研究棟を出ると、相も変らぬ夕暮れではあるものの、寒気が肌をかすった。
 ――夏の国では、この時間帯はまだ暑いのだという。正直想像もつかない。生活のリズムがおかしくなってしまうではないか。
 とはいえ外つ国の彼らにはそれが平生で、この国のそれこそ異常であるということには、この国を一度も出たことがない真白には考えの及ばないことである。
 外気が撫ぜる頬には、わずかな痛みが残る。大気に氷の粒でも混じっているのか、この時間帯はいやに寒くなる。昼夜の気温差というのはとかく人に害を及ぼすもので、風邪は国民病である。
 故に、如何に日中の気温が高かろうと、防寒具を常備するのが識だ。真白はストールを取り出し、顎まで覆った。
 研究棟から学生寮までは、割合距離がある。何せ間に学院の学習棟があるのだ。授業に使う実験室やら飼育小屋やら庭やらを含めれば相当広大だ。塀で囲われた学習棟の門は、学生寮を西、研究棟を東としたら南と北にしかない。一体全体どうした所以でこんな構造にしたのやら、大昔の建築家への恨み言は設立当初から絶えることはないという。
 さてつまるところ、無駄に広大な四角を迂回しなければならないのだから、余計に距離があるのだ。
 しかしそこはそれ、この学院に数年在籍する上に自らサボタージュ癖を公言する真白であるから、いくらかの裏技を見出しているのであった。
 つまり――秘密の抜け道である。
 などと大仰に言いはしたものの、古式ゆかしいニンジャとかカラクリとか、そんな大したものではない。見逃された老朽化と言うべきか、わずかな綻びを塀に見出したまでである。
 隙間というのではない。上部のわずかな欠けだ。だが絶妙なそれが、うまく手を引っ掛け、なおかつよじ登れる最良の高度なのである。
「よい……っしょっと」
 今日も今日とて、その抜け道を利用しない手はない。十秒とかからずに、真白は院内へ潜入を果たした。――潜入とはいえ、門はまだ閉められていないから、出入りさえ見られなければ咎められることなどないのだが。
 ほとんど儀礼的に服を払い、さて、と進行方向に目をやったところで、真白はふと息を止めた。
 この抜け道のすぐそばには、大きな池がある。年がら年中蓮華が咲いていることで割と人気なのだが、この時間帯になると何故か花が一様に口を閉ざしてしまうため、客はいない。――はずが、誰かが、いる。
 もしや、見られた。思わず肩を強張らせた真白だが、その人物が背を向けていることに気がつき、どうやら決定的瞬間は見られずに済んだらしいと安堵した。
 その人は、白い、下ろしたてのような純白のマントを羽織っている。夕日を弾いてはっきりと見てとれないものの、おぼろげながら、金糸で繊細な刺繍が施してあるのが確認できた。いかにも高価そうな一品だ。
 そして何より、燃え立つ炎のような髪が、紅の中なお目を引く。
 誰だろう。見たこともない人だ。赤毛が珍しいというのではない。あのような高級そうな品を身につけている者は学院にはいないし、それほどの身分であっても着てくることはない。
 何より――その場の雰囲気を砕き割ってしまうほどの神懸り的な雰囲気を、真白は、今までに知らない。
 ――否。わたしはこれを、どこかで、懐かしいと感じている……?
