泣き止む頃には、床を壁を伝って響いてくる物々しい音も、断続的になっていた。
 青年は無言で真白にハンカチを手渡すと、その顔を見ないまま、部屋を出て行こうとする。その靴が敷居を跨ごうとしたのを見て、芯が痛んで茫漠としていた頭が一気に覚醒する。真白は慌ててその裾を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「どうかした?」
「ここに、置いていくつもりかい?」
 正直、もう一度襲われたら、生き残る自信はない。まして気絶したままの蜜柑もいる。そんな殺生な、という思いを込めて青年を見ると、彼は教室中をぐるりと見回して、ふーむ、と顎に手を添えた。
「それもそっか」
 ほっとしたのも束の間、
「でもボク、これから敵をやっつけに行くんだけど、それでもついてくる?」
「え、」
「キミを守りながら、っていうのはちょっときついな。けっこう入り込んでるみたいだし、多分、怪我させちゃうよ」
「……それは」
「それに、そこの女の子を一人置き去りにするの?」
「………………」
 反論の余地がどこにもない。
 う、と言葉に詰まった真白を見て、青年は困ったように笑んだ。
「……ベストは、キミが彼女をつれて逃げてくれることなんだけど」
 窺うような沈黙に、ぶんぶんと首を横に振る。どこにさっきのような刺客がいるか分からないし、そもそも蜜柑を抱えて走るのも無理だ。いくら小柄な彼女とはいえ女の子一人、真白とても蜜柑とそう体格は違わない。
 うーん、と青年は腕を組んだ。槍を握っていた右腕の袖についた血が、左袖にも移った。
 その間も、どこかあちこちで何かが壊れるような音がしている。
 どうして、こんなことに。一体何が起こっているのだろう。
 昨日まで平和そのものだった学院。それが、ほんの数十分で、この有様だ。
 ――夏の戦士。刺客はそう言った。
 この惨劇を引き起こしたのは、夏の国。だが、夏・秋・冬の三国は、それぞれに協定を結んで、友好関係にあったはずだ。
 考えれば考えるほど、わけが分からない。だが、これだけは確実だ。
 夏は、沙那の仇。すなわち、敵だ。
「…………うん、仕方ない、か」
 しばし考え込んでいた青年は、ふうと息をついてそう呟いた。それに思索を止めて顔を上げる。
 青年は徐に、ぐったりとして動かない蜜柑を背負い、左手だけで支えた。
「とりあえず、校舎から出よう。ついてこれるよね?」
「え……え、と」
 真白がおずおずと頷くのを見てとるや、青年はニコリと微笑んで、
「うひゃ」
「よし。じゃ、敵は何とかするから、ガンバローね」
 真白の頭を、幼い子供にするみたいにわしゃわしゃと撫でた。女の子にするにしては乱暴だ。
 少々、いやだいぶ、複雑である。
 しかしそんな異議申し立てをする暇もなく、青年は動き出した。開いたままのドアにぴたっと張り付き、廊下を窺う。
 真白は沙那のそばにしゃがみこんだ。
「……ごめん。先に行くけど、必ず、迎えに来るから」
 もはや用を為さない耳にそう囁く。数秒黙祷してから、青年に続いた。
 あれほど人が溢れていた廊下も、今や、生きている人は誰もいない。逃げ遅れたのか、ぽつりぽつりと死体が投げ出されている。
 真白は思わず顔を背けた。
 その先には、命の恩人の横顔。
「あの……」
「うん?」
「昨夜、会った……よね」
 ふと、青年はこちらを一瞥した。そして、一度ぱちりと瞬く。それを肯定ととった真白は、問いを重ねた。
「名前は、何ていうの?」
「名前?」
 必要なのか、と言外に込められた響きに、真白は確と頷いた。
「命を預けるんだ。キミのことを、名前だけでも知っておかないと不安だよ」
 果たしてそれだけだったのかは、真白自身にも分からない。
 ただ、青年はそれだけで満足したのか、つと口端を吊り上げて――
「クレナイ」
「、え?」
「よし、行くよ!」
 勢いよく飛び出した。
