留三郎は、壁にかかった時計を見上げた。
11時半。
終電にはまだ時間がある。だが、

「おっせぇなぁ……」

勝手知ったる潮江のアパートで、勝手に夕飯を(コンビニ弁当だが)食べ、勝手に風呂を借り、そしてこうして部屋の主の帰宅を待っている。

今日は金曜なので、元々泊まりに来る約束になっていた。
だが、急に潮江に飲み会の予定が入った。今週から来ている教育実習生たちの歓迎会なのだという。
教職員全員参加だと言われ、潮江も断れなかったようだし、留三郎も何も言えなかった。
だから、こうして「一次会だけで帰ってくるから」という潮江の言葉を信じて待っているのであった。

もう一度時計を見る。11時35分。まだ5分しか経っていなかった。

「〜〜あぁ、くそっ!」

さっきまでは持参したゲームをしたりテレビを見たりして時間を潰し、気をまぎらわせようとしていたのだが、早々に無理だと諦め、こうやって時計を見ながらただ待ちぼうけである。
潮江がいたら、「時間を無駄にするな、勉強でもしとけバカタレ」とでも言われそうだ。だが、今はそんな想像も淋しくなるだけだった。歓迎会が盛り上がって、二次会に突入しているのだろうか。山田先生は、あれで酔ったらオネエ口調でものすごく絡むとかいう噂だし、逃げられなかったのかもしれない。

11時40分。あの掛時計は壊れているんじゃなかろうか。自分の携帯電話を取り出して見てみたが、逆に進んでいたらしく、小さな液晶ディスプレイは23:38と光っていた。

時間というものは、これほどまでに進まないものだっただろうか。
いつも、潮江や他の友だちとくだらないバカ話なんかしていると、あっという間に過ぎてしまうのに。
それもこれも、潮江が帰ってこないせいだ。
よくわからない結論をつけて、留三郎は床にごろんと転がった。

携帯を開いて、着信履歴を確認する。何もない。メールも問い合わせてみたが、やはり何も受信しなかった。

「俺のことなんか忘れて、楽しくやってんのかよ、バカもんじー」

声に出すと余計にむなしくなる。
こういう時、自分が大人ではないということを意識する。いや、たとえ成人していたとしても、職場の飲み会に顔を出せるのは同じ職場の人間のみなのだろうが、それでもこうやってただ待っている以外の何もできないというのは、自分がまだガキだからであるような気がする。

そういえば、と留三郎は思い出した。潮江のこの家に初めて訪れたのは、夜中に偶然出会った潮江が酔っ払ってふらついていたからであった。
ひょっとして、潮江は酒が弱いのだろうか。あるいは、すすめられたら断れない、とか?

「いや、まさかぁ」

だって、あの潮江だ。自分の酒量くらい弁えているはずだ。
だが、意外と律儀なところもあるので、もしかしたら目上の人にすすめられたら断れないのかもしれない。

「…………」

そうやって断り切れずに飲み過ぎて、最初のあの時のように、あるいはもっと酔い潰れて、そこらでぶっ倒れていないとも限らない。

留三郎は慌てて手の中の携帯電話を開いた。23:43。あれからまだ5分しか経っていなかったが、今はそんなことはどうでもいい。アドレスから潮江の番号を探し、通話ボタンを押す。

シンプルな呼び出し音が聞こえてくる。1回、2回、……潮江はなかなか出ない。余計に心配が募る。何か、電話に出られない状態だったりするのだろうか。
すると、ぷつっと呼び出し音が途切れ、がさがさと音がした。通じた。

「せ、先生!?」
『はぁい、照代で〜っす』
「……は?」

電話の向こうからは、潮江とは似ても似つかない甲高い女の能天気な声。留三郎は、間違えた相手にかけたのかと、耳から携帯を離して思わず画面を見つめてしまったが、表示されている文字は潮江の名だ。

