ほととぎす、鳴きつる方を




 思えば、日之村真冬という存在には、何度か会うているやもしれぬ。
 そんなことをふと思い立ち、長年溜めてきた記録を顧みることにした。
 ――つまらない作業ではあったが、興が乗れば無聊の慰みには十分為り得た。あの二人にも、話して聞かせるとしよう。

 *1
 随分と錆付いた魂であることだ。
 腰に引っさげた刀を見て、靄を晴らしもせぬ軽い溜息を一つ。
 徳川の世になり幾許。もはや武士というのはただ肩書きの一つにすぎぬ。刀は物干し竿にも包丁にもならぬ重りだ。――そういくら反駁したとて、父は旧習にしがみついて、こうして流浪の旅に一粒種を放り出したのである。
 曰く。広く見聞せよ、それこそ真の士になる道ぞ、と。
「何が真の士だ」
 そんなものになりたくはない。周りの家々を見てみよ、薬種問屋やら廻船問屋やら、人におもねるのではなく自らの足と才知のみとで食いつなぎ、大店にまで上り詰めた強者ばかりではないか。貸本屋が豪遊する時代ですらある。
 持つべきは刀ではない。錆付いた矜持でもない。算盤と、対等な取引で生くる執念こそ。
 ――青臭い、世間知らずと言われるのも無理はない。何せまだ幼き童であるし、商いの裏側など知りもせぬ。見聞を広めよという父の言葉に正当性を感じるのは、まだずっと先のこと。
つらつら考えておれば、全く江戸を去り徒にて上方へ赴くのが億劫になってくる。
橋の上とてこの陽気、暑さは緩めど消えはせぬ。汗の滲む額を拭き拭き、ずっしり重たくなった踵を持ち上げた。
「――…………、……―――……」
「?」
 か細い声。どこか助けを求めるようにも。
 辺りを見回せど誰もいない。川と、岸。人影らしきものは微塵もない。
 そも。かほどに小さき声、相当近くにいなければ聞こえぬのでは――
「っぎゃあ!」
 ひやり、と。冷たい何かが足首をがっちりと掴んだ。文字通り飛び上がるも、存外強い力で橋に縫い止められているため、均衡を崩して倒れこむ。鼻っ柱を強かに打ちつけて涙が滲んだ。
 しかし、しかし。それどころでは全くない。何せ、今、今まさに、足首に何かがしがみついている。振り向く勇気などあるものか。
 ――川というのは、怨念たち込める場だ。故にこそ、瀬織津比売がおわすのだぞ。
 いつぞや怪談好きな友垣に聞かされたのを思い出し、ざあっと血の気が下がる。
「放せっ放さぬか、下郎!」
 刀という得物の存在も忘れ、喚き散らし足をばたつかせる。その足首から、遂にするりと指が外れた。慌てて離れ、一体如何なる狼藉者かと振り向けば、
「――えっ?」
 年端も行かぬ、己より幼き女童が、先の我が身と同じように這い蹲り、――否、幾分かくたびれ、ぐったりと倒れ伏していた。
「……だ…………誰か……恵んでくりゃれ……」
 くうう。情けない虫の声が、突き抜ける青空に溶けた。

 *2
 明治天皇の崩御、乃木大将の殉死。
 子供には遠いこととしか思えぬ新聞記事に父が慟哭する様を見て、不可解以上の感情は湧き起こらなかった。
「お母さん。お父さんはなぜあんなにも泣いているのです」
「お前にもいずれ分かることですよ。ほら、手を洗っておいで」
 自分にいずれ分かることが、母には分からないのか。夫のように泣くこともなく、困ったような笑みを一人息子に向けて、母は背を押す。はてどちらであるか、さほど興味は無かった。それよりも、己であった。
 ――分かるのだろう。そのときはそう思っていた。
 ――分かるまい。今はそう思っている。
「日之村くん。君、これについて如何思う」
 明治天皇の崩御、乃木大将の殉死。
 何年も前の記事を持ち出してきた書生仲間の眼鏡の奥をちらと覗き、ひょいと肩をすくめてみせた。
「別に、どうも」
「だよなァ。僕も然うだよ。あの時の僕の家はまるで葬式の様相でね。成程傑物ではあったろうが、会ったこともない他人だというのに、可笑しなことだ」
 うむうむと彼はしたり顔で頷く。――同意見ではあるのだが、あまり大きな声では言わない方がいいように思う。
 夫に先立たれた女が後を追おうというのなら分かる心だ。それが乃木将軍の心なればというのは、はて自らが所詮は一書生だからであろうか。それとも己らがそも異常なのか。主上は遍く国民の父だというに、遠近に左右される共感とは。主に殉ずるもまた日の本の古くからの精神なれば、さていよいよ自らの立脚する大地の危ういこと。
 さりとて感じ得ぬは感じ得ぬ。泣こうが喚こうが、此れが全てである。
「しかし君、たとい今上がお隠れになったとて、僕は殉じようとは思わないね。何でかって。そりゃ君、」
 そのときだ、目の前の曲がり角から、しかつめらしい顔の、老齢の先生が顔を出したのだ。
 二人は口を揃えてこう言った。
「天皇陛下万歳!」

 *3
 学校の桜とは、戦時の軍事主義の名残らしい。
 今は雪の花を咲かせる無骨な木をちらと一瞥し、密かに溜息をついた。
 粛々と巣立っていく少年たちへの叱咤激励その他諸々が執り行われていた講堂から、本日の主役たちがぞろぞろと吐き出されたのは数分前。今頃は教室で一期一会を噛み締めていることであろう。校舎を見やれば、ガラス越しのカーテンが無愛想に拒絶する。
 ――まあ。あと一年残している自分には入り込めない、否、入り込みたくもない世界であることだし。
 本来であれば自らもあの中に在った。それが、一年の闘病で不可となった。今ですら爆弾を抱えた身、心臓破りの坂の上に位置するこの学校に未だ通うことを、母も医師もいい顔をしなかった。夫を早くに亡くした母にとって、もはや家族は自分だけ。その心中は察するに余りある。
 されど。
 つと目を背けて、隠し持った小振りな花束のカスミ草に指先で触れた。
「……お、日之村。久しぶりだな」
「あ……先生。お久しぶりです」
 ああ気まずい。どうして此処にいるんだああそうか、なんて心中が透けて見える。顔を伏せ、おざなりな挨拶を投げ傍を擦り抜ける。
 と、背に掛かった言葉に、足を緩めた。
「屋上だぞ」
「は……」
「愛しの彼女に会いに来たんだろ? 今屋上でサボタージュだ、最後の最後で優等生かなぐり捨てちまってさ」
 ――馬鹿じゃないのか、あの卒業生。
 会釈も忘れ、校舎へ一直線に向かった。
 
 高校時代というのは、つまるところが、思春期真っ只中なわけである。
 故にこの時期に多く見られる関係性の発生は、この学校にも無関係のことではなく、むしろそこかしこで勃発していた。だからといって引きずられるわけでもなく、後輩が級友にしなだれかかる様に顔をしかめすらしたものだ。
 けれど、どうしてだろう。舞台で美しく着飾った彼女に、気高い妖精の女王に、目を奪われたのは。
 それは、暑い暑い、うだるような夏の日のことだった。

 冷たい階段を上れば、すぐそこに鉄の重い扉が立ちはだかる。それにひたと手を当てて、小さな花束をぐと握り締めた。
 ――さて何を言おう。無難に、おめでとう、だろうか。或いは柄にもなく、擦れ違いに不平でも漏らしてみようか。
 ほんの少し、掌に力を込める。あっさりと扉は開いて、その途端、軽やかに艶かしいその声が鼓膜を震わせた。
「女はつた。ニレの木のがっしりした枝に纏わりつくの。ああ、好きで好きでたまらない! どんなにあなたのことを思っているか!」

 * * *
 さて、中でも特に面白かったものを三つ選んでみた。
 はて、こうして振り返ってみて気づいたことだが、彼の誕生はじわじわと未来に進んでいる。かほどに変異する個体というのも珍しいものだが、気にするほどのことでもあるまい。むしろ進歩として歓迎すべきだ。
 それはさておいて。最も重視すべきが、彼は如何なる時も「一人っ子」である、ということだ。
 故に。彼女≠フ存在は極めて異質なのである。
 さて其が偶然であるか必然であるか、これから確かめに行くとしよう。
 ――要するに。日之村真冬の生涯の話は、申し訳ないが、彼女≠ニいう光に押された背景に過ぎぬのであった。
                            〈了〉






時代考証おかしいところがあると思うのですね。すみません。
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