 廊下の死体には、知った顔もちらほらある。昨日までは、普通に、他愛ない言葉を交わしていた。
 まさか、翌日には命を落とすことになるだなんて、思いもしなかったろう。
「…………っ!」
 真白はくっと唇を噛み、クレナイが背負う蜜柑の背中だけを注視し、走った。
 隣の教室の前にいた、先の者と同じ服装の刺客が、真白たちに気がついて武器を向ける。クレナイは蜜柑を抱えながら軽やかに蹴り飛ばし、壁に激突して気絶した刺客をそのままに、出口を目指して走る。
 次々に、クレナイは刺客たちを倒していく。その強さは目を見張るほどだった。相手に攻撃する暇も与えず距離を詰め、のしていく。否、ただ単純に強いというだけではない。戦いに慣れている。
 授業で戦闘訓練を受けてきた真白だが、ここまでの手練を見たことはついぞない。
「……っつ、強いんだね!」
「まあ、それが取り柄というか、そうじゃなきゃ存在意義がないからねー。よっと」
「それは、どういう意味っ?」
「んー? そのままの、っと、意味だけど? はいはいどいてねー」
「存在意義って、ちょっと大仰じゃないかい?」
「そんなことも、ない。その内分かるよ、キミにも」
「……ねえ、君、一体――」
 何者なの、と続くはずだった言葉は、突如立ち止まったクレナイの手に遮られた。
 ここはまだ二階の長い廊下の途中、外までは少し遠い。どうしたの、と問おうとした真白は、前方のそれに気がついて、くっと息を詰めた。
 右腕を横に伸ばし、真白を背に庇うようにして立つクレナイの視線の先には、
「あら、その服。随分と高貴な方のお出ましのようね」
 長い髪を肩に流した、妙齢の女性がいた。
 世の女性皆がうらやむような、柔らかなラインを描く肢体を包む白いスーツには、赤い血が飛び散っている。彼女が持つ、その細腕には似合わない大斧も、べっとりと濡れていた。
 一瞬で、敵と知れる。真白はほとんど無意識に、クレナイに借りたまま羽織っていたマントを握り締めた。
 惨状の中、妖艶という言葉が形を成したような笑みを浮かべる女性に、クレナイは、真白を背に隠したまま、しかし、警戒など微塵もしていないかのように、にこりと破顔した。
「こんにちは、お姉さん。キミも夏の人?」
「ええそうよ、高貴な坊や。よく分かったわね」
「夏の人は口が軽いようだから。ふふ」
「あらあら……教育し直さないと」そこで女性はつと、面白がるように片眉を上げた。「なあんて言っても、もうとっくに死んじゃってるんでしょ?」
 語頭と語尾を伸ばす独特の口調は、その艶を一層際立たせる。だが同時に、同輩の死を何とも思わぬ残酷ささえもが浮き彫りになった。
 理解しがたい境地だ。否、したくもない。眉をひそめたが、声を上げることは憚られた。
 ――この国最大の教育機関とは見る影もない、惨澹たる戦場。あちこちに打ち棄てられた、何の罪もない学生たち。その中で、血塗れた凶器を手に笑む二人。
 その間に漂う、緊迫でありながら怠惰な、されど迂闊に触れれば心の臓まで一気に斬りおろされそうな妙の空気。
 ひとえに。彼らとは何もかもが違いすぎると、体の奥底にある本能に触れる以前、肌が感じ取っているが故に。
「うん。殺せっていうから、お望みどおりにね」
 立場。思想。力量。そんな表面的なものではない。
「情けはいらぬ、って? 莫迦よねえ、ほんと。死んだら何もかも終わりだっていうのに。そうは思わない、血染めの外套に縋るお嬢ちゃん?」
 或いはそう、それらを形成せしめる根源そのものが。
 こんな状況で、平和を叫ぶつもりはない。宙ぶらりんの平等を謳うつもりも毛頭ない。敵は敵、友の仇、倒すべきもの。――さは思えど。彼らのように、まるで、ちょっとそこまで買出しに行くような、自らがその渦の中心にいながら全く他人事のような、そんな調子で、人の生き死にを、生殺与奪を語るなんて。
「あらまあ。ダメねえ、軟弱で。全く豊穣は堕落しか齎さないわ」