「あ、あの、もしもし?」
『あっ、やだぁ、これあたしのケータイじゃないわ! 間違えちゃったぁ』
「あの、すいません……あんた誰?」
『潮江先輩のかぁ、ごめんごめん』
「……潮江“先輩”? もしかして、北石先生?」

北石照代は、ついこの間から大川学園に来ている教育実習生で、潮江の大学の後輩であるという。担当の教科は英語で、化学教師の潮江とはまったく接点がないが、職員室で楽しそうに会話しているところを、留三郎も何度か見かけた。
その照代が、どうして潮江の携帯に出るのか。まだ飲み会は続いているということなのか。

『そうよ、照代でっす!』
「なんで? 潮江先生は?」
『先輩はねぇ、一緒に帰ってきて、今シャワー浴びてる』
「はああ!?」

だいぶ酔っているらしい照代は、爆弾発言をしたことに気づいていない。
だが、その発言に大いに被弾した留三郎も、頭が真っ白になった。飲み会から一緒に帰って、今シャワーを浴びている。いわゆる“お持ち帰り”というヤツか?

「いやあの、なんかすいません、お邪魔しました……」
『どうしたの、急用? なんか伝えとこーか?』
「いえ、結構で……」
『あっ、先輩出てきた! ちょっと待って、変わるから』
「いやいいです! ちょっ……」

だが照代はまったく聞かず、せんぱーいと呼んでいる声が聞こえてくる。受話器の向こうのさらに遠くから、潮江の声が聞こえた。何を言ったかまではわからない。
この距離が、今の自分たちを表しているのかもしれない。まさかこんな形で浮気現場に遭遇するとは思わなかった。いや、浮気という言い方はこっちが本命だからこその言い方だ。向こうは女だし、若いしかわいいし後輩だし。いやいや、若さでは勝っている。けどでも……

『も、もしもしっ!?』

急に、電話口から潮江の声が聞こえた。焦ったような声だ。

「先生?」
『悪い、すぐ帰るから! ハプニングが続いて…』
「いやいい。いいとこだったのに邪魔してごめん」
『はあ!? お前何か誤解してないか!?』

やだー修羅場?という照代の声がうっすら聞こえ、それに向かって『黙れィ、誰のせいだと思っとるんだ!』と潮江が怒鳴ったのが聞こえた。

『とにかく! すぐ帰るから、絶対そこにいろよ!!』

ピッと慌ただしく通話が切られた。

留三郎はまた画面を眺めた。23:49。たった数分で世界が変わってしまった気がする。
ほんの十分ほど前までは、寂しいながらも幸せに潮江を待っていたはずなのに、今は潮江に帰ってこないで欲しいと思っている。
そうだ、潮江が帰ってきてしまう。「すぐ」と言ったからには、本当にすぐに戻ってくるのだろう。帰らなくては。今にも泣きそうな気分だったが、そんな暇はない。

今は潮江に会いたくない。どんな顔をして会えばいいのかわからない。そもそも自分が今どんな顔をしているのかわからない。

急いで食い散らかしたものを片付け、携帯と財布をポケットに押し込むと、ダウンを着て玄関に向かった。
ああ、どうして今日自分は紐靴なんか履いてきてしまったのか。靴紐を結ぶ時間さえ煩わしい。なんとか靴を履き終えると、アパートの外廊下に出てドアを閉め、もらった合鍵を新聞受けに落とした。
小走りでアパートの階段を降り、1階のアプローチへ出たところで、すごい勢いでシルバーのセダン車が突っ込んできた。轢かれると思ったが、神業のドリフトできゅっと曲がり、留三郎の目の前に横付けした。

驚いた留三郎が言葉もなく見ていると、運転席から潮江が降りてきた。

「帰るなと言っただろうが、バカタレ!」

そう怒鳴ると、乱暴にドアを閉めてキーを操作した。それから留三郎の腕をぐいっと掴む。

「先生、そのカッコ……」

そんな場合ではないのに、留三郎は思わずぷっと吹き出した。潮江は色あせたグレーのよれたスウェットの上下を着ているのだが、その丈が袖も裾もまったく足りておらず、手首と足首が丸見えだ。さらに、茶色いラバーのサンダルをつっかけていて、頭は濡れてぼさぼさのまま、どうみてもくたびれた休日のおっさんだった。

「うるせえ。急いでたから、このまま来ちまったんだよ!」

恥ずかしそうに言いながら、留三郎を引っ張ってアパートの中へ入ろうとする。なんだか気力の削がれた留三郎も、抵抗せずに従った。

潮江の部屋へ戻ると、新聞受けに入った合鍵に気づいた潮江が不機嫌そうに舌打ちしながら取り出した。
リビングに、向かい合って座る。
留三郎がふと時計を見上げると、12時ちょうどを指していた。

「とりあえず話を聞け」
「わかった、けど、あの車どうしたの?」
「安藤先生にお借りしたんだ。ああもう、お前のせいで月曜日は安藤先生をこの車で迎えに行かなければいけなくなったぞ」
「安藤先生?」

ここでどうして安藤先生が出てくるのか。車を借りに行ったにしては、短時間過ぎる。

「だから、お前誤解してるだろ。俺が今までいたのは安藤先生のお宅だ」
「だって、北石先生もいたじゃん」
「北石は安藤先生のお宅に下宿してるんだ」
「え、そうなの!?」
「遠い親戚なんだそうだ」
「へ〜」

意外な人間関係に驚く。
潮江は続ける。

「俺は、今日はお前と約束してるから、ほとんど飲まずにいたんだよ。主役は実習生たちだから、俺が飲んでいようといまいと誰も気にしないしな。だが、2次会まで引きずられて抜け出せなくて、北石がべろべろに酔っぱらって……」思い出しただけで潮江はげんなりした顔をした。

「安藤先生がひとりじゃ連れて帰れないというから、酔っていなかった俺が手伝うことになって、3人でタクシーで安藤先生のお宅に向かったんだが、途中で北石が気分が悪くなって……」

潮江はより一層疲れた顔をした。

「俺の膝に吐きやがったもんだから、安藤先生のお宅で風呂をお借りしてたんだ」
「それは……お疲れさまでした」
「まったくな」

はあ、と大きく潮江はため息をついた。

「なのに、どこぞのバカタレがいらん誤解をするから、安藤先生に無理やり頼み込んで車を借りて、大急ぎで帰ってきたというわけだ」
「ハイ、スミマセン……」

小さくなって俯く留三郎に、潮江は小さく笑ってがしがしと頭を撫でた。

「まあ、その何だ、俺も悪かった。もっと早く帰ってくるつもりだったんだがな。待っててくれたんだろう?」
「それは、まぁ、……」

ごにょごにょと言葉を濁す留三郎に、潮江がさらに追い討ちをかけるように、

「カワイイ嫉妬なんかもしてくれるしな」
「違う、嫉妬なんかしてない!」
「ほう、じゃあこれは何だ? いらんのか」先ほど新聞受けから取り出した合鍵を、留三郎の顔の前でぶらぶらさせる。

「……いる」

留三郎はひったくるようにそれを奪った。
潮江はくくっと笑うと、留三郎を抱きしめた。
留三郎も、それに応えて潮江の背中に腕を回し……かけたが、突き飛ばした。

「いってえ! 何しやがる!」
「うっせぇ! そのオヤジ臭漂うスウェット何とかしろよ!」
「へ? あ、これ安藤先生に借りた……」
「それどうにかしねぇと、朝帰りの不良中年には何もやらねぇからな! おあずけ!」

言い捨てると、留三郎は潮江の寝室に籠もってしまった。
ピシャッと閉められた寝室のドアを眺めた潮江だったが、にやりと笑うと、スウェットを脱ぎながら、留三郎の後を追った。

おわり

2012.01.22


あづさわさま!素敵すぎる文留をありがとうございます!!!!!
これからもどうぞ宜しくお願いします!!^^






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