「………………」 「…………大丈夫?」 「………………うん、まあ」 正直に言って、気持ち悪かったし怖かった。抱えられているとはいえ、落ち着かない姿勢で落下するのは心臓に良くない。落下の最中、これからは学院の二階からでも飛び降りれるようになろうと、よく分からない決意をしたくらいだ。 いつまでもへたり込んではいられない。真白はくらくらと視界を揺らす眩暈を振り払い、立ち上がった。 「クレナイ。これからどこに?」 「とりあえずグラウンドに行こう。あそこなら安全だ」 そういえば、さっきもそんなことを言っていた。結界が張ってあるかららしいが、 「……結界って、何?」 そもそもそこである。剣と魔法のファンタジーじゃあるまいし、何か物理的な壁とか、そういうものだろうか。 しかし、既に歩き出していたクレナイは足も止めず、 「結界は、結界だけど」 何の解決にもならない応えで肩をすくめた。 「それじゃ分からないよ」 「って言われてもなあ。説明が難しいし、見た方が分かりやすいよ」 「……本当に安全なのかい?」 小走りで追いついた真白に、クレナイは眉を下げて苦笑した。 「まあ、今のところは」 「今のところは? それって、」 「結界っていうのはね」 ひらり、落ちる葉が頬を掠める。それが血に見えて思わず立ち止まった真白を、クレナイは待たない。 「空間を遮断するものなんだ。物理的であろうが精神的であろうが、目的も手段もなんであれ、空間と空間を分断するもの。分断する以上は、結界自体が、隔てられた界と界を結ぶものだ。塀も、壁も、立ち入り禁止の立て札、人が寄り付かなくなる噂、その存在を気にも留めない概念操作、犬や猫のマーキング。対象や程度の差こそあれ、遍く結界だよ。キミはKEEP OUTの黄色いテープが貼ってあるところに入りたいと思う?」 首を横に振る。 「じゃあ、オバケが出ることで有名な廃病院、もしくは、ビルとビルの間にある、看板も何もない寂れた建物は?」 それも、否。 「勿論、そういうとこにあえて踏み込もうという人は少なからずいるだろうね。つまり、程度の問題なんだ。それ自体が持つ結界としての効果の程度と同時に、遮断する目的の程度。KEEP OUTには踏み入らせたくないという確固とした理由・目的が存在し、実際文にも色にもしてるけど、オバケ云々の噂には”踏み入らせたくない”ではなく実体験、話の種、余興。むしろそこから、入らせまいという意識が表れる。寂れた建物なんかは、どっちつかずだね。存在の秘匿のためにあえてそこに住まうならば、概念操作が行われることもあるけど、事実、自身とは何の関係もなく興奮材料の無いところに行こうという人はそういない。家だってそう、犯罪行為を働くのでなければ、知らない家に、あるいはその玄関口に立とうとも思わないでしょ。言ってしまえばドアも壁も窓も塀も、犯罪者を入れさせないための結界だ」 「……でも、グラウンドにはそんなものはないよ」 「そりゃあね。学院の門が受け入れる者を拒む理由など無いからさ。ここのグラウンドに張ってある結界は、さっき述べたもののどれでもない。もっと曖昧な、だけど絶対的なものだよ。……多分、簡単には信じてもらえないだろうけど」 「曖昧で、絶対的な……? どういうものなんだい?」 クレナイは、ちらりと真白に目だけ向けて、 「対象を締め出すものではない。究極目的は守護、不可視。重層的に要素を組み合わせた……そしてそれ以外を完全に排除する、あらゆる物理手段によって破壊することの叶わない方法」 刹那。自嘲的ともとれる笑みを翻した。 「次元をずらしたんだ」 ――その意味は、真白には、よく分からない。だけど、 「春のほど強いものじゃないけどね……それに実際問題、この世界に確立した別次元なんてものは存在しないから、意識レベルの次元の差異だ。普通の人間が感知できない次元を構築して重ねる。そこに、”何も無い”という先入観を与え、視覚が後押しする。グラウンドなんて開けた場所は、暗殺者は嫌う。狙い放題だからね。敬遠する、第三の結界。入ろうと思えば入れるし、入ってしまえば同次元に存在するわけだから、何の意味も持たなくなる。だけど入ろうとも思わない。だって何も無いんだから」 およそ真白の持つ常識とやらで測れるものではないということだけは、よく分かった。 「……その……」 話に区切りがついたのを見計らい口を開く。 「うん?」 「丁寧に説明してもらったのは分かるし、申し訳ないとも思うんだけど、全然、分からない……」 正直に申し立てれば、クレナイは一つ瞬いたかと思うと、次の瞬間、弾けるように笑い出した。 先まで感じていた、たとえば高貴さ。たとえば冷酷。遠大、強靭、そのどれも、今の彼とは程遠い。――まるで玉虫色、刹那に移り変わる極彩色の、ふわふわとした雲のような浮遊感そのもののような。 とはいえ。腹を抱えるほどに笑われ、うっすらと涙まで浮かべられては、些かならず、気も悪くしようというものだ。 「そんなに笑うようなことかい」 「い、いや、あんまり正直に、心底申し訳なさそうに言うものだから……ふ、はははっ」 「簡単には信じてもらえない、って自分で言ってたくせに」 「信じるのと理解するのは、全くもって別物だよ」 「わ、分かってるそれくらい!」 「あはは、キミは本当に、感情豊かだなあ」 それを言うならクレナイだって。文句はしかし口には出さず、睨むに留める。 クレナイは漸く笑いを収め、涙を拭いつつ、うーん、と首を捻った。 「ま、次元の構築という点で既に人智を超えてるからねー。とはいえ、”普通の人間には”だから、普通じゃない人間には丸見えなんだ。グラウンドなんて大きくて開けた場所じゃあ、いくら先入観があったって、視界には入る。一網打尽だね」 「そ、それじゃあ全然安全じゃないじゃないか!」 「あれ、真白ちゃんには、普通じゃない人間に心当たりがあるの?」 そう問われて、ぐっと言葉に詰まった。そもそも普通じゃないとは何なのか。真白自身の常識に照らし合わせるならば、刺客だって普通じゃない。だがそういう”普通”ではなく、たとえば幽霊を見るとか、超能力だとか、そういう”普通じゃない”ということなのだろう。 そう――具体的には、クレナイか。 クレナイをじっと見れば、彼は少し驚いたような顔をしてから、 「ふふ。正解」 にっこりと笑った。 「え?」 「ボクみたいなヤツには見えてしまう。でもまあ、緒戦だし、宣戦布告が目的だろうから、ヤツは出てこないと踏んでるよ」 「ヤツ……?」 その疑問に答えることなく、クレナイはそこで話を終わらせた。 否、或いは、そこで終わらせるより他なかった、と言うべきか。 「ミ、ミミミミミ、ミハシラ様ぁっ!!」 見えてきたグラウンドから、こけつまろびつ、泡を食って中年男性が走ってきたのだ。 「お、あれは……」 「教頭先生だよ。あだ名は、ごま塩むすび」 「……酷いね、キミたち」 普段のんびりぼんやりしている姿からは想像もつかない全速力で、教頭は駆けてくる。どこに刺客がいるかもしれないという恐怖がそうさせるのだろうか。しかし、そんな非常にあってさえ、見知った彼の姿に、真白は漸く、現実に戻ってこられたような気がした。気の早いことだが、「助かった」という実感さえも、胸中に溢れる。思わず涙が出そうになって、慌てて目をこすった。 「お怪我は、お怪我はありませんかっ!」 ぶつかる寸前で急停止した教頭は、動転した口で問うより先にクレナイの体に触れ、確かめている。クレナイはにこりと微笑んで、その手を押し返した。 「うん、大丈夫。あ、この子、よろしく。気失ってるから」 「あ、ああ、はい!」 「それから、こっちの子も。危うく殺されかけたから、メンタルケアもね」 「か、かしこまりましたっ! ささ、こっちへ来なさい」 蜜柑を受け取った教頭の手招きに従い、グラウンドへと歩き出す。 ふと何気なく振り向けば、クレナイはその場を動かず、真白たちを見送っていた。 「来ないの?」 「うん? ああ……言わなかったっけ、ボクのホントの目的」 そう言われて思い出すのは、教室。クレナイは、真白たちを置いて行こうとした。 彼は、そう――真白たちを助けに来たのではなく、敵を排除しに来たのだった。 真白たちが安全な場所に避難した以上は、彼は本来の目的に取り掛かれるのだ。 だけど―― 「一人じゃ、危ないよ」 彼の強さは知っている。だが刺客の手ごわさも身に沁みて分かっているし、特にあの、廊下で会った女性は、危険だと直感が告げていた。 だがクレナイは、微笑んで肩をすくめる。その動作だけで、彼が意志を変えることはないと分かった。 危険に飛び込むことも。一人で赴くことも。――難しい説明の中で少しだけ理解できた内の一つ、結界の弱点を突かれないためだ。 攻撃は最大の防御という。もっともだけど、でもそれは、攻撃する者が上回っているか、或いは、トカゲの尻尾である場合のみだ。 この場合クレナイは、どっちなのだろう。 いずれにせよ。真白がついて行ったところで、逆に足を引っ張るだけだ。 だから、せめて、 「……気をつけて」 そう言うほか、なかった。 だけど、 「ありがとう」 そう言って笑った彼に、逆に励まされたような気分になったのは、きっと、気のせいではないだろう。 それからは振り向かず、ただグラウンドを目指す。漸く内部が見える距離に至ったが、誰もいない。しかし、クレナイの説明を信じるならば、普通の人間である真白には見えないということで、すなわち、真白が普通であるという証明というわけだろう。 「……あの、教頭先生」 「なんだね」 「ミハシラって、何ですか?」 すると教頭は、大きく嘆息した。相当呆れられているようだ。 「そんなことも知らないのかね君は!」 「は、はあ……すみません」 そんなことを言われても、知らないものは知らない。妙に開き直った気持ちで教頭の応えを待てば、彼は暫く逡巡したのち、 「明日には分かる」 それだけ言って、黙ってしまった。 「…………」 まあ、明日に分かるのなら、それでいいか。正直――思考するのも億劫だ。大分疲労が溜まっているのかもしれない。 三段の短い階段を上り、グラウンドの黄色い砂に足を乗せれば、 「、わ……」 まるで映像が切り替わったかのように、そこには、避難訓練のときと同じく地面に座る生徒たちと、周りに立つ教師陣が出現した。 クレナイの話は真実だった、ということだ。半ば信じられない思いでグラウンドを見渡す。 避難訓練のときに比べ、生徒数は格段に少ない。全校生徒は四百人だが、精々三百くらいだろうか。その三百人も、殺されたのだろう友人を惜しんで泣くものや、ぼんやり虚空を見つめるもの、立てた膝に顔を埋めるもの――昨日までの溌剌はどこにもない。在るのは悲哀、焦燥、恐怖、絶望、そんな重苦しく気道を塞ぐ感情ばかりだ。 一体どうして。その一言が、グラウンドに結実した集団思考と言って相違ない。 自分のクラスの列に入ると、人数の少なさがすぐに見て取れた。半分は優にいない。学院で特に親しいのは、沙那くらいだったけれど――それでも、クラスメートの名や顔、大体の性格くらいは知っている。 ――悔しい。心を占めるのは、悲しみよりもそんな感情だ。 多分。クレナイという、仇を討つための力を知っているから。そして彼が今、仇を討ってくれているのを知っているから。 『このまま去るなら、見逃してもいい』 その言葉がふと脳内に響いて、思考がぶれる。 彼は――何故、あんなことを言ったのか。否、それだけじゃない。真白と一緒に外へ逃げているときだって、彼は敵を殺しはしなかった。それは単純に、とどめを刺す余裕がなかったからなのかと思っていたが、その言葉を思い返してみれば違うのかもしれない。 殺人に抵抗を抱いていない彼が、何故、敵を逃がそうとしたのか。それが秋の国の人間だというなら、説明をつけられなくもない。だが、刺客は夏の国の人間だと、刺客自身が言っていた。 ここ数百年、長く続いた冷戦は終結し、夏・秋・冬の三国間の関係は良好だった。使節団も頻繁に行き来し、貿易だって行っている。各々が支えあわなければ生きていけない世界だ、それは当然の理。戦乱の時代の反省から、不可侵条約も結んでいるというのに。 先に破ったのはあちらだ。なれば、こちらが遠慮する理由などどこにあろう。関係性の修復など、望むべくもないのだから。 だのに――彼は、どうして。 彼は今、本当に、仇を討ってくれている? 「……おい、真白」 「――あ、え?」 ささやかな呼びかけに、思考から浮上する。いつの間にか沈んでいた顔を上げれば、前に座っていたらしい善が難しい顔でこちらを見ていた。 無事だったのか。ほっと胸を撫で下ろす。 彼の顔には無論のこと、疲れたような色も、級友の死に痛む色もあったけれど、持ち前の気丈さか、瞳の強い光だけは失っていなかった。 「お前、さっきまで校舎の中にいたのか?」 「……うん。そういうヨシは、先に逃げてたのかい」 「ああ、まあ、足だけは速いから……じゃなくて。もしかして、あの変な奴らに襲われたのか?」 「…………うん」 「……よく、無事だったなあ」 その声には、心から労わる音があった。赤くなった鼻を見せないよう俯くと、制服のスカートに赤い色が付いていた。 「……助けて、もらったから」 「え? でも、誰に?」 何と答えたものやら。言葉に窮してしまう。名前を言っても分からないだろうし、そもそも、彼が何なのかは、真白自身全く知らないのだった。 ――ああ、そういえば。 「ミハシラ様、って、教頭が言ってたよ」 「ミハシラぁ?」 素っ頓狂な声を上げた善に、真白は気づかれぬようにため息をついた。やはり知らないか。そう思って善をちらと見て、思わず目を疑った。 「み、ミハシラって、あのミハシラ様か?」 善は、さっきまで青白かった頬を紅潮させ、目をキラキラと輝かせていたのだ。 どのだ、とツッコミを入れる前に、真白はその表情に図らずも引いてしまった。 しかし何やら興奮状態にある善には関係ないらしい。突然ガシッと肩を掴まれ、小さく悲鳴を上げてしまった。 「どんな方だった!」 「へっ」 「女か、男か! どんな顔だ? 厳格な感じか? うあーオレも会いたかったー!」 「…………」 状況を忘れて騒ぐ善は、まるでアイドルのファンのようである。どう対処したらいいのか分からない。周りに助けを求めて見回したが、皆自分たちの不安や悲哀を慰撫するのに精一杯なようだった。 結局、ミハシラって何なのだろう。こんな状況に陥っても、その名を聞けばこんなに興奮できるものなのだろうか。釈然としない気持ちは、しかし善に伝わることはなく、 「なあ、どんな人だったんだよ!」 その人物像を答えるしかないようだった。 「……えーと、男」 「おお!」 「赤毛で……背はまあ高くて」 「うん!」 「…………フランク?」 「フランク?」 厳格、とはとても言えない。少なくとも真白に対する時のクレナイは、その言葉で表せるように思う。 敵に対する時は毅然、怜悧。でもどこか、どうしても、力を抜いているような節もあって。 ――彼の性状を表すのに、言葉ほど不自由なものはない。 「……それ、ホントにミハシラ様なンかあ?」 どうやらフランクというだけで、クレナイを表すことはできなかったらしい。かと言って他に何か尽くせる言葉も思いつかなかった。いずれにしても、フランクなミハシラは善の好みではなかったらしい。一転して訝しげな目を向けてくる善を押し戻し、ため息をついた。 「知らないよ。大体何なんだい、ミハシラって」 あと、いくらそのミハシラが好きだからって、今は慎むべきだと思う。 そう続けようとして、 「おっ……お前、ミハシラ様を知らないのか?」 愕然とした表情に、口を閉じてしまった。 「はーっ今時そんな奴がいるなんて……」 「……悪かったね。よければご教授願えないかい」 「いいぜ。いいか、ミハシラ様ってのはな――」 そのときだった。 「……あ、あー。マイクテス、マイクテス。ごほん」 短い雑音の後、年若い学院長補佐がマイクで話し始めた。多くの生徒が顔を上げ、静聴の姿勢を見せる。学院長はそれに満足したように一つ頷いた。 「えー、生徒諸君。学院を襲撃した不審者は、喜ばしいことに全員駆逐された、と先ほど報告があった。よって、これで解散とする。速やかに自室へ戻り、よく休むように。以上」 雑音を最後に口上が終わる。あまりに短い文句に、暫く全員呆然としていた。それから一様に顔を見合わせ、戸惑いが伝染していく。その中で一人、勇気ある女子生徒が手を挙げた。 「先生、説明を求めます。一体、学院に何が起こったのですか」 「それはこちらも鋭意調査中だ。以上」 「では今回の事を収めたのは一体誰なのですか」 「それも調査中だ。明日の集会でまとめて発表する。今日は早く帰りなさい。以上」 「先生――」 「以上!」 無理矢理問答を断ち切る態度も如何なものか。しかし、教師たちとて憔悴しているのが分かる。何せ急に仕事場が、それも国の中枢近くに位置する学院が、正体不明の連中に襲われた上、死傷者多数となれば、落ち着けというのも酷な話だ。 発言した生徒もそれは理解しているのだろう。納得がいかない顔をしながらも、唇を噛んで引き下がった。 善もそれを見て、神妙な顔つきになった。 「……うちのクラスも、何人か……」 「…………」 沙那の、凄惨ながら穏やかな死に顔が蘇り、ちくり、胸が痛む。 だけど――何故だろう。涙が、もう、出てきてくれない。 真白の表情から何かを読み取ったのか、善が何か言おうとして、やめた。 それから数十分。示し合わせたように雨が降り出すまで、動こうとする者はおらず、教師たちもまた、無理に帰そうとはしなかった。 自室に引き上げてからというもの、取るものも手につかず、ただベッドに横になった。 蜜柑はいない。目覚めたのかどうかも知らないけれど、きっと医務室で寝ているのだろう。そんなことをぼんやりと考えつつ、開け放した窓の向こうに視線を投げる。 相も変らぬ黄昏。不変の空が、こんなに憎くなったことは初めてだ。 体は、酷く疲れている。心も休息を欲している。だのに、こんな日に限って、睡魔はこの枕元を避けて通っているかのように一向に訪れてくれない。 時計の針が夜を告げても、目も意識も冴えたまま。 「――…………」 ずっと、ずっと。沙那の笑顔が、声が、――最期が、瞼をスクリーンに再生される。 真白とは全然違って。その違いに憧れて。多分その差異にお互い惹かれた、大事な親友。 彼女には、何だって話せた。昨夜のこと――クレナイとの出会いだって、彼女に聞いてもらいたかった。 だのに、彼女はいない。もう、どこにもいない。訳も分からないまま首を掻っ切られて、殺されてしまった。 ――あたしね、真白が羨ましいんだ。初めて会ったそのときから、ずっと、羨ましいって思ってた。 その理由を訊いても、彼女は教えてくれなかった。いつかあたしが死ぬときに教えるねなんて冗談めかして笑って、縁起でもないと怒ったものだ。 理由を教えてくれることなく、彼女は、逝ってしまった。 嗚呼全体、彼女が何をしたというのだろう。殺されていい理由なんて、――誰にだってないはずなのに。 そんなどこか矛盾した思索をぐるぐると巡らせて、まんじりともしないまま、気がついたら日付をまたごうとしていた。 「…………ハア」 明日も学校がある。さすがに授業はしないだろうが、集会をすると言っていた。 風呂に入らなければ。 けれど――動く気には、どうしてもなれなかった。 もう一つため息を。これではいけないと、分かっているのに。 「ため息つくと、幸せ逃げちゃうよ?」 そう、その古い言い回しも、よく沙那が言っていた―― 「はっ?」 今の、声は。 枕から顔を上げると、 「こんばんは、真白ちゃん」 開けていたカーテンが風に踊る向こう、空を切り取る窓辺に、あの青年が、クレナイが、佇んでいた。 教師を通して返してもらったあのマントは羽織っていない。血で濡れているからだろう。マントと同じ純白の、軍服に似た衣装は、彼自身の鮮やかな色彩を際立たせる。 黄金の光を背負って微笑む姿は、昨夜と同じように、神がかったようで。 ――とはいえ。それはそれ、これはこれ、である。 「…………あの」 「うん?」 「ここがどこか、知っているんだよね?」 クレナイは一拍置いてから、それがどうしたと言わんばかりに首を傾けて一言。 「……キミの部屋?」 なるほど。よくよく分かっていないらしい。 真白は枕を掴んで、徐に振り上げた。 その動作だけで何をする気か分かったらしい。クレナイは笑顔をビシリと固まらせた。 「わ、ちょっ、待」 「女子寮は、男子禁制!」 「うひゃぁっ!」 ブン、と枕は赤毛を掠めて虚空へ飛んでいく。さすがと言うべきか、身を捩じらせて避けたらしいクレナイは、指先でそれをとらまえた。その動きでバランスを崩したのか、ぶんぶんと腕を振って体勢を整えると、ふう、と長く息を吐いた。 人間、本当にそんな漫画みたいな動きでバランスを取り戻せるのか。別のところに感嘆してしまった。 「あ、危なかった……。もう、落ちたらどうするのさ。