「平和は決して悪いことではないと思うけどね」
「ばぁか。この因果律の中にいて平和だなんて、仮初もいいところじゃない。終わりの確定した平和への傾倒は真罪悪だわ」
「……うん、そうだね。平行線だ」
 もはや歩み寄れる差異ではない。視認さえもままならぬ、決定的な次元という隔たり。理解しようなどと、既に傲慢ともいえる。
「でも、ねえ。普通逆じゃない? 坊やこそ守られる側のはずよねえ」
「……その認識は、間違っているな」
「あらそう? おかしいわね、アタシはそう教わってきたのだけど」
「ボク”ら”は、国のために戦う。キミたちはそう教えられているはずだよね」
「――アハハ! そうね、そうだったわ。勝者は繁栄を還元するのだものね」
 違いすぎることに対して抱く恐怖以前に。自らが今ここにある事実すらも、疑いたくなる。
 何を言っているのか分からない。何をしようとしているのか分からない。
 どうしてわたしがこんなことに、なんて。考えても詮無い、さっき封印したはずの疑念が鎌首を擡げる。
 ――全て。全て、夢なんじゃないかと。願望がすり替わった希望的観測の極致にさえも到達する現実逃避。それがどれだけ愚かなことかは、わざわざ提起しなくとも分かっている。――仮に、そんな逃げを打たないにしても。
 今の今まで隣にあった存在が、こんな状況でたった一つ、縋れる腕が、銀幕の内の仮想存在に思えた。
 真白は、足元がガラガラと崩れて、奈落に吸い込まれていくような感覚に陥った。
「――――大丈夫」
 不意に耳朶に触れた囁き。それに顔を上げれば、
「大丈夫だよ、真白ちゃん。キミは、ボクが守るから」
 命を預けると決めた、どこまでも澄んだ湖を切り取る碧眼に、自分が映っていた。
「う、ん。分かった」
 理由はなく。ただ、じわりと、四肢の末端にまで広がった不思議な暖かさに、真白は頷いた。
「よかった」
 そう言って。クレナイが見せた笑みは、先まで女性に向けていたものとは全く違う彩りを持っていた。
 そこで初めて、さっきまでの彼のそれは、あまりに無機質で、言ってしまえば、笑みではなくただ口元の歪みに過ぎなかったのだと知った。
 違わない。彼は、同じだ。同じ、人間だ。
「……なんだか妬けちゃうわね。あーあ、アタシもそんなこと言われてみたい」
 言葉とは裏腹に、女性の口ぶりは楽しげだった。
「キミの”ご主人様”に?」
「やだ、まるでアタシが飼い犬みたいじゃない」
「間違ってはないよね? 守護者さん」
 守護者。初めて聞くワードに、真白はクレナイを見たが、彼は既に真白を視界に入れていなかった。
「キミは見た目によらず、随分と尽くすタイプみたいだね。開戦直後から、単身敵地に乗り込むなんてさ」
「人を見た目で判断しちゃいけないのよ、坊や」
「これは失礼。でも、少なくとも、忠誠心は無いよね。……うーん、これ以上追及すると野暮かな」
「――フフ。見かけによらず情に聡いのねえ」
「……そんなに朴念仁に見えるかなあ」
 そんな、何気ない風を装ったやりとりの間に、女性は至極ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきていた。無造作に下げられた大斧の先が、がりがりと床を削っていく。
 その無機質で暴力的な音が、真白の不安を煽る。だが、もう心は決めていた。
 臆すまい。大丈夫。クレナイがいる。
 大丈夫。これは、魔法の言葉だ。
 ぐっと唇を引き結んで、ともすれば震えそうになる膝を奮い立たせた。
 クレナイは女性の言に応じながらも、無駄のない動作で蜜柑を降ろし、真白に託した。下がるよう手で合図し、いつの間にか消えていた長槍を虚空から取り出す。しゃら、と金属が触れ合う音が、半壊の廊下に響く。それを機に、女性は漸く足を止めた。
 お互いの射程に入らない距離で対峙する二人の口元は、弧を描いている。しかし、空気はピリピリと産毛を焦がすほど張り詰めていた。
