やあ、君はかみさまを信じるかい?




 季節外れの雪が降ると聞いたから、ふと窓の外に目を向けてみた。
 何ということはない。いつもどおりの空いつもどおりの町並み。生命が其処に宿っているなどとは感じ得るはずもない無機質無彩色な世界。硝子越しのパノラマが自らの住まう土地だなどと笑えない冗談だ。否、いっそ昔を投影した玩具の町にこそ息吹を感じる時点で、ある種滅びを迎えたのやもしれぬ。文明とはかくも罪深き、命を喰ろうて栄える魔性である。
 であればこそ。自然の神秘とは如何なるものかと期待したのに、このザマだ。青天白日、なるほど神を捨てた我らに落ちる神秘などないらしい。皮肉も皮肉、笑いも起こらぬ。諦めてまた机に齧りついたところで、今度は別の理由が窓に視線を飛ばさせた。
 どん、と。腹の底に響くような衝突音。大きくはなく小さくもなく、気を散じさせる効果は存分に持ちえたそれに、既に破片となっていた集中は見事に消失した。思わず舌を打って、わたしは部屋の外――路地を見下ろした。
「…………ぁ――」
 赤。これ以上の形容はすまい。そもできない。言葉を思索を生じせしめる前に熱が胎からせり上がってくる。半ば無意識に室内へと踵を返し、屑篭を抱えてぶちまけた。
 ――音は無い。どこからか湧いた機械の腕が粛々とソレを片していく。見なくても分かる、そういうシステムだ。およそ労働というものを手放した現代においてそれは周知。なおかつそういう仕組みであればこそ、埋葬だとか葬式だとかそんな様式美はない。壊れた≠烽フは壊れた≠烽フらしく、わたしの吐き出したものと同じ過程を末路を辿る。
 それが嫌だ、と。病に伏して壊れ始めていた兄はどこかへ消えた。それを責める気は毛頭ない。きっと死に瀕すればわたしとてそう思うのではなかろうかと、どこまでも他人事らしく考えるが故に。
 ――とりとめのない思索はやめにしよう。
 そういえば。さっきの死体は、誰だっただろう。知らない人だろうか。でも、どこかで見たような気もするけれど。
 萎えた足を叱咤して再度覗き込めば、案の定、何事も無かったように白い地面があるだけだ。そこには既に何も――
 何も、ないことはなかった。
 誰かがそこにいる。さっきの死体ではなく、血を流すわけでもなく、従順な奴隷たる機械たちでもなく。データでしか見たことのない聖職者のような格好をしたその人は、何をするでもなくそこに佇んでいる。
 さっきは、いなかったはずだ。一瞬しか見ていないが、断言できる。思わず身を乗り出したわたしは、ふと、顔を上げたその人と目が合ってしまった。
 その人は――男、だろうか?――自然な動きでわたしから視線を外して、少しだけ微笑んだ、ように見えた。
 するり、と男は足を進めて歩き去っていく。わたしはその姿が隠れてしまうまで見送っていた。――特に理由はない。このような細い裏路地で人を見るのが珍しかったのだ。
 だから、数日後、もう一度彼と相見えるとは、思ってもみなかった。


