「――ええ、丘の上、谷の底、森の中、緑の牧場、小石でかためた泉のほとり、藺草の茂る流れのきわ、海を縁取る砂浜。どこであろうと、わたしたちが笛吹く風に踊り楽しもうとしていると、いつも姿を現して、せっかくの興を台無しにしておしまいになる。おかげで、吹いて寄越す笛の音も――」 そこでふと、夏苗は声を途切れさせた。外に足を投げ出す形で窓枠に腰掛け、「知恵の輪」とかいう前時代的な遊戯に片手間に興じていたシロが、ちらと室内に意識を向けた。 「どーかしたの、カナ」 「いや……このさ、谷とか森とかって、想像つかないなって」 当然も当然。この石で塗り潰した町から一歩も出たことがないのだ。実際目にすることなどあるはずもない。 対するシロも、なんだそんなことと言わんばかりに、また手を動かし始めた。 「調べたらデータくらい出てくるんじゃないのー?」 「それはそうだけど。ほら、こういうのって、実際そこに立ってみないと分からないことってあるじゃない」 「ふうん……? じゃあ行ってみれば?」 「……無茶言わないでよ。町から出るのって、すっごい手続き面倒なんだよ? それに、出たところで、どこにあるとか知らないし」 「ふーん。じゃあ諦めたら」 結局そうなるらしい。なんとなく想像はしていた結論に、夏苗は無意味と知りつつも、ため息をつかざるを得なかった。 ――あれから、一度として、雪がやむことはなかった。 毎日毎日、絶え間なく降り続けるものだから、最初のうちは異常気象に怯えていた人々もすっかり順応したらしい。今では傘さえ差さない人も多く、わずか数ヶ月で除雪機は三段階にまでレベルアップした。 文明とは導く終末ではなく、その依存性こそ恐ろしい。 シロが何故かやたらと構ってくるのに慣れた頃、彼はそう言ってにんまりと笑った。 「だってさ、もう機械なしの生活なんて考えらんないでしょ。わざわざ刃物なんか手にして火の前に立たなくたって、ボタン一つで上げ膳据え膳三時のおやつまで。風呂は勝手に沸くし、気温によって室内温度が自動的に調節されるんだから、いや、薬物なんか目じゃないよ」 そも危険性に直に触れられぬが故に。「実感」の欠けた、アンバランスな二律背反。 今そこに在るのと同じように、部屋に背を向けて、シロはクスクスと皮肉な笑みを零して言ったのだった。 さて――そんなことよりも。今目前にある問題を片してしまわぬことには、おちおち眠りにもつけない。夏苗は再び液晶に目を戻し、連なる文字を網膜に焼き付けた。 「……どうやら、季節がすっかり狂ってしまったらしい。老いた白髪の霜が、紅薔薇の瑞々しい膝の上に降り立つかと思うと、冬将軍の禿げ上がった冷たい氷の頭上に、それを嘲笑うつもりか、ふくよかに香る夏花の蕾が、花輪のように飾られる―――春、夏、実りの秋、厳しい冬、それらがお互いに着慣れた衣装を着せ替えっこしてしまったのです」 「ふふ、まるで此岸の有様だね。まだ月は九だってのにさ」 そう、こうしてシロは邪魔をする。だが不思議なことに、それがもはや煩わしくなく、むしろ応酬が楽しくさえなってきたのである。 「ホント、異常気象だよね。ありえないよ、こんなの。だってさ、夏の間もずっと降ってたんだよ?」 「――ま、これがただの雪ならね」 「え?」 す、と。空に差し出したシロの掌に、優しく氷晶が舞い降りる。シロはそれをふわと包み込んで、 「いや――――しかし、何が原因なんだろうね?」 その美を無慈悲に崩した。 「どこぞの暴れ者が馬だか牛だかを機織小屋に投げ込んだか、はてまた、一人娘が攫われたか。奇をてらって双子が狼に呑まれたか。どう思う?」 「……シロってさ」 「うん?」 「無駄に色んなこと知ってるよね」 「………………」 数秒、シロは黙した。 「……無駄かどうかは別にしてさ」 「うん、そうね……小姓の取り合い、かな」 「ま、そうくるよねえ」 肩をすくめたシロに笑みを翻して、夏苗はエンターキーをタッチした。 「――そして、こうした禍も、つまりはわたしたちの諍いから、不和から生じたもの。わたしたちこそ、その本家本元なのです」 シロはふと瞬いて、 「……それなら、自分でなおすがいい。禍の根は全てお前の内にある」 「、シロ?」 「何故お前は夫のオレに楯突くのだ。オレは、ただ、あの子を小姓に貰い受けたいと言っただけなのに」 「……それだけは、お諦めいただきましょう。妖精の国を全部貰っても、あの子だけは手放せない。あの子の母親は、わたしの信者でした。あのインドの、かぐわしい夜気に包まれて――」 「インドねえ」 「知ってる?」 「んー……いいや。カレーのイメージしかないね。あとあれか、意欲に燃えたコロンブスの最大の失態」 「何それ」 反問した途端、シロは首が三六〇度回転しそうな勢いで振り向いて、信じられないようなものを見るような表情をした。 「……知らない?」 「知らない。ころー……ぶす? って何?」 「………………今の教育課程ってどうなってんの……?」 「教育って、」 「一四九二年、コロンブス、インド、アメリカ。共通一次に出るはずもないような超常識歴史的事実だよ?」 そんなことを、そんな必死の形相で言われても。そもそも共通一次って何なんだろう。 「知らないものは、知らない」 「………マジか。え、世界史やんないの? 小学生でも知ってるっしょ。ああいや、学校って概念がまず無いんだっけか」 「学校はあるよ」 「ネット上でしょ? しかも一定基準に達しさえすれば、受講は自由だし。元々の目的こそ違え、協調性の育成っていうのも大事だと思うんだけどなあ」 「……シロって時々、すっごく古いこと言い出すよね。そういう、実際に集まって勉強する学校なんて、百年以上前に無くなったんでしょ?」 「……ホーント、久しぶりにざんぎり頭を叩きたいよ。そこまで行くと戻りすぎだけど、懐かしきあの頃。あーあ、歴史は繰り返す、なんて言うけどさあ、もう手遅れだよね」 シロはすっかり自分の世界に入ってしまった。口調は全く呆れ悲しみの彩だというに、その表情はただ諦めの一色。こうなったら、もう何を言っても意味が無い。自分にだけ分かるように話すのは、彼の悪癖だと、夏苗は常々思っているが、未だ本人に告げたことはない。 とはいえ――実際のところ。彼がつらつらと一人ごちるその意味が、全く気にならないかと問われれば、首を横に振るしかないわけで。 「もしあなたが、わたしたちに付き合って、月夜の宴を見ようと仰るのなら、どうぞご一緒に。それがお嫌なら、さあ、どこへでもいらしてくださいな。わたしもそのお邪魔はいたしませぬ」 わずかばかりの期待を胸に、台詞を紡いだ。 「あの子を寄越すがいい。さすればどこへでも行こうさ」 「たとえあなたの国をくださっても、それだけはだめ………さあ、皆、行きましょう! いつまでもいると、喧嘩になるわ」 「そうか、勝手にするがいい。――この町を出るも、出ないも、ただお気に召すままに」 「――シロ?」 思わぬ言葉に顔を向ければ、シロは悪戯っぽい笑みを浮かべていた。 「キミが望みさえすれば、どこへでも行けるさ。キミには目も、手も足も、声だってあるんだから」 「……さっきの話? 別に、そこまで行きたいってわけじゃ」 「違うよ」 存外強い口調で遮られ、思わず口を閉じる。 寸の間逡巡してから、シロは、ふと、眉間に複雑な感情を乗せた。 ――まるで。哀れんででもいるかのような。 「この雪からは、逃げられはしないけど。でも、」 「…………でも?」 「――でも。キミ自身の運命からは、逃げられる」 果たして。 彼は、何をどこまで知っているのか。 「……なに、わたしの運命は悲惨だって言うの?」 「――昔さあ、かわいそうな男がいたんだよ」 唐突に始まる昔語り。それを止める力は、夏苗の声には無かった。 「男には尊敬する主がいてね。その人は救世主と呼ばれていた。だけど救世のためには、その人は死ななくてはいけなかった。それも、寿命とか病死とかじゃない。罪によってじゃないとね。……そして男は、主を殺す役目を与えられた。神から与えられた、絶対の命令」 それは――なんて。 「酷いよね、この世で一番大事に思っていた人を、何の怨みも無いのに殺さなきゃいけないなんて。……直接手を下したわけじゃない。神がかつて禁じた裏切りで、間接的に命を奪った。でも周りにとっては同じさ。その男はずっと、後世に至るまで、裏切り者と、罵倒され続けた」 「でもそれは全部、神さまに命じられたことなんでしょ? そんなの、」 「命じられた、はちょっと違うな。男はそういう運命だったんだよ」 ――意思はなく。盤上の駒として動かされただけ。或いはそう、裏切りの意思を持たされたのかもしれない。初めからそういう軌道で動くよう作られたのかもしれない。 偶然の積み重ねを装う必然。自己決定にすりかえられた絶対不変。 「……もう、聞きたくないんだ」 ぽつりと。痛みをこらえるような声音。 「何、を?」 訊かずには、いられなかった。 シロは、ふと、淡い淡い、透白な笑みを浮かべて、 「……夜の住人、私どもの、飛んだり跳ねたり。もし皆様、お気に召さぬとあらばこう思し召せ。ちょいと夏の夜のうたたねに垣間見た夢幻にすぎぬ、と――それならば、お腹も立ちますまい?」 金属片は、投げ出された。 * * * ――いずれ、少女は知るだろう。 彼の笑みはまるで、 「かほどに幸せな夢を見れたなら――でもさ、そうと定められた以上は、どうしようもないのかもしれないな。だからきっと彼も、苦しい息の下、最期にはこう言ったんだよ。 『 〈了〉 本能寺の変は「いちごパンツ(1582)って覚えました。十五夜に、より覚えやすいです。 戻る |