忍ぶれど、色に出にけり




 まるで影だと、言われたことがある。
 意志は無く。意見も無く。ただ主と定めた人に随うそれだけの。
 私自身、それでいいと思っていた。むしろ満足だった。――そう在ることこそ我が意志なるが故に。
「けど、ホントのホントに、それだけでいいのか?」
 そう問われて、答えに窮したのは。
 きっと、多分、恐らく。一時の気の迷いにすぎない。

 *2
「世界は繰り返してるんだって、蓮さんから聞いた」
 空気を引っ掻く息の下から、少年は独白のように言った。
「ホントなのか?」
「さあ、どうかしら」
 いや全く白々しい。自分でも鼻で笑いたくなるくらいに軽い応えが床に落ちる。その味気ない落下音に少年もクスリと可笑しそうに笑った。
「アンタって、いっつもそうだよな」
「そうとは?」
「表情全く変えないくせに、誤魔化したり嘘ついたりするのがヘタクソ。蓮さんを少し見習ったらどうだ?」
 あの人、マジで分かんねーから。苦笑交じりの言に、少し不快になる。
 ――彼は何も分かっていない。あの方は一度も嘘などついたことはない。多を包括し多の集合体として単であるが故に、彼の中には無数の選択肢が常に存する。彼が行うのはその取捨選択のみで、であるからこそ、どれを選ぼうとも真であり真ではない。
 なんて。つい最近転がり込んできたばかりの、もう幾許の猶予もないこの少年に、そこまで理解しろというのもムリな話ではある。
 だから、何も言わず、少年が横たわる寝台の、枕元を彩る花瓶の水を花ごと無造作に捨てるだけ。
「繰り返してるならさあ、病気なんかにならずに、生きていけるときもあったのかなあ」
 知るか。お前に会ったのは今回が初めてだ。
「次のときに、そうなるんだろうか」
 さあ。興味もない。
「……アンタたちは?」
「…………なに?」
「だから、アンタたちは、前の自分のこととか気にならないのか?」
「―――」
 なるわけがない。前も後もないのだから。――仮にあったとして、
「どうでもいいわ」
「どうして?」
「私は――蓮様と共にいる今が全てだもの」
 それは心よりの言の葉。一片の偽りもない真実。疑うならば獅子の口にも沸き立つ熱湯にだって手を入れよう。当たり前すぎて意識もしない、当然至極の摂理であるからこそ。
 少年はきょとんと目を丸くして――そうだったな、と半ば呆れたように。
 そうして、冒頭の一言だ。

 *1
「俺は、罪人、なんですかね」
 そんな、どこか虚な問いに、目をしばたたかせた。
 少年は、天井の遥か向こう、遠くを映していた目を現に引き戻し、こちらを見て笑った。
「大昔はそうだったんでしょう? 神への信仰心が足りないから病になったりするんだ、罪人なんだ、って。……ホントに神の助けを必要としているのは、そういう人たちなのに」
 まるで他人事。そう感じるのは、彼自身が既に諦めを結んでいるが故。
 自分にも、世界にも。人間という項目にすら。
 その固い結び目に対し――この手が為し得ることなどなかった。
 だから、ただ、
「神への信仰の無さが罪で、病の元と言うのなら」
 薄っぺらい慰みを。
「僕はとっくの昔に、不治の病で死んでますね」
「――は、そうなんですか?」
「ええ。僕ほど不信心な者はいませんよ」
「はは、意外だな。蓮さんは、信じてるかと思ってた」
 そんな子供らしい感想に、微笑みだけを一つ。
 ――信じるも何も。いると知っているものに対してそんな行為が何の役に立とう。それこそ、よほど、両者を混同して――ああ、彼の言っていることはそういうことか。
 だから、多分。諦めているけれど、諦め切れていないんだろう、彼は。
 なら。
「いいことを教えてあげましょう」
「いいこと? 何ですか?」
「それはね―――」
 諦めに埋もれた僅かな希望すらも踏み潰してやろうなんて、なんとも冷たい温情を。