「知ってる? 萩尾、死んじゃったんだって。飛び降り」
 萩尾――聞いたことがあるけれど、誰だったろう。常々カエルの卵に似ていると思って敬遠していたタピオカを口に含みつつ、友人二人の会話に耳を傾ける。
 ところはとある喫茶店。友人に勧められて買ったドリンクは悪くない。
「あいつさ、すげー愛想悪かったじゃん。遊びに誘っても絶対断るしさ。友達いないね、あれは」
「あたしも苦手だったなー。でも自殺なんてするタイプには見えなかったけど……」
「ま、色々事情があるんでしょ。夏苗は何か知ってる?」
「…………え? さあ」
 突然話を振られてどきっとする。反射的に首を振ったわたしに、だよね、と友人は頷いた。
「夏苗もあいつのこと嫌ってたもんね」
「…………うん」
 そんな覚えはないのだが。もっとも顔も名前も覚えていないのだから、至極どうでもよかったということだろう。どちらでもよかった。
 ただ――死人に悪口は言いたくないけれど、あんまり快くない気分にはさせないでほしかった。
 それから二人の会話は加速度的にずれていく。ファッションやら何やら、平和な話。待ち合わせて入ったオシャレなオープンカフェに似合いの話題。すぐに興味を失したわたしは、人のまばらな大通りに目を向けた。
 色んな人がいるけれど、どれも没個性だ。今彼女達の話しているような着飾り方の問題ではなく、生き方そのものに個性が欠落しているのだから人そのものの在り様に個性が埋没するのも当然の理。そう、まるでパノラマ。どこまでも紛い物の人形達だ。
 などと言うわたしとてその一員であって――そも、生まれる前からこうある世界。
なのに、どうして、違和感を覚えるのだろう。
 どこか、わたしはこの世界にそぐわないような。
 特別に憧れる陳腐ではなく、足元から侵蝕する疎外感。彼我の間には決定的な■■■という壁があるような。
 ―――ふと、頬に冷たいものが触れた。反射的に手をやってみれば、わずかに濡れていた。
「……雪?」
「それでそこの店員が――え? あ、ほんとだ!」
 ちらちらと、白い綿が降ってくる。突き抜ける青が落とす白は雲の破片にも似た。
明らかに異常なその光景に、わたしは思わず見入っていた。
「ちょっと、早く中入ろ!」
 ぐいと腕を引かれる。しかしわたしは動こうとはしなかった。
 意識は遠く。体躯から離れた魂が耳元でささやく。
「――違う」
「え?」
 違う。これは、雪ではない。
もっと、何か、別の。どこか不吉なもの。
 掌に受け止めたそれを徐に口に運ぶ。
 甘くて――しょっぱい。舌に、かすかな痺れが残る。
 これは、なんだろう。ひどく懐かしい、忌まわしいこの芳香は――
「夏苗ってば!」
「!」
 ぺちと軽く頬を叩かれて我に返る。びくと肩を震わせて目をしばたたかせる私を、二人は心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫? どうかした? しんどい?」
「……ううん、なんでもない」
「そっか。とりあえず、中入ろうよ。濡れちゃう」
 いつの間にか、手の中の雪は溶けてしまっていた。残ったわずかな液体をぱっと払って、先に店内へ入っていく二人の後を追う。
「―――、」
 ふと。声に何気なく振り向いた先には、黒い傘を差したメガネの男がいた。すっと手を差し出して、雪をとらえる。そして、それを眺める男に近づく黒衣の――
「あ、」
「夏苗、早く!」
 引っ張られて踏み入れた店内は懐古趣味で、古めかしい音楽が流れている。静から動、その移り変わりに世界が分断されたように、わたしはただの雪を疎んだ少女≠ノなった。
 さっきの光景の、一体何が気になったのだろう。数秒前の自分が杳として知れない。そうして不可解な瑣末事は、暖かな空気に泡となってほろほろと崩れた。
 店内は同じように慌てて中に入った人や元々いた客でそれなりに賑わっている。とはいえ働き手は機械、作るのも出すのも全自動だから、どこか滑稽だ。――これが普通なのだけれど。
 わたしたちは適当に空いた席に腰掛けた。窓際だ。一人が席につくなりカーテンを引いて外を鎖した。
「なんか不気味だよ。この季節に雪なんて」
「確か三日前にも言ってたよね、降るって。結局降らなかったけど」
 そう、あの日。あの日、死んでいたのが、萩尾某だ。日本人離れした相貌の、クールな少女。わたしの、
 わたし、の? なんだったっけ?
「……ねえ、夏苗。大丈夫?」
「……? 何が?」
「何がって。なんかさっきからおかしいよ。ぼーっとしてるし。あ、もしかして、熱でもあるの?」
「無いよ。大丈夫」
 そう。熱は無い。
 そしてまた――■■■も無い。無いはずのない■■■が無く、在るはずのない■■■が無い。全て揃っていて欠けている箇所も見当たらないのに、きっちりと埋まっていることもない矛盾。物心ついたときからピースの欠落を認識している完成済みのパズル。
 正体の分からない、言いようのない何かが、ちりちりとうなじを焦がしている。
 なにより。無い≠アとが在る≠ニいう事実が在る≠サの理由が理解できない。
 だからわたしは、ただ、笑うしかない。
 それくらいしか、自分にウソをつく方法を知らないから。
 もう、慣れてしまった。
「だいじょぶだよ、そんなに心配しないで。……あ、ねえ、あのパフェ、一緒に食べない?」