ボクじゃなかったら死んじゃうよ?」 「死なないんなら落ちればいいのに」 「うわー……うわー。聞きました? 命の恩人に向かってこの態度ですよ?」 「誰に向かって言ってるんだい? ……その、助けてもらったことは、感謝している、けど! 仮にも女子の部屋で、今は夜中なんだから、もう少し考えるべきだと思うな」 「え」 クレナイは目を丸くして、自分の足を見下ろしてから、また真白を見た。 「窓枠ならギリギリOKかと思ったんだけど」 「………………いや、OKじゃないでしょ」 「ありゃ」 全くの考えなしではなかったらしい。なんとなく気が抜けてしまって、それ以上追い出す気は失せてしまった。 それにしてもまあ、これが自分の命の恩人で、引いては学院の救世主だとは。にわかには信じがたいが、しかし、実際自分の目で確かめている以上疑いようもない事実であった。 「ハイ枕」 「どーも……」 そんな真白の胸中も知らず、クレナイは足を外に投げ出す形で窓枠に腰掛けた。 「それで……キミの様子を見に来たんだけど、まあ……元気そうだね」 そう言うクレナイの声音には、安堵の色が見え隠れしていた。 「わたしの様子? ……何故?」 「何故って……気になったから? あんなことがあった後だしね」 「…………」 「それは全員同じだって思ってる? 言っておくけれど、キミと全く同じ状況を経験した人はいないよ。友人を殺された人は多くいても、校舎に取り残され、敵を殺す様を目の当たりにし、敵を退けつつ同級生の死体を踏み越え校舎を脱出したのはキミくらい。キミの置かれた状況、経験が他と比べてとみに異常であるということは、忘れない方がいい。キミ自身の、精神のためにね」 そこでふと、クレナイは、目に柔らかい光を宿した。 「……キミはもう少し、自分に甘えを許すべきだよ。普通の女の子なんだから」 ――甘えを、許す? そんなことは、わたしには、できない。だって、 だって、なんだっけ? 「でも、ちゃんと反応できるくらいには元気みたいだから、安心したよ」 急に明るくなったクレナイの声に、僅かな滞留を見せた疑念がふわりと崩れる。 その代わりに残ったのは、乾いた失望だった。 そう、クレナイは屈託なく笑うけど。 どこか、体と心が乖離しているような感覚が、ずっと続いている。これを、元気だと、言える? あまりに馬鹿馬鹿しくて、笑えもしない。 真白は枕を握ったまま、何も言えずに俯いた。 「……空元気もね、元気の内だよ」 そう、水のようにするりと胸に滑り込んだ言葉に、真白は顔を上げた。 クレナイは、困った子供を見るような、酷く優しい表情で。 ぱちくりと目をしばたたかせた真白に、クレナイはそれ以上言葉を重ねることなく、ニコリと破顔して、 「じゃ、ま、もうおいとまするね」 「え、あっ」 ぐっと窓枠を押し、足から階下へと落ちて行った。 「うそ……!」 慌てて下を覗き込むが、 「あれ……」 そこには、誰もいなかった。午前零時すぎの光が落ちているだけ。あの目立つ赤毛も、白い服も、残滓さえ見当たらない。 落ちてしまえとは言ったけれど、本当に落ちてしまうなどとは思っていなかった。 無事着地して走って行ったにしても、速すぎやしないか。それ以前に、落ちても死なないとは言っていたけれど、真白の部屋は五階――四階はないので実質的には四階である――だから、正直、怪我なしに済む高さではない。 けれど、彼なら大丈夫という、曖昧な信頼もあった。 まあ、大丈夫なんだろう。校舎二階から飛び降りるときだって、高所からの降下は全然平気だと匂わしていた。あっさりと心配を棄てて、顔を引っ込めた。 というよりも、どうやってここまで上ったのか、という方が気になる。けれど、考えても無駄だろう。彼は色々型破りだ。 クレナイのいなくなった室内はシンと静まり返って、暗い。彼はまるでとびきり明るい光源だ。 「………………」 ――空元気もね、元気の内だよ―― 元気、なのだろうか。わたしは。 沙那が死んだのに? 急に、苦いものが腹からせり上がってきた。 ――わたしは、なんて薄情なんだろう。大切な友人が殺されたのに、守ってあげられなかったのに、一緒に死ぬことさえできないのに、元気を失うことさえもできないなんて。 自己嫌悪に泣きたくなる。でも、涙はもう枯れていた。 鬱々とした心を置き去りにして、時間はただただ、朝へと向かっていく。 * 学院の講堂は、およそ学生のために作られたものとしては巨大に過ぎる。 それもそのはず、この学院は、ただ学業や戦闘訓練のみを主としているわけではないからだ。 本来は、我らミハシラの休息の地、そして目覚めの地。 平生は壁と同化した大扉に隠された向こう側、奥殿には、神々しさすら捨ててどこまでも透き通った聖池がある。そこには、人一人優に包み込めそうな巨大な蓮華が、かつては浮いていた。いつもは口を固く閉ざしている花は今は無い。秋のミハシラが――この身が覚醒した途端に、光の粒と散ってしまった。 それは、つまり。兄弟の中で自分が最後に目覚めたということ。すなわち、始まりで。すなわち、終わり。畢竟、後戻りはできないのだ。 後戻り、したいとは思わない。 ただ、誰も見ようとしない先へと進みたい。 「――ミハシラ様」 「うん?」 揺らめく水面に、声は不安定に跳ね返る。振り向くと、四角く切り取られた光の中、学院長が立っていた。 曲がった腰を杖で支える老人。前目覚めたときにいた学院長――その人は女性であったが――の面影を色濃く残している。懐かしさに思わず目を細めた。 「明日、貴方様のお目覚めを、国中に知らしめたく存じます」 「国中? あの講堂にそんなに入るの?」 「いえ。通信機器を用います」 「へえ……時代は進歩してるなあ。ま、あれから三百年だし、当然か」 あの頃は、国の中で群雄割拠の時代だった。今みたいに、上空を戦闘機が飛んだり日夜警報が鳴ったりしていない状況など考えられなかった。 もっとも。今度は、他国を相手にそうなるのだ。 「つきましては」 戦乱を知らない老爺の声は、恐怖か、緊張か、はたまた何か、震えを抑えていた。 「ミハシラ様にも、ご出席いただきたく」 「うん、いいよ。前に出てちょろっと挨拶すればいいんだよね」 学院長は、黙然と頷いた。その様は確かに、構成員以外で唯一枢密院への立ち入りを許される、学院のトップとしての威厳を持ち合わせている。とはいえ――平和に飽和した子供であることに、この目を通せば、変わりは無い。 「――ミハシラ様」 「ん?」 「貴方様は本当に、わが国に栄光を齎す、ミハシラ様なのですか?」 ――――もはや言われ慣れた。 自分でも、国の未来を背負う存在としては”軽い”性格であると自覚している。それが特段作戦ということはない。こういう男だっただけの話だ。 とはいえ、ミハシラというのは選ばれるものだ。元よりそれとして生まれてくるのではないし、まして、ミハシラとしての義務を果たすのは後にも先にも一度きり。ミハシラとしての自己が形成されるはずもない。そもそも、一体どういった偶像が求められているのか、それすら知らない。 もっとも。少々頼りなさを覚えられるのも、致し方ないと諦めてはいるけれど。 「――試してみる?」 ――人として生まれ、神となってからの数百年。その積み重ねは、決して無駄ではない。 長者としての威厳とか、世の渡り方とか、自分の作り方とか。精々七十歳そこそこの子供と、比ぶべくもない。 学院長はハッと息を呑んで、にわかにがくりと膝を折った。 「も、申し訳ありません! 決して、決して、貴方様をお疑い申し上げているわけでは」 「うん、分かってる。……明日だよね。覚えとくよ」 学院長は漸う立ち上がり、恭しく礼をして出て行く。 ――淡い光を放つ水面に映る、幼さを残す貌。 寿命を失ったその瞬間を切り取った。 軽く見られるのは仕方ない。どう背伸びしたって、結局肉体は子供なのだから。 顎をなぞれば、年頃を過ぎた男ならあるであろうチリチリとした感触は、全く触れない。 「…………付け髭でもつけてみるかなあ」 * その日は、寮からまっすぐ講堂へと集められた。 グラウンドのように開けた場所でなく、四方を壁に囲われた場所に集まってみれば、改めて人数が少なからず減っていることがよく分かる。講堂内の空気すら冷え冷えと湿っていて、沈鬱な静けさを湛えていた。 「……お、真白」 先日はミハシラに大興奮していた善も、今日ばかりは神妙な面持ちだ。 「やっぱり……昨日のことで集められたンだろうな」 「だろうね」 真白の気持ちは幾分落ち着いていた。否、もはや起伏を失ったといってもいいかもしれない。現実を現実として”受け入れた”のではなく、ただ”眺めるしか”ない。そんな境地。――自暴自棄。外に向かう行為としてでなく、内に向かう虚無。いずれにせよ破壊行為であることに変わりない。 そんな真白の、いやに平坦な声は、些か妙に聞こえたかもしれない。善は少しだけ眉をひそめたようだったが、思い過ごしだとでも解したのだろう。特に追及することもなく、ふと、憚るように辺りを見回した。 「……物々しい報道陣だね」 「ああ……」 壁際にではあるが、ずらりと並んだカメラ、カメラ。控えるマスコミはいずれも正装であり、彼らが持つ世間一般的なイメージとは異なった、ピリピリとした空気を纏っている。 なるほど確かに、国家の重要機関である学院が、正体不明の輩に襲われたとあっては格好の的だろう。 しかし、 「気分ワリーな……」 当事者にしてみれば、放っておいて欲しい、というのが本音だ。だからといってそれを表に出すことはしない。世の中の仕組みだとかいうことではなく、これは紛れも無く国全体の問題だと分かっているからだ。 夏の国――本当に彼らが攻めてきたのだとしたならば。 と、そのとき、カン、と木と木がぶつかり合う音が講堂前方で破裂した。顔を上げれば、壇上に学院長が杖をついて立っていた。 普段、彼を目にすることはない。学院という機関の構成員の中で唯一枢密院に入ることを許される彼は、普通の学校における「校長」とは一線を画する。大雑把に言って学校の経営を司るのが校長なのなら、それは副学院長や教頭の役目。彼は、言ってしまえば、枢密院と学院との橋渡し役だ。 教育方針も、内容も、何もかも枢密院が決める。それを学院長が拝受し、学院内に決定事項を下ろす。副学院長や教頭がそれを実践するためのシステムを組み直し、各教員に伝達する。学院長なんてのは、ほとんど象徴に近いものなのだった。 だから、こうした集会の場であっても、彼が出席するのは入学式と卒業式くらいのものなのに。それほど、今回の事態が重いということだろう。当然である。 背が曲がった学院長のために副学院長がマイクの位置を整えている間、学院長は、鋭い猛禽類のような目で、講堂全体を睨むように見回していた。 杖の音からこちら、講堂内には啜り泣きすら無い。ひんやりした息苦しい静寂は、漸う破られた。 「……諸君。昨日は、誠に残念だった。突然の襲撃に、いくつもの尊い命が犠牲になってしまった。生徒諸君も、やり切れない思いで胸が満たされていることと思う。……本日は、かの襲撃について判明したこと、そして、我々のこれからについて話をするため、こうして集会を開いた次第だ」 固唾を呑む音が幾重にも重なり響く。それがより一層空気を張り詰めさせた。 「昨日学院を襲った者たち……彼らは、夏の国の刺客であることが分かった」 にわかにざわめきが広がる。生徒たちも、マスコミたちも、信じられないと顔を見合わせ、驚きを言葉に漏らしていた。静寂を促す声も、消えては生まれる波紋に掻き消されていく。 当たり前だ。つい一昨日までは友好な関係の下、物資だけでなく人と人とのやりとりも行っていた国にとあれば、驚くのも無理からぬ話。むしろ驚かない方がどうかしていると言える。 「……?」 ふと、真白は妙なことに気がついた。 講堂の左端、壇上に近いところに並ぶ教師陣に、驚いた様子が見られない。もしや、先に聞かされていたのか。 いや、しかし――昨日、サイレンが鳴り教室から出てきた彼らは、 「静粛に」 決して、大きな声ではない。鞭打つような語気でもない。ただ、彼の持つ雰囲気のせいか。 学院長の発した一言が、再び水面を静めた。 さすが、と言うべきか。込み合う人と人との間をすり抜け端から端まで行き届いた言葉が、皆の口を塞ぐ。 学院長は再び、ぐるりと講堂内を見渡した後、厳かに言った。 「一昨日――我が国のミハシラが目覚められた。三百年の歳月、固く鎖されていた瞼を開いて、かのお方が申されたことを、恐れながら私が、ここに代弁しよう」 カツン。杖を一つ。 「角笛は鳴らされた――ラグナロクの始まりだ」 |