 *3
「この世界は繰り返してるんだって。知ってたか?」
 どこか得意げな声音で言う彼に、思わず苦笑を漏らした。
「……いや、初耳だな」
 などと白々しく。とはいえどこかの蓮至上主義者とは違って嘘は得意だ。いかにももっともらしく嘯けば、そうだよな、と簡単に騙される。全くここまでの逸材、惜しいものだ。
「正直、俺もまだ信じられない」
「誰に聞いたのさ、そんなこと」
「蓮さん」
 ――余計なことを。心の中で毒づく。
 まあでも、あの男のことだ。体躯のどこか片隅で神の情なんてもんを信じてるこいつに、世の中の厳しさを教えてやろうというお節介だろう。
 全く、本当に大きなお世話だ。その証拠にほら、この間までは端々に響いた生きる執念も、今は耳朶にさえ触れない。
「ばっかみたい」
 思わず、そう言い放ってしまった。
「ホントだよな」
「ホントにね」
 すれ違いも文化なり。あえて指摘などしまい。これはこれで一興だ。
「――なあ、シロ」
 ふと、数日前からベッドに横たわったままの少年の声質が、表情を変える。
「妹は、幸せにやってるのかな」
「――妹?」
「ああ。……俺はさ。死にたくないって、それだけで、母さんと妹を捨ててきたんだ。薄情者だよな」
「……そうだね」
「はは、そこは嘘でも、そんなことないって言ってくれよ」
「そう言われて嬉しいならね。で?」
「お前が人の喜ぶことをするとは思えないけどな。それでさ」
 少年がすっと手を差し上げたのを、音と空気の流れで察する。
「繰り返してるなら、俺が二人に、二人の幸せのために尽くせたときはあったのかなって、そう、思って」
 ――さて。生憎それに返す言葉はない。この少年に出会ったのは、今回が初めてなのだから。
「そんなの知りようがないから、せめて、今は幸せにやってるのかなって、気になった。それだけだ」
 要するに。
「終わりよければ全て良しってことか」
「――手厳しいな」
「ふん。オレはそーゆー婉曲な言い回しが嫌いなの。蓮とか蓮とか蓮とかな」
 ふふ、と少年は空気に溶かすように笑った。遠回しな言い方を多用する蓮とのやりとりが易く想像できたのだろう。
「シロって、案外優しいよな」
「―――何言ってんだか」
 ああ、くそ。思わず舌打ちが出る。
 あんまり悔しくて、つい、思ってもいないことを言ってしまった。
「今生の別れだ、願いの一つくらいも聞いてやろうってね」
「ははは。ホント、いい友達持ったよ」
「友達? はっ、自信過剰も大概にね。誰が、」
「――夏苗のこと、よろしく頼む」
 だから、ひとの言うことは最後まで聞けと。
 そんな小言は、喉を通る前に消失して、誰にも聞かれなかった。
 ――たとい音になったとて、畢竟聞く者はいなかったのだけれど。

 *4
 まるで影だと、言われたことがある。
 意志は無く。意見も無く。ただ主と定めた人に随うそれだけの。
 私自身、それでいいと思っていた。むしろ満足だった。――そう在ることこそ我が意志なるが故に。
「けど、ホントのホントに、それだけでいいのか?」
 そんな問いを投げかけた彼は、答えを聞かぬままに去ってしまった。
「私は――」
 影ではなくて。
 影と影を重ねられればと。
 そんな、叶うはずもない望みを自覚せしめたあの少年を、一生憎んでいくのだろう。
「…………英ちゃん?」
 気遣うような呼びかけに、応と。たったそれだけのことなのに、彼には何やら感付かれてしまったらしい。
「大丈夫ですか? なんだか調子が悪そうですけど」
「はい。問題ありません」
「……そう。それなら、いいんですが」
 それ以上の追及をせず、彼は先に立って歩き出す。
「――そうだ。この間、久しぶりに記録を見返してみたんです」
「はい」
「そうしたら、あの子……真冬。僕、彼に会ったことがあったんですよ。それも何度も」
「はい」
「実はそれで発見もあって。今度聞かせてあげますね」
 そう、振り向かないまま彼は弾む声で。
 ――そしてまた。
 そんな、叶うはずのない望みを抱かせた彼のことすらも。
 憎らしくてたまらない、私のことを一片たりともその瞳に映してくれない彼の背に、手近にあった石を投げた。
 ふりを、した。



                              (了)




「真冬」は「マフユ」ではなく「マト」なのです。どうでもいい。
陰と合わせて読んでください。

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