 懐の探り合いはもう終わり。あとは、死合うだけだ。
 真白が充分に距離をとったのを確認してから、クレナイは口を開いた。
「ねえ、お姉さん。よければ、お名前。聞かせてもらえる?」
 槍の穂先が、どこからの攻撃にも対応できる位置に留まっている。対して大斧は、未だ床に着いたままだった。
 この女性は、強い。真白でさえ、そう直感的に悟った。
 或いはクレナイには、何か別のものも見えているのだろうか。
「教えてほしいなら、坊やが先に名乗りなさいな」
「……んー。そうだな、いいよ。クレナイっていうんだ、よろしくね」
「ふうん。いかにも秋らしい名前ね」
 大して興味もなさそうに言った女性は、ふと、真白に目をやった。
「…………?」
 一瞬。不思議な光が、その瞳に翻った。だが、もしかしたら、気のせいかもしれない。瞬きの内に、それは跡形もなく消えてしまっていた。
 ゆるり、と、女性の翠玉の双眸が動く。ひたとクレナイをまっすぐ見据えた刹那、ずっと口元にあった笑みから、愉悦が失せた。
 否、或いは――その色彩を全く違えてしまったのか。
「…………うふふ。残念、おしえてあーげない」
 そう、ささめいた刹那。
 火花が、散った。
「……!」
 大斧が空気を断ち切る、音は聞こえる。しかしその軌道は肉眼では捉えられない。
 対して朱槍がそれを的確に弾いているのが虚空に咲く曼珠沙華と、遅ればせて響く打突音で分かる。
 不可視の戟。確かに有るのに視認を許されないそれは、常人を超えた速さに起因するものだった。
「――へえ。速いね」
 咲き誇る花の中で。
「……、貴方こそ」
 クレナイと女性は、対立する表情を浮かべていた。
 苦楽。唯一真白にも見えるそれが、戦況を判断させる。
 明らかに、クレナイが彼女を上回っている。
 それを理解できないのは、強者ではない。クレナイに格段に劣るとはいえ強者の部類に入る女性は、チッと舌を打ち一際強く打ち合って、その反動で距離を取った。
 目視五メートル。着地したと思った刹那、その姿が掻き消える。
 自然のものでも、まして人の動きが齎す余波でもない、恣意的な迅風が、頬を掠める。
 クレナイが、一歩足を引くのが見えた。
 ――瞬間。一体何があったのか、真白には理解できなかった。
 閃光が煌いたと思った途端、クレナイの体が前触れなく、猛々しい豪炎に包まれた。認識できたのは、唯それだけだ。
「――――っ!」
 声にならない悲鳴を上げる。凍りついた腕から、蜜柑がずるりと床に落ちた。
 熱風が髪を嬲る。小さく爆ぜる火花が肌を焼いて、その炎が幻でもなんでもないことを悟った。
「クレナイ!」
 足に根が生えたかのように、その場から動くことができない。唯一機能する喉で、真白は彼の名を叫んだ。
 炎は瞬く間に球状に広がり、真白に届く前に四散する。
 そこには――
「……意外。あんなに重そうなの、軽々と振るなんて」
 どこか感心したように呟いて、クレナイが傷一つ負わない姿で立っていた。
 その姿を見た途端、膝から力が抜ける。膝小僧を思い切り床に打ち付けた痛みも感じないくらいに、真白は自失していた。
 さっきのがなんだったのか、なんて考える余裕もなく。衝撃と安堵とがその性質に似合わない怒涛のような波撃で襲い掛かってきて、頭の中が綺麗さっぱり空白だ。
 クレナイはそんな真白の様子には気がつかず、ふむ、と首を傾ける。
「いないなあ……逃げられちゃったかな。…………うーん、そっか。でも見当たらないね……ま、死ぬ気は毛頭無かったんだろうし、いい見極めなんじゃない」
 きょろきょろと辺りを見回しつつ、独り言を呟く。漸く現実に戻って、長々と息を吐いた真白は、その仕草で初めて、女性の姿がどこにもないことに気がついた。
「あれ……」
 もしかして、今の炎で。けれど、それらしきものはない。クレナイも、逃げられたと言っていた。
 ――まだ、どこかにいて。わたしたちを、狙っている?