* * *

「あの子、ですか?」
 硝子の向こう、分厚いカーテンに目を向けながら問うた僕に、シロは多分ねと頷いた。
「英が死んだとこに行ったら、覗いてた。あの感覚は、耄碌してなけりゃ間違いないよ」
「あはは、もう随分な老頭児ですからね」
「うっせ。そんならお前だって同じだろ、ジジー」
 あの少女と大して変わらない年恰好の彼が耄碌だなんて、似合わないにも程がある。傘を揺らして笑ってしまった僕に、彼は苦い顔をして毒づいた。全く不毛なやりとりだ。
 彼女こそは、幾世にもわたって捜し求めた輪廻の膿。罪を清算するのではなく罪悪をその身とともに消し去る救世の徒。
 そして何より、それを押し付けられた悲運の道化。
 ふと、シロが空を見上げた。彼の髪に纏いつく真白の妖。幾つもの手を伸ばすそれは決して水素と酸素の成れの果てなどではない。
 文字通り世界を白に埋め尽くす、ギャッラルホルンだ。
「ほんっと、こんなジリ貧になって来るとはね」
 呆れたように呟くシロの瞳は、しかしどこまでも静かだ。
 冴え渡った湖のそれではなく澱みきった底なしの。水面を覆うは強き決意ではなく砕けぬ諦念それのみ。
或いは。彼の目を盲させているのはたち込めた靄か。――などと詮無い思索は、シロが卒然踏み出した一歩に断ち切られた。
「シロ?」
「行ってくる」
「いいんですか?」
「前回はお前だった。それで失敗した。英はいない。次はオレで順当でしょ」
「…………ふうん」
 平生の彼からはあまり想像がつかないけれど、シロは元来律儀な方だ。
 多分、あの少女の兄という役割を押し着せられた少年に、何か言われでもしたのだろう。
「真冬と仲良かったですもんね」
「――蓮」
「はい?」
「………お前のそーいうとこ、だいっきらい」
「そういうとこ、ね」
 真実を見抜くところか。それを衒いも遠慮もなく言うところか。或いは、向けられた感情をものともせず含蓄に気づかないふりをするところか。
 多分、全部だろう。
「僕はあなたのそういうところ、割と好きですよ」
「どーゆーとこだよ」
「だから、そういうところ」
 変に鋭くて、妙に鈍くて。要するに、扱い易いところが。
 とは、流石に言わないけれど。
 それ以上の追及を、鼻で笑うだけに留め、シロは僧衣を翻し雪の中を歩いていく。
 ふと、思いつきが口をついて出た。
「気をつけてくださいね。彼女、滓が残ってるみたいだから」
「へえ、好都合じゃん」
「ちょっと揺さぶりかけたらすぐに落ちそうだしさ=H」
「よくお分かりで」
 ひょいと肩をすくめ口端を上げた彼は、するりとカフェの中に入っていった。
 『HAMLET』……一体どういう理由でつけたのやら。毒入りの杯でも出てきそうだ。
「……さて――」
 くるりと傘を回し、もう一度空を仰ぐ。雲が出てくる気配もなければ雪が止む雰囲気もまた。そんな異常に怯えてかはたまた雪≠逃れてか、いつの間にか往来にひとりぼっちだ。
 現場百回。捜査の鉄則。今なら誰に見咎められることなく様子を窺えるだろう。
「英ちゃんは何で死んじゃったのかな…………ふあ」
 このところ寝ていないせいか、欠伸が出てしまった。
 まあ、正直どうでもいいというのも、あるのだけれど。
 結局。僕らは僕ら≠ナ孤独であって、それぞれ一人なのだから。
「ん――でもこれ以上失敗するとクビになりそうだなあ。シロのこと、手伝った方がいいのかな」
 さて、如何したものか。たまたまポケットに入っていた処女王にでも決めてもらおう。


〈了〉




現代日本が好きな私にしては珍しく、近未来です。うーん、難しい。
戻る



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -