「あ、真白!」
 室内は案の定ざわめいていた。おろおろと辺りを見回す者。不安を紛らわせるように級友と言葉を交わす者。平静を装う者。その中で、やはり不安そうに両手を組み合わせて所在なげに立つ沙那が、真白を見て、どこかほっとした表情を浮かべて声を上げる。そのまま駆け寄ろうとして、ふと蜜柑に目を止めた。
「あ……じゃ、じゃあね、真白ちゃん」
「うん。ありがとう、蜜柑さん」
 軽く会釈をして、蜜柑は自分の席に向かっていく。
 その背を、沙那は厳しい目で見ていた。
 実のところ、二人はあまり仲がよろしくない。否、蜜柑としてはそういうつもりはないのだろうが、いかんせん、沙那が彼女のことを快く思っていないのだ。曰く、
「何を考えているか分からない」
 だそうである。真白としては、その意見もよく分からない。蜜柑は、少々物怖じしすぎるきらいはあるが、決して悪い子ではないと思う。
 沙那は、すっと真白に視線を戻すと、その肩に手を置いた。
「真白、今まで何してたの。もう二限だよ」
「あはは……寝てた」
「寝てた、って……」
 ガク、と沙那は大きく肩を落とした。そんなに呆れられたって、寝坊したのだから仕方ない。
「……早く寝ないからよ。どーせ昨日、難しい本でも読み耽ってたんでしょ」
「読んでないよ。昨夜は帰ってすぐに寝たからね。大体難しい本は好きじゃない」
「そーでした。じゃ、藤原センセの部屋の前で何時間も立ち往生してた?」
「む。馬鹿にしているね? 残念、藤原はすぐにクリアして、それからまっすぐ――」
 否、決してまっすぐではなかったはず。だって、研究棟を出てから、
 ――何をしていたのだっけ?
「真白?」
「…………あ、えっと」
 真白は、ふるふると頭を振った。
 昨夜はなぜか記憶が判然としない。特に研究棟を出てからが、砂嵐に巻かれたかのように拡散する。
 とはいえそれもよくあることだ。大した変化のない漫然であるが故に、埋もれてしまうのも仕様が無い。
 けれど。何かが、脳を引っかく。
 黙りこくってしまった真白に、沙那が声を掛けようとして、
 サイレンの合間に入ったノイズに、全員がスピーカーを見上げた。
『学院内に、不審者が乱入。学院内に不審者が乱入。速やかに避難を開始してください。繰り返します……』
 平静を装いながらも焦りを隠しきれないアナウンスに、教室中の不安と喧騒が一層高まった。
「不審者?」
「うそ……どういうこと? 学院って、警備がかなり厳重なんじゃ」
「と、とりあえず逃げないと」
「でも、どこに? だって、不審者が……!」
 そう、不審者が中に入ってきたというのなら、迂闊に出れば遭遇する危険だってある。それを考えれば、訓練で身に染み付いた避難とはいえ、易々とは動けない。
 しかし、それを押してでも避難させなければならないほどの事態だとでもいうのだろうか。
「真白……」
 顔面蒼白になった沙那が、小さく、でも強く真白の袖を握る。
 その細くしなやかな手は、震えていた。
「……大丈夫」
 何の根拠もないけれど。
 自然、そんな言葉を紡いでいた。
「大丈夫だよ。うちの先生は、戦闘訓練なんてするくらいだから、強いし。学院は重要機関だから、国もすぐ動いてくれる。大体、そんな危険なヤツが入ってくるもんか。精々変態くらいだよ。大丈夫、大したことにはならないさ」
 大丈夫。その一言ばかり繰り返す。
 まるで、自分に言い聞かせるように。
 その効果があったのかなかったのか、沙那は依然白い顔のまま、しかし、ぎこちなくも笑みを浮かべてみせた。
「そう、だよね……。うん、そうだよね。不安になってちゃ、ダメだよね」
 その笑みに、真白自身の不安が溶かされていくのが分かった。
 自分自身、不安で不安で仕方がなかったのだと、それで初めて気がつく。
 きっと、この顔も、沙那と鏡写しのように蒼白だろう。
 でも、何とかなる。そう心の中で繰り返す。何も、戦争が始まるというのではない。不審者といっても、どうせ、マスクマンとか、猥褻な人とか、そんなものだろう――。
 とりあえず、逃げよう。沙那の手をぎゅっと握って、そう言おうとした時、
 轟音が、建物を揺らした。
 教科書に文房具、何でもかんでも軒並み滑り落ち、天井からはパラパラと埃が落ちてくる。あまりの衝撃に、立っていられない。真白は、沙那から手を離して尻餅をついてしまった。
 一瞬。誰もが呆然として、しんと静まり返った。
 一体何が起こった。そんな当然起こるべき疑問も凍り付く。
 一拍ののち、誰かが上げた悲鳴が瞬く間に伝播した。
 混乱が、金縛りを解き皆の足を動かす。誰もが我先にとドアへ駆け寄り、押し合いへし合いしながら廊下へと飛び出していく。もはや、どこに不審者がいるか、なんて恐怖は消え去ってしまったらしい。否、むしろ、不審者というワードと、この危うく死ぬところだった事態が必然的であるとしか考えられない故の恐慌か。
 それはどこの教室も同じようで、廊下に出たとしても動くに動けない。結局、混乱の極みにある生徒と、落ち着かせようとする教師たちとで大混雑だった。
 真白はなんとか立ち上がり、沙那を探した。ドアへ走る人波の向こうに、見慣れた栗色の髪が見えた。
「沙那、大丈夫かい? とりあえずわたしたちも―――」
 言葉は、そこで途切れた。
 無音。狂乱で騒がしい周囲が瞬時に遠ざかっていく。
「さ、な」
 ――親友の、
 笑顔の似合う、羨ましくも思った可愛らしい顔は、
 真っ赤な血に、塗れていた。
「――ぎゃっ」
「ヒィッ」
 あちこちで短い悲鳴が上がり、すぐ後に物が倒れる音が響く。それに交じって、何か金属が風を切る音も聞こえる。
 けれど、真白は、沙那から目を離せずにいた。
 ぼんやりと、焦点の合わない目をこちらに――否、どこかを見ているようでいてどこをも見えていない目が、ぐるりと回って。
 沙那の体はゆっくりと傾いだ。
「――沙那っ!」
 反射的に手を伸ばし、床に倒れこむ前に抱きとめる。しかし、
「ひ、」
 がくり、と。半分に裂けた首が口をぱっかり開いて、本来ありえない角度まで頭が落ちる。
 それは、暴力的なまでに、彼女の死を真白の胸にぶつけた。
 ――ああ、
 ああ、どうして。
 どうして、沙那が、死ななきゃならない。
 どうして、こんな――! 
「危ない!」
 誰かが叫んだ。その声が意識に触れるよりも早く、真白の体は横ざまに吹き飛んだ。
「ぐっ、……う、」
 したたかに壁に叩きつけられ、一時の呼吸困難に陥る。
 一体何が起こった。体の痛みに顔をしかめつつ起き上がり、見ると、
「…………!」
 そこには、異様な風体の男がいた。
 いや、男かどうかも怪しい。フードを目深に被り、口元をマスクで覆っているため顔が分からない。その上、民族衣装のような布の多い服を着ていて、体格から判断することもできない。
 ただ、およそこの国の人間でないこと、そして、この場において味方でないことは分かった。
 おそらく――刺客、そう呼ばれるものだろう。無造作に引っさげた刃からは、まだ色味を失わない赤が滴っている。
 こいつが、沙那を。腹の底から赤黒い何かが渦を巻いて湧いてくるが、衝動に任せて動くには、刺客から発せられる殺気は重厚にすぎた。さっき蹴飛ばされたためかジンと疼く腹を押さえ、じりじりと距離をとる。
 こいつは、不味い。直感がそう告げている。次にどんな動きをとるかも、目的さえも判じ得ない。わずかに後退していく真白を隠れた目で見下ろしたまま、ぴくりとも動こうとしない。
 何かを待っているのか。命乞いか、抵抗か、それとも。
 読めない。一番の恐怖だ。
 真白はちらと沙那に――その体に目をやって、一言、ごめんねと心の中で呟いて。
 刹那、床を蹴った。
 瞬時に相手も動き出す。その反射速度は想像を超えていた。
「くっ――!」
 窓へ。廊下には人が犇いている。ここは二階だから、無傷では済まないだろう。
 それでも、ここでこいつに殺されるくらいなら。
「やあ!」
「……!」
 振り向きざまに、手近にあった教科書を投げつける。刺客はそれを難なく退けると、刃を振った。刃先が真白の服の裾を捉え、皮膚に届かず振り切れる。その一瞬の隙を好機と見て、椅子を蹴り送ると、さすがに避け切れなかったのか、往生した。
 よし、これなら――!
「――あ、」
 視界の隅に、立ちすくむ蜜柑。まだ逃げていなかったのか、否、それよりも。
 もし、今、自分がここから飛び降りれば。
 当然の如く、次に狙われるのは――――。
 わずかに、足が緩んだ。
 それがいけなかった。
「、うあっ!」
「ま、真白ちゃん!」
 足首を掴まれ、一息に床に引き倒される。頬をしたたかに打ち付け、その衝撃で犬歯が唇に引っかかり鮮血が散る。それらの痛みに反応する間もなく、首筋にひやりとしたものが触れた。
 ――殺される。状況を瞬時に理解して、体が強張る。
 呼吸音が耳元でする。平生ではありえない速度で脈打っているはずなのに、動悸はどんどん遠ざかって、ただ息を吸い吐く、そんな生きている証拠だけが残った。
 先程までの怒りは、憎悪はどこへいったのか。
 怖い。
 それだけが、頭蓋を支配する。
 死がどんなものかなんて、今まで真剣に考えたこともなかった。
 こんなにも、死は、怖い。
 勢いをつけるためか、わずかに刃が引かれる。
 来る。一瞬で目の前が絶望で塗りつぶされる。喘ぐように開いた口からは、何も出てこない。
 まもなく訪れるであろう終わりへの恐怖に、真白は目を閉じることも忘れ、ただ固まっていた。
 そして―――肉を断つ音。
「、ぎゃああ!」
 その悲鳴は、自分の喉から、ではなく。
「はー、危なかった。もし欲張って唐揚げまで頼んでたら、確実に間に合わなかったよ」
 そんな間延びした、如何にもこの場にそぐわない声と同じく、上方から聞こえてきた。
 痛みはない。さっきまですぐそこにあったはずの刃も見えない。
 そろそろと上を見上げてみると、
「き、貴様……まさか……!」
「あれ、ボクのこと知ってる? 困っちゃうなあ、有名人って、さ!」
「ぐああっ!」
 朱の髪を持つ、無邪気に笑う青年と、装束を血に染めた刺客。
 そして刺客の肩を貫き壁へ縫い付ける、長槍。その握りは、青年の手の中にある。
 青年はぐっと槍をより深く打ち込むと、その笑顔を刺客の脂汗が浮かんだ顔に近づけた。そして、漸う口を開く。
「――このまま去るなら、見逃してもいい」
「な、に?」
「おとなしくどこかへ行ってくれるなら、殺さないよってこと」
 青年の申し出に、刺客は心底信じられないものを見たような顔をした。
 これには、真白も耳を疑った。
 この状況で見逃すだなんて、何を言っているのか。逃がしたら、また誰かを殺すに決まっている。
 沙那を、殺したのに、見逃すなんて。
 刺客は、案の定と言うべきか、その提案を鼻で吹き飛ばした。
「ふざけるな。我ら夏の戦士、情けなど受けぬ」
 夏。それは、友国の名だ。
 まさか、夏の国が攻めてきたのか。この惨状を生んだのが友国だというのか。
 思索を巡らせる真白の上で、青年が残念そうに息を吐いた。
「情け、ね。……まあ、死を取引するキミ自身がそう望むなら、仕方ないよね。うん、バイバイ」
 そう、至極残念そうな声音であっさりと別れを口にして、穂先を抜き一分の迷いもなく喉笛に突き立てた。
 ぐじ、と肉を抉る音を響かせ、槍が引き抜かれる。引きずられるようにして鮮血が噴出した。
 浴びてしまう。思わず目を閉じた真白に、ふわりと布が被さってきて、降り注ぐ返り血から守った。
 それはよく見ると、白いマントだった。緻密な装飾が施された、下ろしたてのような白。
 昨夜、あの人が纏っていたような――――
「あ……!」
 そう。そうだ。昨日、学院の学習棟内で、見知らぬ人と出会ったのだ。
 そして、その人は、
「大丈夫?」
 気遣うように、呼気を溶かすようにして問いながら、右手を差し伸べてきた。
 その姿は、昨日の神秘的な色彩を残すものの、より近くに――言うなれば、同じ次元に確実に存在していると、そう思えるほどに、近く見えた。
 心配そうに翳る双碧。その色合いに、見知らぬ人という条件から発生すべき警戒は全く消えうせた。
 真白がおずおずと白い手袋に包まれたその手を取ると、存外強い力で引っ張り上げられた。踵が床につく。そのまま自立しようとするが、膝に力が入らなかった。
「おっと」
 がくん、と膝からくず折れる寸前で、青年に抱きとめられた。
 見た目は優男なのに、支える腕はしっかりとして固い。そんなことを、頭のどこかでぼんやりと考えた。
「大丈夫、じゃないよね。無理もないか。……ちょっと、そこに座ろう。ね」
 肩を抱かれ、近くの椅子に誘導される。促されるままに腰を下ろせば、言いも知れぬ疲労がどっとのしかかってきた。
 先ほどまで見知ったクラスメイトが授業を受けていた教室は、今やあまりにも空虚だった。敵もいない。あるのはいくつかの死骸。意志を持って動いているのは、真白と青年だけだった。
 ――沙那。刺客。迫る死。命の恩人。
 いろんなことがこの短時間にありすぎて、頭がこんがらがっていた。
 座り込んで呆然とする真白の前にしゃがみこんだ青年は、あれ、と目を丸くした。
「キミ……」
「?」
「や、なんでもない。ところであちらの彼女はおともだち?」
 ふるふると首を振って、指差した先には、蜜柑が座り込んでぐったりと壁にもたれかかっていた。
「蜜柑さん!」
 慌てて立ち上がろうとした真白を制し、青年は蜜柑の傍に寄った。脈を確かめてから、こちらに軽く微笑みかける。無事なようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
 それから――沙那へと、目を移す。
 開かれた目は虚空を見つめている。表情には何の翳りもなくて、この騒乱を知らないかのようだ。まだ生きていて、むくっと起き上がって「真白、もう、今日もサボって!」なんて小言を言ってきてもおかしくないとさえ思える。
 ――そうか。彼女の小言は、声は、もう聞けないのか。
 その事実をぼんやりと考えて、じわりと視界が滲み始めた。
「……その子、キミの友達?」
 不意に掛けられた声にただ頷く。青年は近くの席に蜜柑を座らせると、沙那のそばにしゃがみこんだ。
 手を合わせて、何事かを口中で呟き、彼女の瞼をそっと下ろさせる。それから投げ出されたままの手を胸の前で組ませ、刺客の服を少し千切ると、沙那の首の傷に巻いた。
 本当に、ただ眠っているだけかのようだ。
 ほろり、と。一粒涙が流れると、もう止まらなかった。
 声もなく、ただただ涙を流し続ける。青年はそんな真白に視線を向けて、目をそらし、ただそばに立った。
 数分か、数時間か。ずっと、真白の涙が枯れるまで、ただ、立っていた。




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