 途端に恐怖が背筋を駆け抜けて、真白は胸の前でぎゅっと拳を握り締めた。
 大丈夫。クレナイがいる。クレナイは強い。そう、目を閉じて自分に言い聞かせる。
「…………真白ちゃん?」
 驚いたような声に瞼を上げれば、クレナイがこちらを見て目を丸くしていた。タタッと駆け寄ってきて、しゃがみこむ。
「もしかして、どこか怪我した? 痛い? 大丈夫?」
「あ……えと」
「まさか、ボクの火で火傷した? 痛いのどこかな」
 矢継ぎ早に繰り出される質問に喉が詰まって、うまく返答できない。とにかく頭を大げさなほど横に振って、クレナイを制止する。
「大丈夫、びっくりしただけ。怪我はないんだ」
「……びっくり?」
「その……急に、火が」
 クレナイは合点がいったように、ああ、と声を上げてから、少し顔をしかめた。
「あれはー……まあ、ボクの特技というかなんというか」
「と、特技?」
「ん、そうそう。そっか、びっくりさせちゃったか。ごめんね」
「いや……」
 アルコールを使って、火を吹く真似をする人を見たことはあるけれど、あんな風に全身に纏うようになんてできるものだろうか。もっと違う方法を使ったのだろうか。
 いまいち信じきれない表情で見る真白に、クレナイは苦笑して、
「わっ」
 また、頭を撫でた。
 けれど、今度は優しく、慰撫するような。だけどそれだけじゃなく、元気付けるようにも思える。
「怪我、本当に無いの?」
 そう問う声音は、まるで肉親のように、心に近く触れるもので。
「……うん、無い。大丈夫」
 そんな、舌足らずな返事になってしまった。
「そっか。……よかった」
 心底安堵したように呟いて、クレナイは優しく微笑んだ。
 ――まるで。
 幼い頃、どこかへいなくなってしまった、年の離れた兄のようだ、と。
 否、きっと兄は、こんな風であったろう、と。
「……真白ちゃん? ボクの顔に何かついてる?」
「――え、あ、いや……なんでも、ないよ」
「? そう」
 心配そうに覗き込むクレナイに重ねていた、否いっそ彼を足掛かりに形成した、靄のような兄の面影を、頭を振って払う。
「……そろそろ行こうか。さっきの人がどこにいるか分からないし。……立てる?」
「あ、うん」
 二本の足で立脚すれば、少しだけふらついたが、問題はない。気遣わしげな表情を浮かべたクレナイに軽く笑んでみせれば、大丈夫だと判断したのか、再び蜜柑を抱えて進行方向につまさきを向けた。
「…………」
 そのまま、動こうとしない。
「……クレナイ?」
 どうかしたのかと声を掛ければ、うーん、と悩む吐息が返ってきた。
「真白ちゃん」
「うん?」
「キミ、運動神経はいい方?」
「なんだい薮から棒に……まあ、取り柄は、運動くらいしか無いと言っても、過言ではないけど」
 こんな状況で、一体何なのか。刺客が襲ってはこないかと辺りを見回す真白に、クレナイはいやいや、と首を振った。
「相対的にじゃなくてさ」
「そんなの、自分じゃ分からないよ。……成績はいい方だったよ」
 君ほど動けはしないけど、と付け加えれば、また、うーん、と唸る。一体何を考えているのだろう。
 ふと、クレナイが、廊下の窓を見た。
 等間隔に配置された窓ガラスのほとんどが無残に割れている。一応強化ガラスだったのだが、それも実際の襲撃には役に立たなかったらしい。
 想像が、ついた。
「クレナイ、まさかとは思うけど」
「多分、そのまさかだとは思うけど、何だと思ったの?」
「……窓から飛び降りるとか、言わないよね」
 するとクレナイは、あの蓮池のように透明な、彼の衣のように清白な笑みを浮かべてみせた。
 ただ、それだけ。
「いや、ちょっと待ってくれ。確かにここは二階だけど、そこらの建物の二階と一緒にしてもらっては困る。学院はいちいち天井が高いんだ、普通の建物の三階くらいはあるよ」
「三階くらいなら大丈夫だよ。死にはしないから」
「いや、いやいやいや。それはそうかもしれないけど、打ち所が悪ければ死ぬこともある」
 ん、とクレナイは首をかしげた。
「でも、成績良かったんでしょ?」
「それとこれとは、」
「今の学院のカリキュラムはあんまり知らないけど、戦闘訓練はされてるよね。当然、飛空挺からの降下もやったでしょ」
「やっ……たけど、ロープがあったし、こんなに高くは……」
「え、うそ。これより低いところから着地できるようになったって、何の役にも立たないじゃん。じゃあ、脱出訓練は?」
「脱出? 何から?」
 建物からだろうか。生憎、授業での戦闘訓練といえば、陸地での対人戦闘と、飛空挺の操縦や整備くらいである。実際に使用することなどあるまいと、真面目に受けない生徒もちらほらいた。
 そんな現状にクレナイは、信じられない、と呆然と頭を振った。
「なにそれ、今時はそんなゆとり教育なの? うわー……あの人の言ってたことも納得だなあ。そんななら、この有様も納得がいくけど……」
「今時って……」
 クレナイとて、在学生と同じ年代だと思う。存外若作りなのだろうか。
 どう見積もっても、二十代が限界だ。
「でも、ちょっと待って。担当してるの、軍からの天下りでしょ?」
 藤原のことである。つい眉間にしわが寄ってしまった。
「……よく知ってるね」
「ほとんど伝統だからね。……あーそう……戦練の方も、軍じゃなくて枢密院が決めるようになっちゃったのかな……」
 戦練とは、戦闘訓練の略である。とはいえ、昨今その略称は使われない。BTと略されるのがほとんどである。
 あーあ、と、嘆かわしいと言わんばかりにクレナイは顔を歪める。ガシガシと頭を掻いて悩んでいた彼だが、でもねえ、と息をついた。
「まださっきの人も、校内にいるみたいだよ。ここで一気に外に出た方が、キミとこの子のためだと思うけど」
「そ、外も同じだろう。結局同じ敷地内なんだし」
「ん、グラウンドまで行けば安全だよ。結界張ってあるし……キミたちを逃がしたら、ボクも心置きなく、だから」
 そういえば、クレナイは最初、敵を倒しに行くつもりだったのだ。それが、真白たちがいたから、こうして逃がすのを最優先にしてくれた。
 それに、殺されるか否かの状況だったとはいえ、一度は、窓から飛び降りることを決意したはず。
 だけど――。
「……怖い?」
「…………正直」
 死は、怖い。痛いのだって、怖い。 
「うん、そっか」
 だけど。
「でも、それしかない……んでしょ」
「……今のところのベスト、ってとこかな。もっと早くそうしてればよかったけどね」
「じゃあ、大丈夫。ちゃんと、やる」
 もしまたあの女性に出くわせば、多分、ここから飛び降りるよりも危険だ。彼の言うとおり、蜜柑のことも考えれば、律儀に刺客のいる屋内を通っていくよりは、こちらの方が安全かもしれない。
 それに何より。これ以上、足手まといになりたくなかった。
 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる真白に、そっか、とクレナイは頷いた。
「手、貸して」
「? うん」
 言われるまま手を差し出せば、そのままぐいと強く引っ張られた。
「、うわあっ」
「おっとっと、暴れないでよ」
「わっ、え、え?」
 体勢を崩してクレナイにぶつかる寸前、ひょいと体が浮いて、気がつけば、彼の肩に上半身を預けるようにして、抱え上げられていた。
 左には蜜柑、右には真白。小柄とはいえ二人も抱えるなんて、見かけによらず力持ちらしい、とどこか乖離した頭でぼんやりと考える自分がいた。現状を把握しきれていない真白を他所に、クレナイは教室側の壁に寄る。
「じゃー行くよー」
「え、行くってどこに……わっちょっと待」
「ジャーンピーングやっほーい」
 それはそれは楽しそうな掛け声と必死の悲鳴が折り重なり、夕焼け空を突き抜けて、消えた。

  *

 ――果たして、あのときの自らの情動を、如何にして解したものやら。
 破壊し尽され、教えを授ける場としてのアイデンティティを全く失ってしまった部屋の中、ぼんやりと座り込んで思い返すは、あの刹那。
 学院のありきたりな制服を纏い、彼女のような平民が本来触れることも許されないような、金銭なんて卑俗で量れない壮麗荘厳な外套を握り締めた少女。
 どこかで見たような、なんて、ありもしない既視感。その理由は、想像はつくけれど、理解のしがたい邪推。
「――…………」
 恐らくは。これは本当に、なんの根拠もない空想でしかないけれど。きっと、あの子が秋の守護者に選ばれるのだろう。
 そうすれば、また会うことになる。戦うことになる。
 あの方とも。
「……だからって、どうということもないわ」
 だって、それが自身の、我らの使命。
 こんな因果の元に生まれ落ちたからには、泣いて叫んだってどうしようもない運命なのだから。
 それをきっと、この国の者は誰一人として理解していない。唐突に瓦解した漫然たる平和に拘泥して溺死する。こんな、温もりに浸りすぎて根っこから腐り落ちた国に、負ける道理などあるものか。
 ――ただ一つ。心配事があるとすれば。
「あの方は、まだ、若い」
 聞いてみたことはないけれど、もしかしたら自分と同じくらいなのではないだろうか。それは、大きなハンデだ。普通彼らのような者は、数百年数千年を疾うに経てから黄昏を迎えるもの。秋の彼も、一度機会があって見かけた冬も、器そのものの限界はとっくに超えていた。だが、あの方にその綻びは見出せない。
 彼らのような達観も。諦念も。覚悟と見紛う意思の喪失も。
 人形めいた虚無すら、きっと、持っていない。そうあるように装っているだけ。そう教育されたから。他の者たちのような、自然に欠け落ち崩れ風に浚われたのではない、まるで無いかのようにペンキで塗りたくっただけ。
 或いは――そんなところに、
「……馬鹿馬鹿しい」
 嗚呼真馬鹿馬鹿しい。もうあの方は人ではない。否、そも初めて会う前から人を棄てていた。だから、人であるこの身など。
 駒でいい。手足でいい。切り離せる尻尾でいいのだ。
 大斧の一振りでは殺しきれなかった炎で顕わになった、胸に刻印された夏の守護者であることを表す刺青をそっと撫でて、徐に、立ち上がった。

  *



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