぎでしょ。そんなののために今≠失うならわたしは――」 「好きなことして、好きなように生きて、好きなように死ぬ?」 「そう。一番幸せだよ。そもそも世界って何? ……わたしがいない世界は、わたしが守りたい世界じゃない」 なんて――なんて自分勝手で。なんて自己中心的で。なんて利己的で。 なんて人間らしいのだろう。どこまでも自己に従順な女神なのだろう。 「……カナ。オレ、君のこと気に入っちゃったな」 「…………それは、どうも」 * * * 青年は、また文字を書き始め、書けなくなりました。 青年は、犬を再び放ちました。 青年は、犬に猫を探させました。 * * * 「シロは、わたしが一番行きたい場所って言ってたけど」 「うん?」 「全然違う。別に来ても嬉しい場所じゃなかったよ」 「兄不孝な妹だこと」 艶やかな青草。濡れた黒土。白の中にぽつんと佇む有彩色を、オレたちは後にする。 もう二度と、ここには来まい。来ようと思う頃には此処も何処も無い。 でも――もしかしたら、また此処が生まれるのだろうと。そんな予感さえしている。 「わたし、海に行きたいな」 「海? ……無茶言ってくれるよ」 「なに、連れてってくれるつもりなの?」 「君が一番行きたがっている場所に行くって言ったからね」 詭弁。詭弁だ。オレ自身を誤魔化し煙に巻く、理由もよく分からないまま口をついた詭弁。己は一体どうしてしまったのだろう。誰か教えて欲しい。 「……まあ、シロなら、いっか」 「なんか不満そうだけど」 彼女はふと呼吸を止めて――にこりと微笑んだ、ようだった。 「世の中妥協なんだよ、所詮ね」 なあ、友よ。果たしてオレは、君の言葉に縛られているのだろうか。 土の下の彼は、何も返してはくれない。 * * * 猫は、死を以て文字を救うことができました。 猫は、死を以て文字を救うことができると知りませんでした。 猫は、死を以て文字を救う前に、文字と一緒に消えました。 老人は、まだ文字を書こうとしています。 犬は、まだ文字を救おうとして、猫を探しています。 猫は、まだ、文字を救うことができると知らないまま、生きています。 猫だけが、全てを消すことで、全てを救うことが、できるのです。 〈了〉 猫派です。 戻る |