 茫漠とした既視感に、頭の芯が痺れてくる。知らず踏み出した一歩が、黄昏にかしづく草を踏みしめて音を立てた。
「誰?」
 刹那。白いマントを翻し、双の碧玉が真白を射抜いた。
 まだ、どこか幼さを残す貌。精悍をも併せた彼の顔には、野生にも似た警戒の色。それに反して、聞く者に自ら心を開かせるような、落ち着いた声音には、しかし、瑞々しい果実のような弾力さえある。
 そんな二律背反に、真白は声を失っていた。
 少年から大人への移行期、その妙なる一瞬を切り取ったようなその人は、立ち尽くす真白を見て取るや、ふと眉根に怪訝を乗せ、考えるようにぱちりと瞬いた。それから、警戒を一切失って、ふうと息をつくと同時に肩を平らかにした。
「……キミは、ここの学生さん?」
「――え、あ……」
 肯定の言葉が頭蓋に生じるものの、喉頭に引っかかって声にならない。緊張と呼ぶべきそれを、警戒と取ったか、青年はふっと苦笑した。
「あはは、ごめんね。ボクは決して怪しい者じゃないんだけど……って、怪しいヤツの常套句だよねコレ」
 自分で自分の言にツッコミを入れ、また快活に笑い声を上げる。それが果たして彼の平生なのかはたまた相手の警戒心を解くためなのかは、生憎真白には判じ得ない。
 先ほどまでの圧倒的な威厳は、彼の人懐っこそうな一挙手一投足に鳴りを潜め、臆していた言葉もするりと口内へ上った。
「わたしは、真白。ここの学生だよ。……その、あなたは? 学院の関係者なのかい?」
 すると青年は、うーん、と笑みを消さぬまま首を傾けた。
「まあ、関係者というほどでもないけど、無関係でもない、かな?」
「……どっち?」
「割と、関係ない。はは、怪しい者だね」
 どうしてそんなに楽しそうに宣言するのか。
 素性が知れぬ上にこの官営施設に無関係ともなれば、怪しいにも程がある。とはいえ、彼はまさに人畜無害、言うなれば散歩の途中に迷い込んでしまったような、そんなようにさえ思っている自分に、真白は当惑した。
 真白は質問の角度を変えることにした。
「名前を伺ってもいいかな」
「んー。そうだね、名乗ってもらったんだもんね。けど……」ふとそこで言葉を切り、青年は申し訳なさそうに肩をすくめた。「ごめん。ボク、ほんとはまだここにいちゃいけないんだ。だから、名乗れない」
「……いまいち、理屈が分からないよ。言葉の意味は置いておいて、名乗るくらいはいいんじゃないのかい?」
「ん……そうだなー」
 青年は考えをまとめるように数拍目を閉じて、うん、と何かに納得したように頷いた。
「仮にAとするよ」
「……?」
「もしボクがここでキミに、『Aです』と名乗ったら、キミの中では、この時間この場所にAがいたことが確実、疑いようもない事実になる。けどもし名乗らなければ、この時間この場所にいたのは名もない誰か、誰でもない誰か。unknownなんだ。それはAと相似かもしれないけど合同じゃない。キミの中で確立した『Aがいた』と『unknownがいた』は、客観的な信用性という点で大きく違うでしょ?」
「……つまり、わたしがあなたに会ったことを誰かに言っても信じてもらえないように、名乗らない。そういうこと?」
 すると青年は、ふふ、と密やかに笑った。
「そうだな。それもあるけど。主観が支配する自己の中でも、客観的な信用性というものは有効に働いてね。一番は、名前で他と厳密に区別されたボクに出会ったという主観的・客観的事実を、キミの中に残しておきたくないんだ」
「よく、分からない」
「それでいいんだよ。詭弁だから」
 そう軽やかに嘯いて、青年はつと蓮池へ視線を流した。
 固く鎖した花弁。朝昼と変わらぬ紅の光を受けるその色彩は、しかし鎖されてなお幸の微笑みを見せている。
「――夜は」
 不意に、青年が呼気を溶かすように口を開いた。
「意識を置き去りにして更けていくよ。早めに帰った方がいい」
「…………不審人物を見て見ぬふりは、できないな」
「あはは。そっか、そうだよね。うーん、どうしたものかな」
 無邪気な声を上げ、彼は空を仰いだ。
 今夜は――一際美しい暮れ。
 恐らく、生まれてこの方、最上の。
 何故だか、胸が酷く痛んだ。
「じゃあ、こうしようか」
 つられて空を見上げていた真白は、明るい声に視線を下ろした。
「――っ!」
 いつの間に移動したのか、青年が目の前に笑みを口元に浮かべて立っていた。
 気配はなかった。音もない。十数歩はあるはずの距離を、気づかれずに詰めるなんて。否、詰められたのにも気づかないなんて。
 あまりのことに愕然として息を止めた真白に、彼はすっと手を伸ばして――
「帰りなさい」
 ただ、一言。
 瞼を覆うように手を掲げてそれだけを。
 それだけで――真白の意識は、濁流に呑み込まれて霧散した。

  *

 ――ふらふらと。危なっかしい足取りで、少女の小さな背が遠ざかっていく。
 何のことはない、ちょっとした暗示をかけたまでだ。同類なら効かないが、一般人なら簡単に引っかかる。
「……一般人、かあ」
 自身の思考に、思わずため息が漏れる。
 ――歯車が、目にも止まらぬ速さで回り始めたのだ、と。覚醒した瞬間に知った。否、或いは知ったが故に。
 そう、始まったのだ。ギャッラルホルンは既に鳴り響き余韻も消えかけている。
 であるからには。あの真白とかいう純粋そうな彼女も、無為なる戦乱の渦に巻き込まれていくのだろう。
 あのとき――選ばれ選んだその刹那から、この為だけに我が身は存在する。
 それを一体何と思おう。否、何とも思うまい。そんな感傷は既に捨てた、捨ててしまった。真実を知ったそのとき、いいや、きっともっとずっと前から。
 ――あのまっすぐな瞳を血に、絶望に、穢したくないなあ、だなんて。下らぬ情だ。
『……然れど、それこそ汝ぞ』
 そう、頭蓋で囁く声。それに思わず苦笑が漏れた。
「ボクらしい、って?」
『是。古より汝は変わらず。目前に生き目前に死ぬ、愚者の振る舞い』
「あはは、こけおろされてるなあ」
『――我は咎めぬ』
 そんな、彼らしからぬ発言に、思わず目を丸くして。
「……そっか。そっかあ。……ボク、キミでよかったよ」
 あのとき――選ばれ選んだその刹那から、ずっと共に在った。
 死の間際まで共に在る。
 そんな存在が彼であったことを、全くこの生最大の幸でなくしてなんであろう。
 自然とほぐれた頬でそう言えば、ただ彼は一言。
『唯後悔のみ』
 いつものように、ぽつんと寂しさを残すのだった。

  *

 ――ああ、これは夢だ。
 見慣れた景色に、嗅ぎなれた空気に、そう悟る。
 果たして――この夢を見るのは何度目であろう。もはや数えるのもやめてしまった。
「真白! 早く、早く行くぞ!」
 声音も。調子も。含まれた感情さえも飽きるほど。自らの意志に反し勝手に動く小さな体の中で、真白はただただ傍観する。
 まるで写影機を前にしているかのような。展開も結果も分かりきったつまらない三文芝居。
 ただ、感覚に訴えかけるものだけが、いやにリアルで。
「待って……はやいよお、」
「早く!」
 空には何もない。本来朱であるはずのそこにあるのは、どこまでも沈みそうな、深い深い闇の蓋。遥か彼方まで続く田園の間を、幼い子供が走る。
 ここは、真白の故郷。秋の国の中でも端に位置する、農作で食いつなぐ人々の村。
 数年前に捨ててきた、懐かしき里だ。
 そして――これは、その数年前の記憶の再生。
 このあと、彼らは、


「……!」
 眩しい光に目を射られたと思った瞬間、真白は現実に浮上した。
 天井のしみ。視界の端をちらつく翡翠色のカーテン。さわさわと腕をくすぐる薄青のシーツ。
 自室だ。そう認識して、真白は肺に溜まっていた酸素を長々と吐き出した。
 また、あの夢だ。何年前だったか――もう風化してしまって風に浚われていきそうな古くのこと。まだこの世界のことも、あの村の外のことさえまともに理解していなかった時分のことだ。
 今年に入ってからというもの、ほぼ毎日あの夢を見る。それまでは年に一度か二度、本当に稀だったというのに、奇妙なことだ。
 そろそろ里帰りしろというメッセージなのだろうか。学院に入ってから、一度も顔を見せていない。
「……真白ちゃん?」
 おずおずと掛けられた声に、床を見下ろすと、おさげ髪が特徴的な女の子、蜜柑がすっかり身支度を整えてこちらを見上げていた。
 いくら官営で権威ある学院とはいえ、学生寮が一人一室などということはない。大抵が二人部屋、たまに三人部屋もある。真白の場合、この少々引っ込み思案な蜜柑がルームメイト、二段ベッドの下段の住民だ。
 彼女とは特段親しいというわけではないが、同室である縁で割と話す方だ。とはいえ真白は少々女子の中では浮いた存在だし、蜜柑は引っ込み思案で臆病な性質だから、寮外で関わることはそう多くはない。
「おはよう。今日は起きるのが早いんだね。朝礼は今日だったっけ」
「う、ううん。朝礼は来週だよ」
「そっか。じゃあ、一限にテストでもあったかな」
「え、ううん、無い。あのね、真白ちゃん」
 細い指を忙しなく絡ませて、蜜柑は眉を八の字に下げ、上目遣いに真白を見た。
「あのね、今、もう二限なの」
「……………………え?」
「だから、もう二限が始まっちゃったの。……起こしたんだけど、その、……ごめんね?」
 つまり。
 とんでもなく寝坊をした。
「…………」
「……あの、真白ちゃん?」
「………………」
「だ、大丈夫?」
「……ああ、うん。大丈夫」
 いっそこのまま休んでしまおうか、なんて思っていたことをおくびにも出さず、真白はひらひらと手を振った。
「もしかして、蜜柑さんはわざわざ起こしに来てくれたのかい」
「あ、うん。藤原先生が起こしてこいって」
 いらぬことを。
 一瞬にして眉間にしわが数本刻まれたのを見て、蜜柑は慌てて弁解した。
「あ、あのね、藤原先生は真白ちゃんのことを思って」
「そんなわけないよ。あいつ、わたしをネチネチネチネチいじめるのが楽しいんだ。遅刻なんて格好の的だしね」
 強い口調で蜜柑の言を遮り、真白はボフンとベッドに舞い戻った。
 ああ、授業が藤原担当だと知った途端に行く気がなくなった。蜜柑には悪いけれど、今日はサボろう。そうしよう。
 そんな思考はやはり看破されてしまったらしい。
「もしかして、休むの?」
「うん。行きたくない」
「だ、ダメだよ。単位危ないんじゃないの?」
「うっ」
 それを言われると痛い。ここぞと思ったかは知らないが、蜜柑は更に言葉を重ねる。
「真白ちゃん、火曜日はよく休むから。藤原先生以外の授業も、結構危ないと思う……」
「だって」
 火曜日に限って、藤原の授業が二つもあるのだ。行く気もなくなる。
「そうだ。今日は調理実習だよ。楽しそうだよね」
「……むう」
「献立は、ホワイトシチューだよ。真白ちゃん、シチュー系好きでしょう」
「……うん」
「真白ちゃん、料理上手だし、いてくれると助かるなあ」
「蜜柑さんも上手だよ」
「あ、ありがとう。でも……その、あの班、真白ちゃん以外に話す人、いないし……」
「…………ううううう! 行く!」
 そんな、消え入りそうな涙声で言われて尚首を横に振るなんてできるものか。血を吐く思いで決断すれば、蜜柑は今にも泣き出しそうな顔をぱっと輝かせた。
「ありがとう!」
「……うう。お礼を言われるようなことじゃないよ……」
 そもそも寝坊するのが、遅刻するのが、ズル休みしようとするのがいけないことなのだ。こちらこそ、こんなどうしようもない人間を助けようとしてくれてありがとうである。
 とはいえ、喜び勇んで行く、なんてことにはならない。
 これでもかと後ろ髪を引っ張られながらも、ゆるゆると支度をして、蜜柑と共に寮を出た。
 それにしても、よくもまあこんな時間まで寝ていられたものだ。学生としてのサイクルが身に染み付いていると思っていたのだが。
 もはや達観した心持ちで、のんびりと歩を進める。蜜柑も急かす気はないのか、二人並んで、傍から見たら散歩のようだ。実際こんなにゆっくりしている余裕はないはずだが、本気でサボろうとしていた真白が急ぐはずもない。
 ――正直。このまま二限をすっぽかし、藤原以外の授業を受けようか、という気もなくはない。というか、多分にある。とはいえ単位が危ういのも然りだ。かといって――ここまで盛大に遅刻しているのだ、あの藤原が平常点をくれるとは思えないし、行ったところで嫌味を聞きに行くだけかと思うと気が重い。
 学習棟が見えてきた。どこからか、国語教師の朗読が聞こえる。
「…………」
 ちらと、蜜柑を横目で盗み見る。
 おとなしすぎて、決して目立たない子なのだが、頭はいい。そのためなのか、教師の信頼篤く、同室である真白の世話を押し付けられているのだ。申し訳ないという気持ちもあることにはある。
 ここは彼女への日ごろの感謝も含め、素直に従うとしよう。
 どこの教室も、当然ながら授業をしているから、廊下はシンと静まり返っている。その静謐を足音で乱すのは少々背徳感があって気後れする。
 背徳に喜悦するほど、真白はひねくれているつもりはない。
 もうすぐ教室だ。わずかに歩が鈍ったのが自分でも分かる。
 ええい、なるようになれ。入室早々何を言おうか、言われるか。そんなことはもうどうでもいい。結局悪いのは自分なのだから、甘んじて受け入れようではないか。いい加減大人になれ。
 そう自身に暗示をかけながら、取っ手に手を伸ばしたとき、学院中に、いやさ国中にとも思うほどの単音が、辺りを引き裂いた。
 人間の警戒心を否応なしに揺さぶる、喚起音。
「サイレン……?」
 驚きの声を上げると同時に、あちこちから一斉に教師たちが飛び出してきた。皆一様に、憔悴の色を浮かべている。
 その内の一人――藤原が、目の前にいた真白に目を止めた。
「あ、あの」
「さっさと教室に入れ」
 軽蔑しきった表情で嫌味を言われるかと思いきや、真白の言を遮って出てきたのは、その一言だけだった。面食らった真白が動くよりも早く、藤原は苛立ちと焦りを隠せない足取りで、他の教師たちと情報交換を始める。
 誰も彼も、決して喜ばしくはない感情に浮き足立っている。
「真白ちゃん、教室入ろ?」
 鳴り止まないサイレン。聞き取りづらい彼らの会話に耳を澄ませていた真白の袖を、蜜柑がそっと引く。その誘いに従って、教室に入った。



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